メトロポリタン歌劇場で《ファルスタッフ》を指揮、注目のダニエレ・ルスティオーニにインタビュー 「METライブビューイング」で5月12日から各地の映画館で上映

ニューヨークのメトロポリタン歌劇場(MET)といえば、世界最高峰のオペラハウスのひとつです。

常に現役トップクラスの歌手をキャストに揃え、贅を凝らした舞台、洗練された演出、全米でも指折りのオーケストラと合唱、オペラを知り尽くした指揮者陣と全てが超一流です。その最新の舞台を映画館の優れた映像と音響で楽しめる「METライブビューイング」は世界的に人気の映像ソフトです。日本では5月12日から、ヴェルディ晩年の傑作である《ファルスタッフ》の上映が始まります。この公演で見事な指揮を披露したダニエレ・ルスティオーニさんにお話を伺いました。聞き手は「美術展ナビ」でもおなじみ、歴史とオペラに詳しい評論家の香原斗志さんです。
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イタリアはミラノ生まれのダニエレ・ルスティオーニ。4月に40歳になったばかりこの指揮者は、着実に巨匠への道を歩んでいる。彼が紡ぐ音楽は細部の表現まで徹底して磨かれ、表情がすこぶる豊かで、それでいてスケールが大きい。
「METライブビューイング」で昨年上映されたジュゼッペ・ヴェルディ作曲《リゴレット》は、全体の造形がダイナミックかつ美しく、細部まで洗練され、音楽の流れは融通無碍で心地よく、ときに衝撃的な、たとえれば(スーパーカーの)フェラーリのような音楽だった。
5月12日からは同じ「METライブビューイング」で、ルスティオーニが指揮したヴェルディの最後のオペラ《ファルスタッフ》が上映される。これがまた活き活きとして、洗練をきわめ、深い。
ヴェルディ《ファルスタッフ》 | 演目紹介 | METライブビューイング:オペラ | 松竹 (shochiku.co.jp)
その公開を前にルスティオーニにオンラインでインタビューし、《ファルスタッフ》の魅力や上演秘話などについて聞いた。
<最初に、ほかのオペラとくらべての《ファルスタッフ》の際立った特徴について聞いた。>
ヴェルディの全作品中、いちばん活き活きとしたリズム
ルスティオーニ(以下R):《ファルスタッフ》はヴェルディが80歳近くなって作曲したのに、リズムが衝撃的なほどダイナミックで、彼がそれまでに書いたどのオペラより活き活きとしています。そのリズムはある意味、ロッシーニのいくつかの喜劇オペラにもたとえられ、それが台本を書いたアッリーゴ・ボーイトの磨き抜かれた言葉と一体になっていて、歌手にとっては歌うのも発音するのも、とても難しいです。
また、アンサンブルが重要で、多くの登場人物が同時に歌う場面が多く、これがまた技術的にもとても難しい。たとえば第1幕第2場。4人の女性が5人の男性と一緒に歌わなければなりませんが、女性たちは3拍子のリズムで歌うのに対し、男性たちは4拍子のリズムで歌います。だから彼らは同じ場所にいるのに、歌っているリズムが異なるので一緒にいないようにも聴こえる。これが難しいのです。
フィナーレに置かれたフーガも難しい。歌手たちはもちろん、オーケストラのどのセッションにとっても技術的に大きな挑戦です。でも同時に、織り上げられた声の絨毯は華麗です。

<これだけ難しいから、《ファルスタッフ》はすぐれた演奏に出会いにくいが、ルスティオーニはこうした困難を乗り越えた先に輝きを味わわせてくれる。>
R:オペラの冒頭の描写的なシンコペーションから、ヴェルディは強い印象をあたえていますが、じつは彼は、《ファルスタッフ》を生まれ故郷サンターガタの小さな空間で上演することを想定して作曲しています。ですから、音楽はしばしば強い一方、室内楽的でもあります。たとえメトロポリタン・オペラやミラノ・スカラ座で上演されても、歌手たちの歌唱もふくめて室内楽的な要素が目立ちます。
たとえば、アリアがいくつかあります。第3幕のフェントンやナンネッタのアリア、第2幕のフォードのアリア、第1幕のファルスタッフのモノローグ……。しかし、これらが歌われる場面でも、ヴェルディは声をまるで楽器のように扱っています。声をリリックに聴かせるそれまでのヴェルディと違って、声がときにオーボエやフルート、ファゴットなどと同じようにもちいられています。
ですから、オーケストラもおのずと室内楽へのアプローチのようになり、声へのアプローチもふくめ、ときに20世紀音楽の合奏のようです。
たんなる喜劇オペラではない
<ルスティオーニの話を聞いていると、《ファルスタッフ》を鑑賞していて覚える愉悦感がなにに由来するのかが、鮮やかに理解できる。>
R:ですから、1番目に重要な要素はリズムと、それが依拠する室内楽的な構成だと思いますが、2番目に大事なのは、従来のヴェルディの特徴を継承しているリリックな場面とリズムとのコントラストです。第1幕第2場のフェントンとナンネッタの愛の二重唱は、混沌とした状況下のオアシスのようで、リリックで表情豊かな要素がリズミカルな要素と対比され、それぞれの要素が際立ちます。
3番目に挙げたいのは、これはたんなる喜劇オペラではないということです。ファルスタッフはとても多面的なキャラクターです。彼は第3幕のモノローグで「自分が死んだら、世の中に真に男らしい男はいなくなる」と歌いますが、ヴェルディはファルスタッフの言葉を借りて自分の人生哲学を語っているのです。ここにヴェルディの最後の言葉を聴くことができます。フィナーレの「世の中はみな冗談だ」という台詞も、彼が人生で得た教訓で、80歳近いヴェルディならではの楽天的な視点です。
第3幕第2場で、ファルスタッフが「みんなに知恵をつけてやっているのは、この私だ、私だ、私だ」と強調するのも、ヴェルディの言葉。それがすべての聴衆に影響し、もっと楽しむように促すのです。

<そのうえルスティオーニが指揮をすると、音楽がエレガントで耳に心地よい。その秘密はどこにあるのだろうか。>
R:エレガンスはヴェルディの音楽が高貴であることの結果です。そのためには指揮者も歌手も高貴でなければなりません。エレガンスはイタリア語によるフレーズと、オーケストラや歌手たちの演奏によって表現され、それを表せるかどうか、指揮者が彼らにどれだけ心を開くかをふくめ演奏する側のチーム力が問われます。
また、ヴェルディはバッハやモーツァルト、ベートーヴェンと同様、音楽の救世主ではないでしょうか。そういう作曲家の音楽には、解釈を超えて現れるものがあります。そのひとつがエレガンスでしょうね。
アンサンブルをまとめあげる指揮者の力量
<アンサンブルが重要でリズムに難しさがある《ファルスタッフ》。言葉が美しく発せられなければ上質な演奏にならないはずだが、メトロポリタン・オペラの《ファルスタッフ》にはイタリア人の歌手がほとんどいなかった。それなのに、これだけすぐれた演奏を聴かせることができた秘訣はどこにあったのか。>

R:ファルスタッフ役のバリトン、ミヒャイル・フォレはすばらしかった。彼は6月にフィレンツェ5月音楽祭でも、ダニエレ・ガッティの指揮でこの役を歌います。
たしかに、《ファルスタッフ》はボーイトによる台本の言葉が難しく、言葉に応じて音楽や音楽的色彩、声で表現すべき色彩が変化し、ある種の言葉が登場人物のキャラクターまで変化させます。だから、上演する際は困難も仕事量も通常の2倍必要です。メトロポリタン・オペラのプロダクションでは、イタリア人は私のほか医師カイウス役のカルロ・ボーシだけ。しかし、バルドルフォにしてもピストーラにしても、とても難しい役です。
でも、だからこそおもしろい。それだけ指揮者の役割が重要だからです。多くの登場人物をひとつにまとめながら、歌手たちの言葉を際立たせ、そこに色彩を加えさせるのは私の責任です。台本が独特であるだけに、イタリア人のキャストで上演するとくらべたら難しいですが、挑戦しがいがあります。
<そんななかで、とくに印象に残った歌手はだれだったのか。>
R:全体に満足しました。いうまでもなくフォレは声楽的にも解釈のうえでもすばらしい仕事をしました。加えて3人の歌手を挙げたいです。アリーチェ役のソプラノ、アイリーン・ペレスには大満足です。また、クイックリー夫人役のマリー=ニコル・ルミューは、非常に魅力的なキャラクターを演じました。彼女の声はコントラルトというより深いメゾ・ソプラノで、楽しく存在感のある役作りでした。それからフェントン役のテノール、ボグダン・ボルコフは、第3幕第2場のアリアを私が望んだように歌ってくれて、音楽的な満足度が高かった。もちろん、ほかの歌手たちもみな優れていました。

すべてを記憶し言葉に合わせてテンポを設定
<《ファルスタッフ》はこれまで、数々の偉大な指揮者たちが指揮してきたが、先輩たちと異なるルスティオーニならではの特徴をあえて指摘するなら、どういう点だろうか。>
R:これまで10か11のプロダクションで《ファルスタッフ》を指揮してきましたが、3つ目までは、指揮する難しさにショックを受けていました。最初は技術的なことに集中し、歌手たちをひとつにまとめるので精いっぱいで、音楽を淀みなく流すことに追われ、ヴェルディの哲学や楽しさというところまで意識が回りませんでした。

でも、4つ目からは前進して、もっと楽しむようになり、いまではリハーサルも本番もすべて暗譜で行っています。というのも、《ファルスタッフ》はいま、私のキャリアのなかでいちばんたくさん指揮したオペラなのです。技術的な困難を乗り越え、言葉に寄り添った各場面の楽しさに焦点を当てています。たとえば音楽のテンポにしても、正しいテンポは言葉の楽しさや味わいによって決まります。私は台詞をみな記憶し、イタリア語の台詞が活きるようにテンポを設定している。それが私の特徴でしょうね。
もちろん、私のこうした解釈は、トスカニーニ、モリナーリ=プラデッリ、ムーティ、カラヤンというといった巨匠たちの解釈の伝統のうえに築かれたものです。
<最後に日本の聴衆へのメッセージを聞いておこう。2014年に初来日し、東京二期会の《蝶々夫人》を指揮し、その後は同《トスカ》や東京交響楽団の定期演奏会などで何度か来日したが、コロナ禍で途絶えてしまった。それは残念だが、そのあいだにルスティオーニの存在感は世界でどんどん大きくなっている。>

R:最後に来日してかなり月日が流れてしまい、日本と日本のみなさんが恋しいです。現状では2026年1月にコンサートで来日する予定です。現在、コロナ禍の期間のリカヴァリーもあってすごく忙しいですが、できるだけ早く来日したという思いは強いです。それまでのあいだはメトロポリタン・オペラの《リゴレット》や今度の《ファルスタッフ》で、映像をとおしてお目にかかれれば、と思います。(聞き手・香原斗志)
ダニエレ・ルスティオーニ 1983年、ミラノ生まれ。リッカルド・ムーティに憧れて指揮者に。イタリアで学んだのちアントニオ・パッパーノの助手を務め、2011年に英国ロイヤル・オペラで《アイーダ》を指揮して頭角を現す。METやミラノ・スカラ座など主要歌劇場のほか、ザルツブルク音楽祭など主要歌劇場で最も重要な指揮者の一人と評価されている。リヨン歌劇場音楽監督、アルスター管弦楽団音楽監督、トスカーナ管弦楽団音楽監督。2022年、オペラのアカデミー賞といわれるインターナショナル・オペラ・アワードで年間最優秀指揮者に選ばれる。日本では東京二期会の《蝶々夫人》《トスカ》が絶賛されたほか、東京都交響楽団、東京交響楽団にも客演している。
(おわり)