【探訪】「佐伯祐三―自画像としての風景」短くも濃密な天才画家の生涯をたどる

大阪中之島美術館(大阪市)の特別展「佐伯祐三―自画像としての風景」が4月15日から6月25日まで開催されている。早世した洋画家、佐伯祐三(1898~1928年)は大阪で生まれ、パリで才能を開花させた。わずか4年余りの本格的画業の中で独自の風景画を確立し、後世に多大な影響を与えた。短くも濃密な天才画家の生涯をたどる。(読売新聞大阪本社文化部 淵上えり子)
早世の天才画家・佐伯祐三、パリで独自の表現模索
佐伯の生家は大阪・中津の古刹、光徳寺。再開発で辺りは様変わりしたが、今も熱烈なファンが墓参りにやって来る。兄・ 祐正の孫、佐伯祐善住職は「祐三は虫1匹も殺さない殺生嫌いだったそう。命の無常が身に染みていたのか、小さな阿弥陀さんを置いたパリのアトリエの写真が残っている」と話す。
大阪府立北野中(現・府立北野高)時代には野球やバイオリンに熱中した。一方、身なりには無頓着で、ずぼらな性格から「ずぼ」のあだ名で呼ばれたという。水彩画が得意ないとこの影響で絵を学び始めたのもこの頃。梅田の画塾に通い、洋画家を志すようになった。
東京美術学校(現・東京芸術大)卒業後、西洋画の本場パリを目指す。渡仏を控えた1923年9月、関東大震災で渡航用の荷物は全焼した。それでも意志は揺るがず、11月に妻子らと神戸から出航し、24年1月に憧れの街に到着した。
転機となった有名なエピソードがある。その年の初夏、先輩画家の里見勝蔵に案内されてフォービスム(野獣派)の巨匠ブラマンクのアトリエを訪ねた。渡仏後に仕上げた「裸婦」を見せるなり、巨匠は「アカデミック!」と一喝。「型通り」と批判されショックを受けた佐伯は、表現方法を模索し始める。

それまではセザンヌ、ルノワールらの絵を研究していた。原点を見つめ直すためか、立て続けに自画像に取り組んだ。「立てる自画像」は顔の部分が削り取られて黒くなり、深い苦悩とともに気迫が表れている。秋から冬にかけては郊外に写生旅行に出かけ、年末にはモンパルナス駅の南側に転居し、周辺の下町風景を描くようになった。

「コルドヌリ(靴屋)」はアトリエの階下にある店舗を正面から描写。絵の具を塗り重ねて質感を出した白壁と、半開きの扉から見える暗い作業場が好対照をなす。佐伯は興味を持った題材を繰り返し描くことがあり、同じ構図とされる作品は公募展サロン・ドートンヌに入選し、ドイツの絵の具店が買い上げた。
大阪中之島美術館の高柳有紀子主任学芸員は「絵の対象としてパリの街を『発見』したことが決定的な変化につながった。元々デッサン力のある画家が、25年以降は視覚で捉えたものをしっかりと描きとるようになった」と評する。

手応えをつかんだものの、健康面では不安を抱えていた。25年秋には、親友の山田新一に手紙で体調を崩したことを伝えている。家族の助言もあり、26年1月、佐伯は帰国の途に就いた。自宅のある東京・下落合(現・中落合)の風景画、大阪で「滞船」シリーズを手がけたが、日本では思うように制作が進まなかった。やがて再びパリへの憧れが募っていった。
2度目のパリで「傑作」次々と
27年8月、佐伯はパリに戻り、むさぼるように絵を描いた。再渡仏から5か月足らずで「百七枚目の絵をかいた」と、先輩画家の里見に宛てた手紙には記されている。
下町の風景を主な題材にしたのは、24年から2年間の第1次パリ時代と共通しているが、画家の興味は変化したようだ。古びた建物に相対して壁の質感を表現した絵から、街路樹の枝や屋外広告の文字を躍るような線描でとらえる絵へと軸足は移っていった。

代表作の一つ「ガス灯と広告」は、街角に貼り重ねられたポスターが画面の中心を占める。ポスターの文字は素早い筆致でリズミカルに描き込まれ、渋い色で塗られた壁から浮かび上がって見える。佐伯は自らの作品についてほとんど書き残していない。明確な創作意図は分からないが、面よりも線に関心が向いていたことがうかがえる。
「リュクサンブール公園」「レストラン(オテル・デュ・マルシェ)」でも黒い縦の線が目を引く。それらはどこか一時帰国中の日本で描いた「滞船」シリーズの帆柱やロープを思わせる。
高柳主任学芸員は「日本での模索を経て、新たな視点を得たのではないでしょうか。以前は目に入ってこなかった線が、2度目のパリでは見えてきたのかもしれない」と指摘する。

後に傑作と呼ばれる作品が次々に生まれた。一方で、佐伯は仕事に行き詰まりを感じていたという。28年2月、新たなモチーフを求めて後輩の荻須高徳、山口長男らとパリ郊外のヴィリエ=シュル=モランへ写生旅行に出かけ、素朴で力強い風景画を手がけた。山口は「皆が描いて来ると(佐伯は)その日の出来に等級をつけて 呉れた。そしていつでも自分のものは二、三位以下にして考え込んだ」と回想している。
佐伯は体調が万全でない中、寒風吹きすさぶ屋外で制作を続けた。自分に残された時間が多くないことを、まるで知っているかのようだった。
命削って描いた最高の自信作 「黄色いレストラン」と「扉」
写生旅行からパリへ戻った佐伯は、雨の日に屋外で制作を続けて風邪をこじらせた。28年3月末には喀血。以後、再び筆を執ることはなかった。

親友の山田が見舞いに訪れると、佐伯はふと目を覚まし、最後に屋外で描いた「黄色いレストラン」と「扉」について、「ぜったい売ったりしないように厳に君にたのむよ、あの2枚だけが僕の最高に自信のある作品なんだよ」と話したという。
両作品は建物の扉を正面からとらえている。「黄色いレストラン」は頑丈そうな黄土色の扉をどっしりと描写。壁には文字が躍るポスターが飾られ、2度のパリ滞在の成果が表れている。自作に辛口評価だった佐伯が、合格点を付けたのは希有なことだった。
心身の衰弱は目に見えて進んだ。病床を抜け出して失踪したこともあり、6月には精神科病院に入院した。家族や仲間の看病もむなしく、同年8月16日、息を引き取った。30歳だった。
もっと長く生きたらどんな絵を残しただろうか。そんな想像を巡らせる人は少なくないだろう。だが、兄・ 祐正の孫、佐伯祐善さんは「ずっと健康だったらあんな絵が描けたかどうか。明日をも分からない命だったからこそ、必死になったんやと思う」と推し量る。

佐伯亡き後、作品は数奇な運命をたどる。32年頃、大阪の実業家、山本發次郎のもとに画商が「煉瓦焼」など3点を持ち込んだ。当時はほぼ無名の画家だったにもかかわらず、「それ以来、ただもう有頂天になって、手の届く限り熱心に 蒐めにかかりました」と山本は書き残した。佐伯の絵の魅力について、「線の旨味 、殊にその強さと枯淡さ」が良寛、白隠ら高僧の書画に共通するともつづった。
約5年で主要作品を集め、コレクションは約150点にも達したという。しかし、そのうち約100点は45年の空襲で焼失。他の作品はその直前に岡山に疎開させて戦災を免れた。今も人気の高い「郵便配達夫」も決死の覚悟で守り抜かれた作品の一つだ。
時は下って83年、佐伯作品33点を含む山本の美術コレクションは遺族によって大阪市に寄贈された。このことが大阪中之島美術館の建設の契機となり、 紆余曲折を経て昨年の開館につながった。画家が命を削って描いた作品は、「佐伯の芸術を永遠に世に問い続ける」という使命とともに脈々と受け継がれている。
洋画家・野見山暁治さんに聞く
文化勲章を受章した洋画家の野見山暁治さん(102歳)は、佐伯祐三に影響を受けたという。その魅力を語ってもらった。

僕は佐伯祐三の絵のとりこです。佐伯が生み出す絵は彼だけが表せる不思議な世界で、画面から訴えてくるものがある。
初めて知ったのは福岡県から17歳で上京して間もなく、国元から送ってもらったお金を握って靴を買いに行った時のこと。古本屋に佐伯の立派な画集が飾ってありました。中を見てびっくり。世の中にこんな絵があるのかと思って、矢も盾もたまらず買いました。靴は買えなかったけど、はだしのままでいいから手に入れたかった。
パリ留学中にも忘れられないことがあった。ファーブルの『昆虫記』の訳者、椎名其二さんの家に古びたブリキの小箱がありました。その色合いが「佐伯祐三の絵みたいだな」と言ったら、椎名さんは「これは佐伯君が使っていたものだ」と教えてくれた。彼は佐伯を世話していた仲間の1人で、遺品を持っていたのです。
思い出話を色々聞きました。亡くなる前、病身の佐伯は雨が降っても絵を描きに出かけたそうです。椎名さんが入院するよう叱っても「嫌だ」と言って。「自分の命のことは考えていなかった」と話していたのが印象に残っています。
ブリキの箱は僕がもらったのですが、しばらくして知人に譲りました。本気で欲しがっていたから。それで良かったと思っています。僕が佐伯の絵を好きなことに変わりはないから。
開館1周年記念特別展「佐伯祐三 ー 自画像としての風景」 |
---|
大阪中之島美術館 5階展示室 (大阪市北区中之島4-3-1) |
会期:2023年4月15日(土)~6月25日(日) |
開場時間:10時~17時(入場は16時30分まで) |
休館日:月曜日(5月1日を除く) |
観覧料:一般1800円/高大生1500円/小中生500円 |
詳しくは、公式サイト(https://saeki2023.jp/) |