【レビュー】「幕末土佐の天才絵師 絵金」 類まれな個性と魅力を味わう貴重な機会 あべのハルカス美術館 6月18日まで

幕末土佐の天才絵師 絵金 |
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会場:あべのハルカス美術館(大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1-43 あべのハルカス16階) |
会期:2023年4月22日(土)~ 6月18日(日) |
開館時間:火~金 / 10:00~20:00 月土日祝 / 10:00~18:00(入館は閉館30分前まで) |
休館日:4月24日、5月8日、22日の各月曜日 ※会期中、展示替えあり(前期4/22~5/21、後期5/23~6/18) |
入館料:一般 1,600円/ 大高生 1,200円/ 中小生 500円 |
詳しくは、展覧会公式HP |
あべのハルカス美術館で「幕末土佐の天才絵師 絵金」展が開催中です。幕末から明治初期にかけて、数多くの芝居絵屏風や絵馬提灯、五月の節句の幟などを手掛け、地元高知(土佐)で、「絵金さん」の愛称で長年親しまれてきた絵師・金蔵。中年以降の確かな史料が全く残っていないため、謎の天才絵師として知られています。本展は、高知県外では半世紀ぶりの大規模展になります。
1996年と2012年に高知県立美術館にて、大規模な絵金展を開催していますが、現存する約200点の芝居絵屏風のほとんどが神社や自治会、町内会、公民館などに分蔵されているため、まとまった形で絵金の作品を観ることができる大変貴重な機会です。本展では、代表作をはじめ約100点の作品から、絵金の類稀なる個性とその魅力を知ることができます。
高知の生活に溶け込んだ絵金

高知各所では、夏祭りの数日間、絵金の屏風を飾る風習があります。闇の中、神社境内や商店街の軒下に提灯や蝋燭の灯りでおどろおどろしい芝居の場面が浮かび上がります。「夏祭りに夕立が来たら、屏風より先に提灯を片付けた」と昔ばなしされるほど、高知の人々の生活に溶け込んでいる絵金の屏風。近年、絵金の画業は再評価され、作品を保存・研究・展示する環境が整ってきました。
謎の天才絵師、絵金

「絵金」は「絵師の金蔵さん」の略称・愛称であり、本人が名乗った名前ではありません。
文化9年(1812)、高知城下・新市町(現・はりまや町)の髪結いの子として誕生したと伝わります。幼いころから画才があった金蔵少年は、同じ町内の南画家・仁尾鱗江(におりんこう)に絵の手ほどきを受け、後に土佐藩御用絵師・池添楊斎(いけぞえようさい)に学びました。
文政12年(1829)18歳の時に江戸にのぼり、駿河台狩野派系の土佐藩御用絵師・前村洞和(まえむらとうわ)の下で3年間修業。帰郷後、土佐藩家老・桐間家の御用絵師となり、藩医であった林姓を買い取って、林洞意(とうい)を名乗ります。当時としては、町人からの大出世でした。ところが、33歳の頃、林姓と御用絵師の身分をはく奪され、城下を追放。贋作事件に巻き込まれたとの言い伝えもありますが、定かではありません。
以降、町医者の弘瀬姓を買い取り、弘瀬柳栄(りゅうえい)となり、後には雀七と改めています。また、友竹、友竹斎、晩年には雀翁など、多数の画号を使用しました。
金蔵や弟子筋の手によると思われる芝居絵屏風や絵馬提灯は多数残っていますが、中年以降、いつ頃どこで仕事をしていたのか、確かな史料が全く残っておらず、そのことから、謎の天才絵師と言われています。
本展は、[第1章]絵金の芝居絵屏風、[第2章]高知の夏祭り、[第3章]絵金と周辺の絵師たち の3章構成で謎の絵師「絵金」に迫ります。
[第1章]絵金の芝居絵屏風

高知県下では、約200点の絵金の芝居絵屏風類が現存しています(2013年に絵金蔵運営委員会が発行した報告書による)。神社の夏祭りで使用されてきたため、一部がミュージアムに収蔵されている他は、神社、公民館、氏子たちによる自治会、町内会などにより現在も管理されています。

第1章では、絵金の基準作・最高傑作として名高い香南市赤岡町の4つの地区が所蔵(絵金蔵所管)する芝居絵屏風を展示。絵金が亡くなった明治9年(1876)以降も絵金の芝居絵の文化は継承され、昭和に入ってからも夏祭りのために芝居絵屏風を新たに作ったと伝えられています。そのため、残された屏風の画風には、絵金風ながらも弟子や孫弟子たちの様々な個性が見られます。
また、御用絵師であった絵金らしい故事人物を狩野派の画風で描いた作品、芝居の物語や年中行事の絵巻、安政1年(1854)に土佐を襲った大震災を描いた画帖の下絵など、芝居絵屏風以外の多様な作品も紹介されます。
[第2章]高知の夏祭り

高知の夏祭りの風習と切り離せない絵金。第2章では、神社の絵馬台を展示室に再現し、さらに、高知の夏祭りを彩るもうひとつの風物である絵馬提灯を展示することで、高知の夏祭りを追体験できます。
毎年7月24日の高知市朝倉・朝倉神社の夏祭りでは、参道をまたぐ山門型の絵馬台が6台組み上げられ、拝殿に向かって整列する様子は壮観です。行燈絵とも呼ばれる絵馬提灯は、毎年新調されるものであったため、現存するものは非常に少なく、「釜淵双級巴(かまがふちふたつどもえ)」24点は、近年発見された作品です。

絵金の芝居絵屏風を神社の夏祭りに飾る風習がいつ頃始まったかは定かではありません。安政5年(1858)の年記のある屏風の保存箱が確認されており、残された屏風の数からみても江戸時代末頃から相当流行したと考えられています。
現在、約10か所の神社で、昔ながらに屏風を絵馬台(台提灯)に飾る夏祭りの風景を見ることができます。しかし、運営する氏子たちの高齢化や屏風の状態の劣化などの理由により、年々減少しています。
[第3章]絵金と周辺の絵師たち

絵金夫妻の墓(友竹斎夫婦墓)は、高知市薊野(あぞうの)の山腹にあります。その碑文には、「門人や業(わざ)を受けた者、数百人が其の筆法を世に行う」(原文は漢文)と記載されています。第3章では、屏風や絵巻・軸物以外の絵金の作品と、絵金と深い関わりのあった絵師の作品から、数多くの門弟を輩出した絵金の業績をたどります。
明治9年(1876)、65歳で亡くなった絵金。1966年に雑誌『太陽』で特集されたのを契機に、「絵金」は小説・舞台・映画になるなど、一時ブームとなり、1970年前後には東京、大阪の百貨店などで絵金展が開催されました。本展は、高知県外で絵金の作品や生涯に触れるまたとない機会です。