【レビュー】「山の季節 田淵行男写真展」6月25日(日)まで田淵行男記念館で

山の季節 田淵行男写真展
会場:田淵行男記念館(長野県安曇野市5078-2 ℡0263-72-9964
会期:202334(土)~625日(日)
開館時間:午前9時~午後5時
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は開館)、祝日の翌平日
観覧料:高校生以上310円(中学生以下、満70歳以上の安曇野市民は無料)
館公式サイト:http://tabuchi-museum.com/
安曇野ゆかりの田淵行男を顕彰する「田淵行男記念館」

山岳写真と高山蝶研究に捧げた生涯

北アルプスを望む信州安曇野に生きた山岳写真家、田淵行男。彼の写真集「山の季節」に掲載された作品や文章を紹介する「山の季節 田淵行男写真展」が田淵行男記念館で開かれている。田淵は高山ちょうなど昆虫の生態研究家としての業績も厚い。そんな田淵と親交が厚く、跡を継いで昆虫の研究や写真撮影に注力する地元の自然保護活動家、那須野雅好さん(63)の写真展(64日まで)とあわせて紹介する。

田淵行男 常念一ノ沢にて 1955年撮影 田淵行男記念館所蔵

 自然に対する心情が表れる

田淵は明治381905)年、鳥取県の自然豊かな村に生まれた。幼少期に両親を亡くし、台湾にいた親戚に預けられるなど過酷な体験を味わったが、いつも蝶などの昆虫に慰められ、それを得意の絵に描いていたという。帰国して東京高等師範学校(現・筑波大学)で博物学を学び、富山県や東京で教員生活を送るあいだに登山やカメラを覚えた。日本映画社に身を置いていた太平洋戦争末期、安曇野に疎開し、終戦を迎えたが、東京には戻らなかった。安曇野の山々と自然、生き物に魅了されたからだった。

田淵愛用のカメラやレンズ

プロ写真家としてのデビューは昭和251950)年。撮りためた写真でこつこつと手作りしていた「山のアルバム」が写真誌編集長の目にとまったことがきっかけだった。写真が誌上で発表されると大きな反響を呼び、以降、次々と写真集を世に送った。中でも本展テーマの「山の季節」は、写真やエッセイなどに自然と対峙たいじする田淵の心情がよく表れた代表作の一つと言われている。

写真や文章のほか、田淵が使ったテントなどが並ぶ展示会場

モノクロにコントラストの妙

26作品を展覧する前に館の澤田龍太郎学芸員(48)に田淵の山岳写真の特徴を聞いた。「私たちヒトの目は錐体すいたい細胞と桿体かんたい細胞の二つの細胞で光を感知、認識しています。錐体細胞は色、桿体細胞は明暗を識別します。本来、目で見るという行為ではこれらの細胞を選別して運用することはできませんが、田淵はイメージという手法によってこれを可能にしたようです。カラーで見た景色の中に、桿体細胞のみをフルに活用した景色をイメージしているのか、田淵のモノクロ写真は見事なコントラストによって表現されているのです。経験からくる勘と言えばそれまでですが、多分に素にある観察眼とセンスが人並み以上に長けているように思われます。それは田淵の写真から一目瞭然です」。澤田さんのこの説明のおかげで鑑賞の視点が定まった。

さあ会場を巡ろう。引き続き、澤田さんに解説をお願いした。ここでは目を引いた作品をピックアップし、田淵本人の文章も添える。

 冬の終わりと春の伝播を表現

「コブシ 春の北安曇野」撮影年不詳 田淵行男記念館所蔵

「春の訪れを告げる花として田淵が好んで題材としたコブシ。田淵は『遠くで眺めると白い鳥が休んでいるように見えたり、白い蝶が群れとんでいるような幻想に誘われたりすることもある』と語っています。何気ない里の風景ですが、画面の3分の2をコブシの花々が飾り、それは空に向かって伸びています。遠景には雪を頂いた山がわずかに入り込んでいます。長い冬が幕を閉じ、春が伝播していく姿を見事に表現しています」

 動物をとらえるレンズに集中力

「雷鳥のラッセル 八方尾根」1964年 田淵行男記念館所蔵

「雪と岩場の斜面が右下へ流れ、いずれ全てが一点に集約されていくようなパース構成のなかに、それに逆らうかのように顔を出す雷鳥。その黒く丸いフォルムは、この画面の中で雷鳥だけが生を感じさせます。山や植物と違い、動物は一瞬の動作で表情が変わります。田淵の集中力が窺えます」

時ならぬ物音にふり返ると
陽の中でゆれている岳樺
今しがた
雪の重石をはねのけて立ち上がった梢からざらめ雪が
こぼれる
昼近い八方尾根
明るい五月の山
汗をふいて休む目の前を
雷鳥が一羽
雪の斜面につまずきながら登っていく
私も山靴を足首まで沈ませながら
唐松小屋へ
雷鳥のラッセルをたどる

(田淵行男著「山の季節」より)

表情ではなく物語を切り取る

「暮れゆく五竜」1968年 田淵行男記念館所蔵

「八方尾根第一ケルンから見た五竜です。『山の季節』の中で田淵は『原則的に私はむき出しになった山の姿に感心しない』と言い切り、このアングルについて『稜線の適度な遮蔽が効いて、眺めに厚味と余韻をもたらしている』と説明しています。夕陽に照らされた五竜と、影となった稜線、さらに灌木にわずかにまとう夕陽の残照が幾重にも重なってコントラストのハーモニーを奏でています。カラー写真ですが、田淵のモノクロ写真に通じた緊張感のある画面構成に目を引きつけられます。この瞬間を狙っていた田淵の物語が感じられます。田淵作品の秀逸なところは、山の表情を切り取るのではなく、そこにある物語を切り取る点でしょう」 

豪放、繊細、端正、清楚

「コバイケイソウ」1966年 田淵行男記念館所蔵

「田淵は『造形性のすぐれ、カメラの題材として面白い』と述べ、コバイケイソウとキヌガサソウを高山植物の両横綱と呼んで撮影しました。花としてのコバイケイソウを撮影するうちに博物学者としての田淵のクセが出て、年間を通じて撮影を試みます。この若芽のコバイケイソウは自然の中にある紋様(パターン)として田淵の心を掴んだに違いありません。『豪放で、繊細で、端正で、清楚な、私の山のモチーフ』と讃えています」

黄色い角が 雪のなかからのびてゆく 春の天狗原
緑の手毬が 枯草の中でふくらんでいく 初夏の蝶が岳
白い毛槍が お花畑に並んでいた 真夏の雪倉湿原
青い果が 霧の中でつぶやいていた 初秋の弓折岳
空になった莢が 雪の中でふるえていた 奥丸山稜線
豪放で 繊細で
端正で 清楚な
私の山のモチーフ
私の季節のフォルム
私が山で見つけるコバイケイソウ

(田淵行男著「山の季節」より)

センスと緻密な構成で新境地

「朝の山 白馬小蓮華」1968年 田淵行男記念館所蔵

「白馬大池付近から眺めた蓮華岳の朝。朝日によって影となった手前谷筋と朝日に照らされた残雪が画面中央を境に対照的な表情を見せています。併せて尾根筋から奥へ落ちていくパースと、水平に伸びる雲が画面に広がりと面白味をあたえています。刻々と変わる山の表情のなかからこの一瞬を切り抜くセンスと、この画面構成の緻密さが、新しい山岳写真として広く認知されていきました」

「自然の面白さを子どもたちに」遺志引き継ぐ

田淵が描いた高山蝶の細密画

晩年の田淵は不治の難病に冒されながら、1989年に死去するまで本をつくり続けた。翌年、田淵を顕彰する田淵行男記念館が開館し、田淵の作品約73,000点を今に伝えている。写真だけでなく、愛用のカメラに登山道具、高山蝶の細密画や標本、出版物なども多数含まれ、田淵の全人生がわかる展示構成となっている。

子ども向けに掲示されている田淵行男の紹介文

田淵が自然保護や自然教育に関して遺した言葉も多い。その一つ、「自然から読み取り学ぶ知識がもっとも正しい」という教えを引き継いだのが、じかに田淵の薫陶を受けた安曇野市三郷地区在住の那須野さんだ。同市の教育・文化行政に長く携わった那須野さんは「子どもたちに生きた昆虫を見せてほしい。自然の面白さを伝えてほしい」と願った田淵の遺志を胸に、91年、地元の子どもたちを集め、自然観察サークル「三郷昆虫クラブ」を結成。一緒に野山で昆虫を追いかけている。今年のクラブ員は小~高校生あわせて21人。33年通算では約200人を数える。

安曇野の森で子どもたちと昆虫観察をする那須野さん(中央奥)(那須野さん提供。1998年、中田信好さん撮影)

那須野さんの今回の写真展のタイトルは「飛翔 ~鳥と虫の羽ばたきの世界~」。本人が厳選した、昆虫や鳥が飛ぶ瞬間の写真23点を展示している。その中の3点を紹介する(いずれも那須野さん所蔵)。

安曇野市天然記念物「安曇野のオオルリシジミ」
「柿ホバ」を撮るⅡ ~エナガ~
キリギリスのハンター~クロアナバチ~

 「自然との触れ合いが環境への関心に」

同館は北アルプスの雪解け水が湧き出るワサビ田の上に立ち、水辺の草花や集まってくる昆虫を観察できるようになっている。那須野さん同様、田淵の遺志に従い、子どもたちの自然研究に貢献しているわけだ。館内の壁に見学にきた小学生からの感謝の寄せ書きがあった。「蝶に興味を持ちました」「田淵行男はすごい人だと思いました」。こんなメッセージから、子どもたちが同館でのいろいろな発見に目を輝かせている様子が想像できる。

「ここで小さな自然と触れて知った感動が、子どもたちの関心を身近な環境問題へと導いてくれます」。澤田さんはこう強調した。彼らの中から田淵や那須野さんに続く人材が出現するだろうと期待してしまう。

「ワサビ田には北アルプスの伏流水が湧き出ています」と話す澤田さん

取材の最後にワサビ田を覗いてみた。湧き水は春の陽光に輝いていたが、あくまで冷たく、触れた指を凍えさせた。安曇野を渡る風で乾かしていると、ふいに緑のあぜの中から黄色いはねの蝶が舞い上がった。視線で追いかけた先の高い空でトンビが鳴き、遠くに残雪の常念岳が見えた。田淵が聞けば苦笑し、子どもたちは理解に苦しむだろうが、これだけで童心に帰り、感動すら覚えてしまった。

(ライター・遠藤雅也)