【レビュー】「横山大観展 ~語る大観、語られる大観」水野美術館 言葉と作品が映し出す等身大の“巨匠”の姿 5月28日まで

横山大観展 ~語る大観、語られる大観
会場:水野美術館(長野市若里6‐2‐20)
会期:2023年4月8日(土)~5月28日(日)
開館日時:9時30分〜17時30分(最終入館17時00分)
休館日:毎週月曜日
入館料:一般1,200円、中・高生700円、小学生400円
同館公式サイト:https://mizuno-museum.jp/

言葉に着目、大観のリアルな姿を探る

日本画の巨匠、横山大観(1868ー1958)。1937年に制定された文化勲章で日本画家初の受章者に選ばれるなど、その存在感は今もって圧倒的なものがあります。大観はその長期にわたった画業もあって、自叙伝やインタビューなど本人の言葉が数多く残された画家です。また周囲やメディアなどから毀誉褒貶含めて様々な形で語られた人でもあります。本展では初期から晩年の約70点の大観作品とあわせて、大観をめぐる様々な言説を取り上げるユニークな企画です。「巨匠」というありきたりの形容では勿体ない、一層魅力的な姿が行間から立ち上ってきます。膨大な一次資料にあたったであろう学芸員さんに感謝したい企画です。(美術展ナビ編集版 岡部匡志)

長野市の水野美術館
会場のビジュアルも印象的です

クライマックスは「言葉」の巨大ボード

総展示数は前・後期合わせて89点(大観以外も含め)という充実の内容。《無我》、富士を描いた作品など名作がたくさん楽しめる展覧会ですが、一番の見どころは順路のほぼ真ん中に設置された、この巨大なボードかもしれません。

大観本人の言葉は赤、第三者が彼を評した言葉が青で書かれています。大観がいかに様々に「語り、語られ」てきたを実感できます。それぞれに共通するのは、「熱量」でしょう。とにかく語り口が「熱い」のです。大観のキャラクターが伺えます。

展示は大観の生涯に沿って5章からなり、おおむね時代順に進んでいきます。各章に「言葉」をメインに据えた大きなバナーや、コラムが展示されていて、ついつい読みふけってしまいます。

展覧会場の冒頭には観山との豪華な共作。きらびやかでワクワクします。作品解説に制作年月日だけでなく、当時の大観の年齢もあるのが嬉しいです。

横山大観、下村観山《三保松原・三保富士》明治44年(1911年)頃(大観43歳頃、観山38歳頃) 水野美術館蔵

(1)画業の始まり~春草と生きた時代

朋友・菱田春草との研鑽によって生み出された新しい表現。一方で風当りは強く、苦難の連続でした。大観といえば、という「朦朧体」が揶揄を込めたネーミングだったというのは有名な話ですね。

水野美術館の日本画のコレクションを代表する逸品、《無我》もじっくり味わえます。

《無我》明治30年(1897年)(29歳) 水野美術館蔵

(2)中国への憧憬~画題・水墨表現

中国の古典やモノクロ世界に込めた思いが熱く語られます。

このコーナーも見応えのある作品の連続です。中国文化への傾倒ぶりがよく分かります。

《江山春景》明治42年(1909年)(41歳)水野美術館蔵 【前期展示】

周茂叔は宋代の儒学者で、大観が好んで描いた画題。今回の展示作は水野美術館の新収蔵作品で公開されるのは初めてです。

《周茂叔》大正4年(1915年)(47歳)水野美術館蔵

大観と水墨表現といえば、現在、東京国立近代美術館で開催中の「重要文化財の秘密」(5月14日まで)に展示されている《生々流転》が話題ですが、大観がいかに墨にこだわったのか、ということがわかるコラムも。思わず読みふけってしまいます。

大観の愛用した墨 個人蔵

(3)古典からの影響と展開~琳派・新南画の流れ

早い時期から琳派への関心が高く、研究もしていた大観。その成果がよく分かります。

好みはもちろんあると思いますが、単体として最も見ごたえるのある作品が揃ったコーナー。様々な技法を自在に使いこなした大観のアーティストとしての器の大きさに改めて感嘆します。

《柿紅葉(習作)》大正9年(1920年)(52歳)横山大観記念館蔵

「これが習作?」と驚きます。確かに描きかけの部分も残っています。よく探してみたらいかがでしょう。

《百合花》大正15年(1926年)(58歳)水野美術館蔵 【前期展示】

西洋絵画的なだまし絵風の手法を使った作品。琳派の影響もみてとれ、和洋の技巧を自在に操っています。人気の逸品。

(4)晩年の大観~戦争の影とともに

戦時の激動の時代、大観はひたすら描き続けることで国に報いる、という姿勢を明確にしました。戦後も創作に対する情熱は冷めることはありませんでした。終生のモチーフとしてきた富士の作品がやはり印象的です。

《霊峰富士》昭和30年頃(1955年頃)(87歳頃)水野美術館蔵

最晩年の富士。見事です。

「堂々男子は死んでもよい」から見えてくるもの

(5)画家たちと大観~交流からうまれたもの

ここでは大観と画家たちの交流ぶりにスポットを当てます。

このコーナーで紹介されている歌は、大観をめぐる「言葉」の中でも、とりわけ印象に残るものでしょう。

「谷中鶯 初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい 気骨侠骨 開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい」

岡倉天心が日本美術院の創設時に作ったという院歌です。「堂々男子は死んでもよい、というところに来ると、人生意気に感じて、本当に死んでもよいという気持になるから妙なものです」と大観は述べていたそうです。

この言葉を大観が掛け軸に書いた作品(『日本美術院歌谷中鶯』、昭和14年)も展示されており、その見事な筆の勢いに大観の裂帛の気合を感じます。

東京美術学校を排斥された岡倉天心が明治31年(1898年)に結成した日本美術院。天心に続いた大観らにとって画業の中心を占めた重要な拠点でした。「死んでもよい」という強烈な覚悟をもって事に臨んだ大観の思いを改めて知ることができます。水戸藩士の家の出、という大観の出自も自然と頭をよぎります。

こちらも見どころ、「大観の肖像画」

このコーナーでは、和洋の大家たちが大観を描いた肖像画も見られます。芸術家たちのパトロンだった細川護立公の発案で、昭和16年以降、何度か写生会が行われていたこともあったそうです。画家それぞれの大観へのイメージがよく反映されています。

梅原龍三郎、安田靫彦、堅山南風ら錚々たる顔ぶれが大観の肖像を描きました

それぞれに魅力あふれる作品です。モデルの強い個性がそうさせるのでしょうか。

お酒をめぐるエピソードや、各画家の大観への思いをまとめたコラムなども強い印象を残します。奥村土牛が繰り返し大観から聞いて感銘したという言葉が紹介されており、大観の絵画に対する考え方をよく示しているものでしょう。

「画面上に宇宙が出なかったら、それは芸術ではない。風景でも、人物、静物、桜の花びら一つを描くのでも、そうだ」(『歴史を築いた日本の巨匠 横山大観』美術年鑑社 1987年)

この芸術観どおりの作品と「言葉」に出合える展覧会です。

(おわり)