前衛とは何か、問い続けた写真家たちの軌跡――千葉市美術館で「『前衛』写真の精神:なんでもないものの変容」展

展示風景

「『前衛』写真の精神:なんでもないものの変容」展
会場:千葉市美術館(千葉市中央区中央3-10-8)
会期:2023年4月8日(土)~5月21日(日)
休館日:5月1日は休館、4月17日は休室
アクセス:JR千葉駅東口から徒歩約15分、京成千葉中央駅東口から徒歩約10分
観覧料:一般1200円、大学生700円、小、中学生、高校生無料
※前期(~4月30日)、後期(5月2日~)。会期中に大幅な展示替えあり
※詳細情報は公式サイト(https://www.ccma-net.jp/)で確認を

「前衛」で「写真」というと何をイメージするだろうか。
まず思い浮かぶのは、日常をデフォルメして不思議なフォルムや色彩を写し出した作品。露光や印画のテクニックを駆使して、「あり得ない光景」を創り出したものだろう。だが、美術評論家で詩人の瀧口修造(1903~79)は、「写真におけるシュルレアリスム」とは「日常現実のふかい襞のかげに潜んでいる美を見いだすこと」なのだと語った。瀧口の発言の真意は何か。その発言は、日本の写真界にどのような影響を及ぼしたのか--。瀧口とともに「前衛写真協会」を立ち上げた阿部展也(1913~71)、ふたりに強く影響を受けた大辻清司(1923~2001)、大辻の愛弟子が牛腸茂雄(1946~83)。4人の作品と交流の軌跡をたどりながら、彼らの求めた「前衛」の意味を探るのが、今回の展覧会である。

展示されている坂田稔の《題不詳(筍の断面)》(制作年不詳、個人蔵=名古屋市美術館寄託)
ウジェーヌ・アジェ 《日食の間》 1912年 東京写真美術館蔵

1930年代の日本では、各地で「前衛写真」の動きがあった。特に大阪、名古屋、福岡で活発だったという。そこで撮影されていた「前衛写真」は冒頭に書いたような技巧的で造形的な「分かりやすい」ものだった。上に挙げたのは、名古屋の写真界を牽引していた坂田稔(190274)の作品である。だが、瀧口は「ストレートな写真でも十分にシュルレアリスム的な驚きを与えることができる」と考えた。

瀧口がその好例としたのが、パリの写真家ウジェーヌ・アジェ(18571927)の作品である。感情移入を排除して人間や風景を撮影したその写真の数々は、「ストレート」でありながら、あまりにも「客観的」であるがために、なぜか観る者に「別の意味」を想起させる。上の作品は、日食を眺めている人々を撮影したものだが、どこか滑稽で人間の「小ささ」さえ感じさせる。先入観や主観を排し、物事を完全に客体化した時、物体や風景、それが創り出すフォルムや色彩は、新たな意味を持ち始める。「オブジェ」や「アッサンブラージュ」と同様の感覚をもたらす作品こそが、「写真」の「前衛」だと、瀧口は考えたのだろう。

大辻清司 《瀧口修造夫妻、書斎にて》 1975年 富山県美術館蔵

同様の考えを抱いた阿部とともに、瀧口は『フォトタイムス』という写真誌を拠点にして、活動を展開する。下はその『フォトタイムス』の表紙に掲載された阿部の写真。阿部が美術品などをオブジェ的に撮影した作品は、今回の展覧会でも多く出点されている。こういう、いかにもシュルレアリスム的な世界を撮ると同時に、「街や野に役に立たぬものとして見捨てられた風景にも、新しく素直な調和」を見いだし、記録しようとしていたのだという。そういう瀧口や阿部の活動に触発され、写真家を目指したのが大辻清司だ。大辻は、瀧口が主導した領域横断的な芸術グループ「実験工房」に参加し、瀧口や阿部が支援した「グラフィック集団」の設立にも携わった。阿部の演出した状況を大辻が撮影する、というコラボレーションも行っており、その作品もこの展覧会で展示されている。

展示されている『フォトタイムス』
阿部芳文(展也) 《『フォトタイムス』15巻6号掲載写真》 1938年 新潟市美術館蔵

阿部とのコラボレーションや初期作品を見ていると、主観、先入観を排除して物体・人間を撮ろうという、瀧口や阿部が提唱した「前衛」を継承する大辻の意識が浮かびあがってくる。下に挙げたのは、女性の体を無名性のフォルムとして捉えた《(オブジェ)》、もののかたちそのものにスポットを当てた《物体A》だ。その大辻は、『アサヒグラフ』などの雑誌で作品を発表する一方で、写真教育にも積極的に携わる。桑沢デザイン研究所で見いだしたのが牛腸茂雄。牛腸は大辻の強い勧めで、写真家を目指すことになる。

演出:阿部展也、撮影:大辻清司 《(オブジェ) 1950年 千葉市美術館蔵
大辻清司 《物体A》 1949年 千葉市美術館蔵

瀧口や阿部の「前衛」を継承した大辻が、1970年代にたどり着いたのが、雑誌『アサヒグラフ』の連載「大辻清司実験室」で提示された「なんでもない写真」という概念だ。ふたりが提示した「写真」の「前衛」を突き詰めて、「主観」や「感情移入」を排除していくと、たどりつくのは「偶然のスナップ」である。それは60年代後半、大辻自身が「コンポラ写真」と名付けた当時の新しい写真の潮流ともつながる。写真のテクニックをなるべく使わずに「日常の何げない風景」を「誇張や強調をしない」で撮影した写真。それは詩人アンドレ・ブルトンがいうシュルレアリスムの核心である「オートマティスム」、つまり「理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書き取り」につながってくるのである。

大辻清司 《無言歌》 1956年 千葉市美術館蔵
牛腸茂雄《幼年の「時間」1》 1980年頃 新潟市美術館蔵

「コンポラ写真」の代表的な作家、とされるのが牛腸だ。なるほど、その作品は「作り込み」を排除した自然な情景の数々が写し出されている。その絵柄に「優しさ」を感じるのは、「主観」や「感情移入」を極限まで排除してもなお残る、作家自身の根源的な性質がそこにあるからだろう。何げない風景の中から生み出される詩情、一瞬を切り取られた人物のハッとするような表情。牛腸の作品は、「日常」の持つ「もう一つの意味」を確かに切り取っている。

牛腸茂雄 《見慣れた街の中で 30》1978-80年 新潟市美術館蔵
牛腸茂雄の作品の展示

そういう流れで見ていくと、確かに牛腸の作品が瀧口や阿部の言った「前衛」の延長線上にあることが、よく分かる。「前衛」とは何か。「写真」でどう表現できるのか。瀧口が提示したテーゼは、半世紀の時をかけて牛腸の作品という結果をもたらした、といえるかもしれない。なるほど、と納得させられる展覧会である。

(事業局専門委員 田中聡)

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