【レビュー】信じる意志の力 親鸞聖人生誕850年特別展「親鸞-生涯と名宝」 5月21日まで

浄土真宗の宗祖親鸞の生誕850年を記念して、求道と伝道の生涯を紹介する展覧会が京都国立博物館で開かれています。「真宗10派」と呼ばれる浄土真宗すべての派が協力し、各派の寺院が所蔵する法宝物が一堂に会した展覧会です。『教行信証』や『観無量寿経註』など親鸞自筆の著作や名号、手紙、彫像や絵巻など、展示作品は国宝11件、重要文化財75件を含む約180件にも上ります。7章で構成された展示は、親鸞その人を知るまたとない機会です。
親鸞聖人生誕850年特別展「親鸞-生涯と名宝」 |
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会場:京都国立博物館・平成知新館(京都市東山区茶屋町) |
会期:2023年3月25日(土)~5月21日(日) ※会期中展示替えあり |
休館日:月曜日 |
アクセス:京都市バス「博物館三十三間堂前」下車すぐ 京阪電車「七条駅」下車東へ徒歩7分 |
入館料:一般1800円/大学生1200円/高校生700円/中学生以下、障がい者手帳をお持ちの方と介護者1人無料 |
詳しくは展覧会公式サイトへ |
親鸞は時代が変わろうとしていた平安末期、京都に生まれます。9歳で出家し比叡山で修行の日々を送りますが、29歳で山を下り法然の弟子になりました。すべての人が平等に救われるという阿弥陀仏の教えに出遇ったのです。しかし、教団は弾圧を受け親鸞も罪人として越後に流されます。やがて赦されるのですが、京都には帰らず関東で教えを広めます。晩年は京都で『教行信証』などの著書を執筆しました。
第1章 親鸞を導くもの-七人の高僧-(3階)

親鸞が深く信仰した阿弥陀仏と、その教えが説かれる浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)、教えを伝えた7人の高僧(龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、源空)を紹介しています。龍樹は「空」の思想を確立し、インド、チベット、中国、日本の大乗仏教すべての「祖」として信仰されています。天親(世親)は唯識思想を大成し、後の東アジア仏教の形成に大きな影響を与えました。曇鸞、道綽、善導は中国浄土教の僧で、曇鸞は開祖とされます。源信は天台宗の僧で『往生要集』を著わし、浄土教の基礎を作ったと言われています。源空は法然のこと。親鸞の「親」は天親から、「鸞」は曇鸞からいただいたとされます。

『観無量寿経註』は親鸞が『観無量寿経』を書写し、朱筆で文の区切り、語句や文字の異同、声調の図などを記したものです。余白には善導の注釈書『観無量寿経疏』などの文が、小さな字でびっしりと書き込まれていて驚くほどです。親鸞45歳以前の執筆と推定されるそうですが、いかに真摯に経典に向き合っていたか、これを見ただけで体感できます。

親鸞の師である法然は比叡山で修行し、「智慧第一の法然房」と称されました。しかし43歳の時に山を下り、専ら阿弥陀仏を信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば死後はすべての人が平等に往生できるという、専修念仏の教えを説きます。仏教は本来厳しい修行により覚りを開くもので、出家が必要でした。それに対し、ひたすら念仏を唱えることで誰でも極楽に行けるという教えは、熱狂的に民衆に受け入れられました。数々の苦難を乗り越えた法然ですが、数珠を手に頭を軽く傾げた像は実に温厚で優しそうです。
第2章 親鸞の生涯(2階)

親鸞の没後33年にあたる永仁3(1295)年、曾孫の覚如によって『親鸞伝絵』が作られました。出家から法然との出会い、越後への流罪、京都での往生という90年の生涯が描かれています。親鸞は自分のことはあまり語らず、覚如は各地の門弟に親鸞のことを聞いて回ったそうです。初校本は焼失しますが、その前に初校本を元に作成されたのが高田派専修寺に伝わる「善信聖人親鸞伝絵(高田本)」です。詞書と画中詞は覚如自身の筆。字は大きく、ほとんどの漢字にルビが振られています。人物の名も付いています。絵巻に馴染みの無い坂東の人々を、読者として想定したためとされます。

「康永本」は康永2(1343)年に改めて制作されたもので、『親鸞伝絵』の決定版と言えるものです。伝絵は事績に合わせて各場面、制作年が違う作品を入れ替えて展示します。見比べるのも面白いかもしれません。照願寺本(~4月9日展示)は濃密で色彩が鮮やか、康永本は整理された画面ですっきり明るく、弘願本(4月11日~30日展示)は線描で生き生きとした表情が特徴なのだそうです。伝絵を基に、たくさんの人が一度に見られるように掛け軸にした「絵伝」の展示もあります。

『選択本願念仏集』は親鸞の師の法然の著作で、称名念仏は阿弥陀仏がすべての修行の中から選び出した本願の行であることを体系的に述べています。書写を許されたのはごく僅かの門人で、法然が生きている間は外に見せるなというものでした。親鸞は33歳の時に書写を許され、その喜びを「無上甚深の宝典なり」と書いています。「廬山寺本」は草稿本と考えられています。冒頭の「選択本願念仏集 南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」は法然の自筆だそうです。黒々とした墨で太い字が印象的です。

司馬遼太郎が、無人島に一冊持っていく本として名前を挙げた『歎異抄』。「善人なをもて往生をとぐ いわんや悪人をや」の言葉でも有名です。関東で直接教えを受けた唯円が、親鸞亡き後、様々な異説が出ていることを嘆き正そうとしたものです。長く日の目を見なかったのですが、明治時代の学僧・清沢満之とその門弟らによって知られるようになりました。展示されているのは本願寺第8世・蓮如(1414~99)が書写したもので、現存する『歎異抄』最古の写本です。末尾に蓮如の筆で、親鸞が「愚禿親鸞」と名乗った謂れが書かれています。僧の身分を剥奪され新潟に流された親鸞は、非僧非俗を自称し「禿」の字を姓としました。配流中の5年間は髪を剃らず禿という前髪を揃えた姿だったという記録もあります。その「有髪御影」の像も展示されています。


60歳になった頃、親鸞は京都に戻ります。親鸞が去った関東では親鸞の教えと異なることを言う信者が増えてきます。そこで息子の善鸞を派遣するのですが、混乱に拍車をかけてしまいました。84歳の時、善鸞を義絶せざるを得なくなります。「イマハオヤトイウコトアルヘカラス、コトオモフコトオモイキリタリ」と、親子の縁を切る痛切な文言です。
第3章 親鸞と門弟(1階)
親鸞が京都に戻ったのは、『教行信証』や和讃など執筆に専念するためではないかと言われています。でも、なかなかそうはいかなかったようです。混乱した関東から正しい教えを問う門弟たちの手紙が次々と寄せられ、親鸞はそれに答えています。「弟子一人ももたずさふらう」と書いた親鸞ですが、関東はじめ各地に信者が広がっていきます。手紙からは親鸞の信仰と門弟への実直な姿勢が伝わってきます。
第4章 親鸞と聖徳太子(1階)

親鸞は日本に仏教を広めた太子を深く敬愛しました。29歳で比叡山を下り、太子創建とされる六角堂で百日間参籠します。夢で六角堂の本尊であり太子の化身である救世観音から、阿弥陀仏の教えを広めよというお告げを聞きます。妻帯の肯定もこのお告げの中にあったと言います。親鸞についての記録は極めて少ないのですが、妻であった恵信尼から娘覚信尼宛の書状に、六角堂での参籠など若い時の親鸞の様子が書かれています。
第5章 親鸞のことば(1階)

『教行信証』とは、約60部に及ぶ経典や注釈書、漢籍から念仏往生に関する文を引用し、教(仏の教え)、行(修行)、証(修行によって得られる結果)に分類して解釈を付けた著述。正式には『顕浄土真実教行証文類』と言います。親鸞の信仰と思想を体系的に述べたものです。60歳の頃から80代にかけて執筆したと見られるそうです。「坂東本」(国宝)、「高田本」(重要文化財)、「西本願寺本」(同)の3本が集結したのは今回が初めてです。

「坂東本」は現存する唯一の親鸞自筆本です。墨で消したり朱筆で上書きしたり、膨大な推敲の跡がよく分かります。また、普通「回向して」と読むところを「回向せしめたまへ」と読むなど独自の解釈を伝える訓点や、「出」を「山」を重ねたように書いた字体などの特徴も見えます。角点と言って紙を凹ませて記した箇所が870カ所もあります。関東大震災で被災して劣化、最初の部分が欠けているそうです。「高田本」は親鸞生前に書写されたもの、「本願寺本」は親鸞の死後に作られた清書本にあたるそうです。3本を並べることで、どう書写されていったかが分かるということです。
第6章 浄土真宗の名宝-障壁画・古筆-(1階)


浄土真宗は一大勢力として発展、多くの名宝が伝来しています。この章では宮廷文化の粋を極めた古筆や、京都画壇の手による障壁画などが展示されています。「桜牡丹図」のある西本願寺は障壁画の宝庫と言われているそうです。「三十六人家集」は紀貫之や猿丸太夫などの和歌を人物ごとにまとめた歌集の最古写本。料紙の装飾も筆も当時の最高の技が詰まっており、写本なのに国宝です。平安の美の結集を実感できます。
第7章 親鸞の伝えるもの-名号-(1階)

名号とは仏・菩薩の称号のことで名をもって号(さけ)ぶという意味です。しかし、親鸞は名号を阿弥陀仏の救済のはたらきそのものとして、それを称える念仏の教えを説きました。鏡に映したようにそっくりということから「鏡御影」と呼ばれる肖像画をはじめ、複数の肖像画(影像)が、期間ごとに展示されます。眉尻が上がり、口を強く結んだ、いかにも意志の強そうなお顔です。
漢文で書かれた書やくずし文字などは読めないのですが、説明を見たり聞いたりしながら見ていくと、阿弥陀仏の救いを信じる親鸞の意志の強さを感じることのできる展覧会でした。
(ライター・秋山公哉)