【探訪】塀の中の面影(看守と受刑者):博物館 網走監獄(北海道網走市)

東京では2020年、2021年と並んで観測史上最も早い桜の開花が発表されたばかり。日本列島の東端の北海道オホーツク海沿岸でも雪溶けの春は少しずつ近づいている。

厳しい寒さの冬が長い北海道、その歴史は、屯田兵や入植団などの開拓者たちの労苦なしには語れない。中でも、北海道に置かれた集治監しゅうちかん(明治期に徒刑・流刑・終身懲役などの有罪判決を受けた囚人を拘禁していた刑事施設)の収容者たちは開拓の礎を築いた。彼らは、合計724kmにも及ぶ道路や屯田兵のための住居1474棟を建設し、1700万㎡の土地を開墾した。

人口わずか631人の漁村であった網走も、1890年に釧路集治監の外役所として開設された網走監獄により北海道開拓に深く関わることとなった。開設の翌年には1200人の受刑者が網走から旭川までをつなぐ中央道路の開削にあたり、163kmをわずか8ヶ月で完成させたが、厳しい自然環境での過酷な労働で211人の命が犠牲になった。

1983年に網走市内の天都山に開館した「博物館 網走監獄」は、北海道開拓と切り離せない網走監獄の歴史を後世に語り継ぐ。日本でも珍しい野外の歴史博物館で、現存する最古の木造行刑建築から開拓を担った受刑者たちの暮らしまで「塀の中」を満喫できる。

 塀の外から

擬宝珠(ぎぼし)のついた鏡橋(再現)

刑務所の外塀に沿って流れる網走川に架かる橋は鏡橋と呼ばれる。「川面に我が身を映し、襟を正し、心の垢をぬぐいおとす目的で岸に渡るように」といつしかそう呼ばれるようになったという。これから、橋を渡って塀の中へ。どんな生活が待っているのだろうか。

ホッケ定食のB(ホッケの一夜干し、味噌汁、ふきの煮炊き物、厚揚げの油炒め、米:麦が7:3のごはん)受刑者の栄養バランスが考えられている

鏡橋を渡ると博物館(監獄入口)に入る前に、「監獄食堂」という建物がある。ここでは、現在の網走刑務所の受刑者が食べているメニューが味わえる。さんま定食のAとホッケ定食のB(各900円)があり、米7割、麦3割のご飯に味噌汁、焼き魚、副菜がセットになっている。肉厚でホクホクしたホッケと味噌汁が零下の寒さで凍りついた体に染みる。

「博物館 網走監獄」の入口は監獄の正門、刑務官が出迎えてくれる(右)

「博物館 網走監獄」は、網走刑務所の全面改築をきっかけに、明治時代に建造された歴史的建造物を文化財として保存展示する目的で設立された。旧網走監獄の25棟が移築復原、再現構築されている。2016年にはそのうちの8棟が国の重要文化財に指定された。

塀の中へ

重要文化財 「旧網走監獄 庁舎」 1912年建立

明治時代の官庁建築の典型的なスタイルである「旧網走監獄 庁舎」。1912年に受刑者らによって建立され、1987年まで網走刑務所の管理部門の建物として利用されていた。庁舎内部では、北海道の集治監の歴史、建物の見どころ、中央道路開削のために設置された網走監獄の意義などが紹介されている。

1919年に着工した裏門。70年間、受刑者が塀の外の農場に通うのを見守った

網走刑務所の裏門は1919年に刑務所の赤煉瓦門塀の製作を開始した際に一番最初に着工した部分。その後、5年の歳月をかけて受刑者らがコツコツと積み上げて延長1080mの刑務所の赤煉瓦塀全体を完成させた。仰々しい正門とは違って小ぢんまりとした裏門は、受刑者たちが塀の外の農場へ通うための通勤路であった。

北海道開拓:動く監獄

開拓の労働に従事した受刑者たちの生活が再現されている。中央道路開削に使われた「動く監獄」と呼ばれた休泊所での食事風景(左)と就寝風景(右)、いずれも人形

1887年ごろまでの監獄作業は、道路開削や石炭採掘など産業開発で重要な役割を果たした。受刑者たちは、現地で素早く丸太や茅を調達し、自分たちが寝る「動く監獄」と呼ばれた休泊所を建てた。一本の丸太が枕として使用されたこともあった。

 塀の中のくらし

重要文化財「旧網走刑務所 二見ヶ岡刑務支所」の舎房、1896年に建立

網走の西の丘陵地、二見ヶ岡に自給自足を目指してつくられた網走刑務所の農場施設「旧網走刑務所 二見ヶ岡刑務支所」。1896年建立の建物がそのまま移築されている。農園刑務所と言われ、収容者たちは作物の管理から収穫までを行い監獄の食糧を賄ってきた。現存する日本最古の木造刑務所で100年以上使われた。比較的刑の軽い人の開放的処遇施設で、監視の目も緩やかであったという。

重要文化財 「旧網走刑務所 二見ヶ岡刑務支所」の食堂、食事中の受刑者たち(人形)

収容者たちは、農場にて自分達で育てた作物を収穫して食べる。決められた席に座り、看守の監視の下で配膳係が配った食事を摂る。

重要文化財 「旧網走監獄 舎房及び中央見張所」 中央見張所(左)、と舎房の棟(右)、1912年建立

「旧網走監獄 舎房及び中央見張所」の舎房は、五つの棟が放射状に広がり、一箇所から全体を見渡せるように中央見張所が設けられている。雑居房と独居房を合わせた226房には最大700名を収容し、1984年まで網走刑務所の獄舎として72年間に渡り使用された。

「旧網走監獄 舎房」内の暖房設備

網走監獄の開設当初は、暖房器具として薪ストーブを使用していた。第5舎の58mある長い廊下には、ストーブが2台設置してあった。その後は、石炭ストーブや石油ストーブ、スチーム暖房と整備されていった。

「旧網走監獄 舎房」第3舎 雑居房 総数は32、広さ9,906㎡に数人で起居する

硬いヤチダモの木でつくられた舎房の扉には、視察孔と食器口があり、外から施錠されていて中からは開けられない造りになっている。第1舎と第3舎の房室の廊下側壁は、暖房、換気、通気、監視を兼ねた独特の菱形斜め格子となっており、収容者同志は向かい合う部屋の中を覗くことはできないが、廊下に立つ看守からは両方の部屋の監視ができる。

浴場の内部、看守の監視下で入浴する受刑者たち(人形)

受刑者たちは1ヶ月に5回前後、看守の厳しい監視の元で15分程度の入浴を行なった。15人ずつ入浴し脱衣から着衣までを15分とした。浴場は1912年から1979年まで網走刑務所で使用されていた建物を再現したもの。出所する受刑者にはその前日に一人でゆっくり入ることが許されていたという。

重要文化財 「旧網走監獄 教誨堂」の外観(左)と内部(右)、1912年建立

外観はお寺を思わせる和風の建築で、内部は洋風の和洋折衷様式の「旧網走監獄 教誨堂きょうかいどう」。僧侶や牧師などの宗教者が訪れ、受刑者に対して精神的、倫的、宗教的な指導を行うために設置された。1909年に火災により焼失した建物を1912年に復旧すべく建てられた。受刑者が山から木を切り出し建立した。戦後は、スポーツや演芸大会、映画上映会が行われ娯楽の場所としても使われた。

娑婆しゃば

受刑者の暮らしや作業の歴史を紹介・展示している監獄歴史館内部、回廊には厚紙でできた刑務官(看守)が等間隔に立ち監視している

木の表札がかかった赤レンガの正門に一礼。襟を正しつつ、再び鏡橋を渡り娑婆へ。

塀の中の思い出は、建築やその様式と意匠もさることながら、展示にスパイスを効かせていた人形たち。明治期の柿色の衣服に身を纏った受刑者たち。道路開削の合間に食事をしたり、睡眠をとったり、入浴したり。ここでは人形たちは単なる展示物でなく、人の気配を感じさせた。看守が不意に現れた場合は、思わず声をあげそうになるし、視線も感じる。空っぽの建築のみを見ていれば、この余韻はなかったかもしれない。塀の中は、監視される側にとっても、する側にとっても過酷な場所に違いない。塀から出ても、しばらく看守の人影を探しそうになる。(キュレーター・嘉納礼奈)

博物館 網走監獄
住所:〒 099-2421 北海道網走市字呼人1-1
休館日:12/311/1
開館時間:9:00 – 17:00 ※ 入館受付16時まで
入館料 : 大人1,500円、高校生 1,000円、小中学生750
詳しくは同館HP
かのう・れな 兵庫県生まれ。フランス国立社会科学高等研究院 (EHESS)博士号取得(社会人類学及び民族学)。パリ第4大学美術史学部修士課程修了。国立ルーブル学院博物館学課程修了。国内外で芸術人類学の研究、展示企画、シンポジウムなどに携わる。 過去の展示企画に、「偶然と、必然と、」展(アーツ千代田33312021年)、“Art Brut from Japan(プラハ、モンタネッリ美術館、2013年~2014年)などがある。ポコラート全国公募のコーディネーター(2014年~)。共著に「アール・ブリュット・アート・日本」平凡社(2013年)、“ lautre de lart ” フランス・リール近現代美術館(2014年)