【レビュー】「没後40年 黒田辰秋展―山本爲三郎コレクションより」アサヒビール大山崎山荘美術館で5月7日まで 木漆工芸に捧げた人間国宝の生涯をたどる

没後40年 黒田辰秋展―山本爲三郎コレクションより |
---|
会場:アサヒビール大山崎山荘美術館 (京都府大山崎町銭原5-3) |
会期:2023年1月21日(土)~5月7日(日) |
開館時間 10:00~17:00 ※入場は16:30まで |
休館日:月曜日 ただし3月20日 3月27日 4月3日 5月1日は開館 |
アクセス:JR京都線山崎駅 阪急電鉄京都線大山崎駅徒歩約10分 駅より無料バス運行(高齢の方優先) |
入館料:一般900円 大・高大生500円 中学生以下無料 障害者手帳をお持ちの方300円 |
詳しくは館の公式サイト(https://www.asahibeer-oyamazaki.com/)へ。 |
京都祇園の塗師屋の家で生まれた漆芸家の黒田辰秋は、柳宗悦による民藝運動に加わり、熱い青春時代を送りました。また、1970年には木工芸における初の人間国宝に認定されました。
その黒田辰秋の展覧会が京都府大山崎町にあるアサヒビール大山崎山荘美術館で開催中です。本展は民藝運動の支援者でもあったアサヒビール初代社長の山本爲三郎のコレクションのなかから特に作家の青春時代に焦点をあてて展示が構成され、黒田辰秋が木漆工芸に捧げた生涯を追体験できるようになっています。
若き作家の民藝運動への情熱
塗師屋の末子として生まれた黒田は幼い頃より小刀を握って木を削っていたと伝わっています。当時、京都の木工芸は分業制。それに疑問を持った黒田は独学で一貫制作を行うようになりました。その姿勢に陶芸家、河井寬次郎も共感したといいます。やがて「民藝運動」のリーダーとなる柳宗悦が「上加茂民藝協団」を立ち上げ、黒田をはじめ賛同した若者たちが京都・上賀茂の一軒家で共同制作を行うようになります。

入ってすぐの展示室1では、その活動期間中に黒田が表紙を彫った書籍なども展示されています。初期民藝運動の熱が伝わってくるようです。
頂点を極める民藝運動
「上加茂民藝協団」は彼らが思う通りにはいかず、運営は厳しい状況が続いていました。そんな折、大きなチャンスが巡ってきます。1928年に上野公園で開催された「御大礼記念国産振興博覧会」への出展です。黒田が24歳の時でした。「上加茂民藝協団」の作品が調度された展示用の家は「民藝館」と名づけられ、中流家庭の小住宅という設定でした。まさに彼らが追い求める民藝の美が結集した理想の空間となりました。

展示室「山手館」には「民藝館」に出展された作品が当時の写真とかけ合わせて展示され、博覧会のにぎわいが目に浮かぶようです。

こちらは黒田が製作したテーブルです。椅子の背やテーブルの脚に刻まれた井桁の形をしているのは「上加茂民藝協団」のシンボルマーク。柳が考案し黒田が図案化したものです。

「色」という字が刻まれ螺鈿細工がほどこされた小箱。なぜ「色」という字にしたのかは今もわかっていないとか。黒田は日記などの文章をほとんど残しておらず、今となってはその意図を正確に知ることはできません。しかし、その姿勢からは民藝運動と木工芸に打ち込んだ誠実な人柄が窺い知れます。
山本爲三郎は民藝館を一式全て買い取り大阪・三國の自邸に移築し別邸としました。彼は民藝運動のよき理解者であり、支援者でもあったのです。
変わっていくものと変わらないもの

ところが、博覧会後、民藝運動は2年半で終わりを迎えます。失意の黒田は滋賀県岩根で静養をします。柳の後押しもあり、やがて回復し制作を再開します。

その後の作品で、特筆すべきは、メキシコ鮑の貝殻を使った螺鈿細工の作品です。その輝きに魅了された版画家の棟方志功はこれを「耀貝」と名づけました。

こちらの漆器は民藝運動の頃に比べると、繊細な魅力があるだけでなく落ち着きも感じられ、若い頃の作品と比べると、作風の変化がわかります。
情熱のみなぎるような青春時代の作品から、失意を経て、静かに芸術に取り組んだ晩年の作品まで、黒田の人生を追うようにじっくりと鑑賞していると、「人は変わるもの」ということに気づかされます。その一方で、晩年の作品のなかにも、黒田が「上加茂民藝協団」で培った原点がみられるようにも感じられます。
今年は黒田辰秋、没後40年の節目の年になります。今でも京都大学の北門前にあるカフェ「進々堂」には黒田辰秋が制作したテーブルがあります。黒田辰秋の作品を見て、身の回りにあるものの美しさについて考えてみるの楽しいのではないでしょうか。
(ライター・若林佐恵里)