【レビュー】特別展「加耶」九州国立博物館で3月19日まで 朝鮮半島に興った「鉄の国」と古代日本の深い関係

奈良市の富雄丸山古墳(4世紀)で日本初の盾形銅鏡が見つかった大ニュースで、いま古墳時代への注目が集まっています。同じ頃の3~6世紀の朝鮮半島中南部に、製鉄によって栄えた国「加耶」があったことをご存じでしょうか。古墳時代の日本にも様々な影響を与えた加耶の全容に迫る特別展が3月19日まで九州国立博物館(福岡県太宰府市)で開かれています。
特別展「加耶」 |
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会場:九州国立博物館 |
会期:2023年1月24日(火)~3月19日(日) |
開館時間:日曜・火~木曜 午前9時30分~午後5時(入館は午後4時半まで)、金・土曜 9時30分~午後8時(入館は午後7時30分まで) |
休館日:月曜 |
観覧料:一般 1,700円 高大生 1,000円 小中生 600円 |
詳しくは展覧会公式ページへ |
加耶の4つの国にフォーカス
3世紀ごろ、朝鮮半島中南部で高い鉄生産能力を持つ勢力が生まれ、その中から金で身を飾り、大きな古墳を築く王が立つ複数の小国が誕生しました。それらの小国群は、「加耶」の総称で呼ばれ、ゆるやかな連携を持ちながら、東に位置する新羅や西の百済、北の高句麗、そして日本(倭)などと交流を行っていました。
本展では、加耶に最初に生まれ、邪馬台国が記録されていることで知られる史書『魏志倭人伝』にも登場する狗邪韓国を前身に持つとみられる「金官加耶」、個性的な遺物を持つ「阿羅加耶」、日本に最も近く交易が盛んだった「小加耶」、加耶最強の国と言われた「大加耶」の4国にフォーカスし、加耶諸国の誕生から興隆、そして滅亡までを解説していきます。
製鉄で栄えた国ならではの鉄製品
加耶は特に「鉄」によって多くの国と交易を行い、栄えました。そのことを示す、鉄のインゴットを加工した儀式の道具である「有刺利器」や、縦長の鉄版をつなぎ合わせて作られた甲などが多数並びます。

倭人伝が含まれる3世紀の史料『魏志』によれば、当時の東アジアでは、鳥が死者の魂の媒介者だと考えられていたとのこと。金官加耶で作られた鴨の頭の上に乗った小さな人間が特徴な鴨形方土器からも、そんな当時の死生観もうかがえます。

栄華を物語る黄金のアクセサリーや武具![]()

有力者たちが力の象徴として黄金の装身具を所持したのも加耶の特徴です。加耶の中でも最大かつ最強とうたわれたのが「大加耶」。その王陵とみられる高霊池山洞の墳墓から見つかった遺物は特に華やかです。日本の重要文化財に相当する韓国宝物に指定されている「金銅冠」などの金を用いたアクセサリーや、金銀で装飾された「龍鳳文環頭太刀」をはじめとする刀剣類からは、大加耶が持つ権力の大きさが伝わってきます。

交易品からわかる加耶の外交力
加耶は隣接する新羅や百済はもちろん、日本(倭)や中国などとのつながりを持っていました。モノのみならず、技術やヒトの行き来も盛んに行われたとされています。
金官加耶の墳墓から見つかった日本製の青銅製の装飾具「巴形銅器」や、大加耶の墳墓で出土した中国製と考えられる青磁の壺、さらには、はるか地中海のガラス容器などなど。多彩な出土品から、加耶の外交上手な一面を感じ取れるはずです。



6世紀に滅亡した加耶
交易によって栄えた加耶でしたが、西からは百済が迫り、東からは新羅の脅威を受け、6世紀に入るとその存亡が危ぶまれるように。532年には金官加耶が新羅に降伏し、562年には「加耶最強」の大加耶も新羅に征服され、ついに滅亡しました。
この時期の加耶の遺跡から発掘された百済の耳飾りや新羅の壺などの出土品は、まさにそうした他国からの圧力や支配を示すものとみられています。加耶という国が徐々に滅んでいく様子が、遺物を通じて紐解かれて行きます。

稲作、製鉄、金工……渡来人がもたらした文化
本展の第2部では、加耶をはじめとする渡来人が古代の日本人とどのような交流を持ち、どのように社会や文化の形成に結びついていったのかについて、紹介されます。

朝鮮半島や大陸からやってきた渡来人は、製鉄をはじめ、窯業や金工、灌漑などの多様な技術を日本にもたらしました。渡来人の姿を模した「渡来人形埴輪」や、奈良の新沢千塚古墳群で発見された大加耶の金の鎖の耳飾り「金製垂飾付耳飾り」=下の写真=など、多数の出土品が古代日本における渡来人の存在感の大きさを感じさせます。
SNSでも話題!動物の埴輪が放牧!
農耕をはじめ、渡来人が倭人に与えた影響は、衣食住のあらゆる面に及んでいます。第2部では、農耕や文字、計量単位などの渡来人から伝わった文化の数々や、渡来人と倭人たちが、どのようにそれらの品を活用してきたのかを、イラストと共に展示しています。
終盤の見どころは、放牧スタイルで展示された馬と牛の埴輪の群れ。
『魏志倭人伝』によれば、「牛馬なし(倭国には牛や馬はいない)」と記されていましたが、渡来人によって牛や馬が持ち込まれ、日本列島の生活に大きなインパクトを与えました。
日本で4例しか出土していない牛形埴輪に加え、当時の倭では仔馬を計画的に飼育する技術ももたらされていたことを示す小馬の埴輪などから、当時のライフスタイルを垣間見ることができます。
本展を鑑賞して、朝鮮半島と古代日本がいかに密接につながっていたかが分かりました。1500年前の古代から脈々と続いてきた日韓交流の歴史を、考古遺物を通じて体感してみてください。
(ライター・藤村はるな)
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