【レビュー】「時にふれて 丸山太郎へのオマージュ」3月12日(日)まで、長野・松本民芸館で

「時にふれて 丸山太郎へのオマージュ」 |
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会場:松本民芸館(長野県松本市里山辺1313-1 ℡0263-33-1569) |
会期:2022年9月17日(土)~2023年3月12日(日) |
休館日:毎週月曜日 |
開館時間:午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで) |
観覧料:大人310円 中学生以下・70歳以上の松本市民は無料 |
詳しくは、同館公式サイト |

民芸の逸品求め全国行脚 収集6,800点
信州松本の中心街から東へ車で10分、遠くアルプスの山々を望む雑木林の中に蔵造りの「松本民芸館」がある。1962(昭和37)年にここを創館した丸山太郎(1909~1985)はかつて松本で知られた老舗問屋に生まれ、後年、日本の民芸運動を唱道した柳宗悦(1889~1961)に共鳴。故郷の民芸運動の中心的担い手となった。国内外を歩き、収集した民芸品は実に6,800点に及ぶ。それらを所蔵する同館は昨年開館60周年を迎え、記念に本展を企画。丸山が42歳のときに出した豆本「時にふれて」で取り上げた逸品を展示している。今回は常設展示もあわせて展覧し、帰路、丸山ゆかりの「ちきりや工芸店」に立ち寄ってみた。

無言で語りかけてくる物の美
丸山は戦前の1936(昭和11)年、上京のついでに駒場にある「日本民芸館」を訪れ、静かに並んだ雑器の素朴な美に心を奪われた。これを機に民芸運動に没入。戦後1946(同21)年には同館で柳宗悦に出会い、薫陶を受けて以降、民芸品収集に拍車がかかり、「松本民芸館」創館へと邁進した。初代館長を務めたのち館の将来を考え、1983(同58)年、松本市に収蔵品ごと寄贈。2年後に没した。現在、館は同市立博物館の分館として市が管理・運営にあたっている。


展示室に入ると、丸山の自筆の額が目に留まった。「美しいものは美しい 説明があって物を見るより、無言で語りかけてくる物の美を感じることの方が大切」と述べている。案内をお願いした手島学館長も「当館では展示品に添える説明文はほとんどありません。それが特徴です」。たしかに展覧会でおなじみの作品ごとの説明文がほとんど見当たらない。
ふだん展覧会に行くと、自分の審美眼を信じず、ナントカ賞受賞だとか人間国宝の作だとか、権威による評価や作者の肩書に頼って鑑賞しがちだが、ここにあるのは無名の職人がこしらえた生活雑器。それも丸山が命じて作らせたのではなく、誰かが日々の暮らしで使っていたものだ。見る者にも身近なこと、この上ない。だからくどくどした説明は無用。丸山の言に従い、「直観で物の美を感じる」を心がけよう。
「執念の収集」 30年越しの恋の成就

丸山の民芸品収集にかけた情熱がわかる品から紹介する。まずは高さ40㌢の美濃焼の大徳利。丸山は日本民芸館で初めてこの大徳利を見てぞっこん惚れこみ、「いつか自分の手に」と念願したが、なかなか実現できないでいた。30年後、ふらり入った店で欲しかった大徳利が売りに出されているのを見て、「どうしてこんな場所に」と仰天する。もちろんその場で購入し、30年越しの恋を成就させた。
丸山は手記で「欲しい欲しいと念じ続け、それが実現した。思い続ければやがていつか入手できるものと信じる。人々はそれを私の執念だと言う。『執念の収集』。そうかも知れぬ。目に見えぬ情熱と執念の糸が、そうしてくれるに違いない」と書いている。

このシーサーは沖縄の民家の屋根に乗っかっていたもの。けっこう重いが、たいそう気に入った丸山はこのシーサーを買い求めるや、壊さぬよう傷付けぬよう、なんと自ら肩に担ぎ、はるばる松本まで持ち帰ったという。

丸山は喫煙者ではなかったが、キセルやパイプ、莨入れなど喫煙道具にも関心を持った。革製の「火打ち石入れ」もその一つ。底のあたりに火打ち金が付いていて、中に火口と火打ち石を入れるようになっている。手島館長は「火打ち石入れ」について、「革をベンガラ色の漆で染めた小粋な逸品。『こうした手仕事が当たり前になされ、気軽に使われた時代があったのだ』と丸山は豆本の中で感慨深く述懐しています」と説明してくれた。
「君だけの仕事」 柳宗悦が絶賛

丸山は民芸品の収集だけでなく、製作にもいそしんだ。代表例が卵殻細工。卵殻とは玉子の殻のこと。螺鈿細工は貝を材料にするが、卵殻細工は卵の殻を使う。丸山は加工した卵殻をはさみで細かく刻み、漆塗りの盆や箱に貼っていった。大変な時間と根気、集中力、器用さが求められる。こうしてできた卵殻細工は高い評価を受け、師の柳宗悦も「日本で君ひとりの仕事」と絶賛したという。展示品をみると、黒や朱の漆の中で卵殻片が象牙のような風合いを醸し出し、日用品と片付けられないほどの風格を与えている。
よみがえる暮らしの息づかい
展示品の数は常設展と企画展あわせて約1000点。陶磁器、鉄器、漆器、ガラス器、金工、石工、木工、染織物、絵画、彫刻、玩具、人形など品種や用途は様々。産地も津々浦々。民芸品ならではバラエティーさだが、一つひとつから丸山が旅先で職人や商人たちと交わした談笑に懐かしい時代の暮らしの息づかい、忘れかけていた人生の1ページすらよみがえってくる。丸山は民芸品にそんな感動も追い求め、世に伝えたかったのではないだろうか。






「益子の浜田さんが好きだった」

館を辞したあと、市内中町通りにある「ちきりや工芸店」を覗いた。丸山が1947(昭和22)年、家業だった問屋事務所の一角に開いた店。民芸品のセレクトショップだが、松本民芸館の無数の展示品をここに持ってきたかのような品揃えに驚く。店名の「ちきり」は、布を織る「機織機」の縦糸を巻く道具から取ったという。
今は丸山の孫にあたる男性(60)が店主を務める。祖父について聞くと、「子どものころ、何回か栃木県の益子に連れていってもらいました。行くと祖父は浜田さんと親しく話しました。浜田さんが大好きだったんですね」と思い出してくれた。「浜田さん」とはもちろん、益子焼の陶工で人間国宝の浜田庄司(1894~1978)のこと。浜田もたびたび松本民芸館を訪れ、丸山の民芸に傾けた情熱や選ぶ目の確かさに尊敬の念を抱いている。

窓際で色とりどりのグラスが冬の日差しに輝いていた。「丸山は国内外のガラス器も熱心に収集しました。雑誌に『吹きガラスには言い知れぬ暖かみがあり人の心をやわらげてくれる』と魅力を書いています」と話題を振ってみた。
すると、店主は「はい。この店もかつては北海道や九州などいろいろなガラス器を扱っていましたが、今は琉球ガラスだけです」と少々重い口調の答えが返ってきた。理由を尋ねるまでもなく、「もうどこも職人さんがいなくて、仕入れたくてもできなくなってしまったのです」と続いた。残念な話だが、改めて「物の美を後世に」と奔走した丸山の民芸運動の意義の高さを思い知らされた。
気が付くと、もう外の寒さが身にしみる時間になっていた。「よし、今日はここで猪口を買い、晩酌は熱燗といくか」。松本民芸館の取材で、直感で物の美がわかる目を養えたかどうか、自分を試すつもりで酒器の棚へと向かった。(ライター・遠藤雅也)
参考文献
「信州民芸 第11号」長野県民藝協会発行
「松本民芸館ハンドブック」松本民芸館発行