【レビュー】「日本に生まれし阿蘭陀人」、首都圏では17年ぶりの回顧展――千葉市美術館で「没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡」展

没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡 |
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会場:千葉市美術館(千葉市中央区中央3-10-8) |
会期:1月13日(金)~2月26日(日) |
休館日:2月6日は休館、1月30日は休室 |
アクセス:JR千葉駅東口から徒歩約15分、京成千葉中央駅東口から徒歩約10分 |
観覧料:一般1200円、大学生700円、小、中学生、高校生無料 |
※前期(~2月5日)、後期(2月7日~)あり。会期中に大幅な展示替えあり ※詳細情報は公式サイト(https://www.ccma-net.jp/)で確認を |
亜欧堂田善(あおうどう・でんぜん、1748~1822)は、江戸時代後期に活躍した「異色」の画家である。西洋の絵画、銅版画の技法を学び、風景画から世界地図まで多くの作品を残した。本名は永田善吉。苗字と名前からひと文字ずつ取って付けた号が「田善」で、「亜欧堂」は、「亜欧両大陸を眼前に見る心地す」とその作品を評した白河藩主・松平定信が与えたものだという。「日本に生まれし阿蘭陀人」といわれた、田善の生涯と作品を首都圏では17年ぶりに紹介するこの展覧会、「第一章 画業の始まり」から「第七章 田善再発見」まで、7章構成で約250点の作品が展示される。

田善のどこが「異色」なのか。そこには二つのポイントがある。陸奥国岩瀬郡須賀川町(現在の福島県須賀川市)の商家の次男として生まれた田善は伊勢の画僧・月僊らのもとで日本画の技術を学んだのだが、白河藩主・松平定信に取り立てられて画業に専念するようになったのが47歳の時。西洋画の技法を学び始めたのは1790年代の後半、50歳前後だったのである。しかも、西洋版画の技術取得は、主君である松平定信の命によるものだったという。「晩学」でしかも「お上の命」。こんな経緯でアートと向かい合う画家は、今も昔も珍しいのではないだろうか。

田善はマジメで粘り強い性格だったようだ。最初は司馬江漢に銅版画を学んだようだが、「その性遅重にして肄業(いぎょう)運用にうとし」として破門されたのだという。江戸っ子の江漢にしてみれば、東北人の田善は鈍重に見えたのかもしれない。しかし、あきらめずに研究・修業を重ねた田善は、「1㎝四方に80本の線を引く」と言われる繊細・精密な技術を身につけ、透視遠近法や陰影法などの西洋絵画の技法も手に入れる。その田善の成長の過程が、江漢や月僊の作品、あるいは教材となった西洋の版画や絵画とともに、この展覧会では丁寧に紹介されている。


〈田善は文化年間(一八〇四~一八)頃に円熟期を迎えたと考えられる〉。この展覧会の図録で、福島県立美術館の坂本篤史学芸員は書いている。その技巧のさえが如実に表れているのが、『銅版画東都名所図』だろうか。リアルで緻密な風景描写、その中に的確に配置される人物や動物、見応えのある作品が並んでいる。完成の域に達した田善の技術、それは一体何を生み出すためのモノだったのだろうか。


松平定信が田善に西洋版画の技術習得を命じたのは、その技法が精緻な写実表現に向いていることを認識した上で、世界地図や医学書などの「実学」への応用を考えていたのだという。そう考えると、文化5年(1808)に制作された『医範提綱内象銅版図』、文化13年(1816)頃に刊行された『新訂万国全図』あたりが、ひとつの到達点ともいえそうだ。約20年という歳月をかけて、主君から与えられたタスクを達成した田善。そこにはどんな満足感があったのだろうか。それはアーティストとしてのものなのか、それとも主君の命を見事達成した「仕える身」としてのものなのか――。


田善の油絵や銅版画は、風景がやたらとリアルで西洋風なのに対し、人物の表情は何だか和風だ。「日本に生まれし阿蘭陀人」と言われた田善だが、やはりその底流には若い頃から親しんだ日本画の感覚が脈々と流れていたのだろうか。ミッションを達成して故郷・須賀川に帰った田善は一転、伝統的な日本画を多く手がけるようになる。そこが、田善の「終の住処」「終着点」だったのだろうか。弟子の一人、遠藤田一が描いた《亜欧堂田善像》。いかにも実直な、アーティストというよりも大店の主人、藩の重鎮といった風情。しっかりと前を向く、意志の強そうな視線が印象的である。
(事業局専門委員 田中聡)
