【BOOKS】「地形で見る江戸・東京発展史」(ちくま新書)で読み解く鉄道開業150年と東京の地形

2022年は東京国立博物館の150年だけではありません。東京ステーションギャラリーで「鉄道と美術の150年」展(2023年1月9日まで)が開かれるなど、鉄道が開業して150周年の節目の年でもあります。2022年11月に刊行された鈴木浩三著『地形で見る・東京発展史』(ちくま新書)で、鉄道150年の歴史と地形の関係について学んでみませんか。著者と出版社の許可を得て、本書の「第5章 江戸を受け継いだ東京」と「第6章 鉄道発展の時代」から一部を抜粋(洋数字化など一部編集)して掲載します。

地形図で読みとく東京の変貌―「変わったところ」と「変わらないところ」

明治から現代まで(1868〜2022年)の約150年にわたる「東京と地形」や、それに関わる都市の変化を描いていきたい。
この150年あまりの東京は、明治維新、富国強兵、関東大震災、第二次世界大戦、高度経済成長を経て、バブル経済の崩壊や、いわゆる「失われた30年」など、幾度となく環境の激変に遭遇し、その過程で、東京の姿は大きく変わった。近いところでは、昭和末期から本格化した臨海副都心部の開発に加えて、最近のいわゆるタワーマンションの急増は「見た目」だけでも、それまでの街並みを激変させている。現代に近づくほど、機械力によって、元の地形とは無関係に、土地に徹底した改変を加えるケースも増えている。

地図上で最も大きく変化したのは鉄道の登場であった。明治5年(1872)5月7日(新暦では6月12日)、わが国初の鉄道の営業運転が始まった。品川〜横浜(現・桜木町)の仮営業である。新橋(後の汐留)〜横浜全線29㎞の正式開業日は明治5年9月12日(新暦では10月14日)で、これが「鉄道の日」である。これは新橋〜品川の工事に時間がかかったためである。

当初の工部省の計画では、新橋〜品川は海岸沿いの大名屋敷跡に通す予定だったが、西郷隆盛率いる兵部省が高輪から品川にかけての鉄道用地取得に強硬に反対した。兵部省では、ここを軍用地としようと考えていたほか、築地の外国人居留地に運輸の便を開くことに抵抗感を持っていた。品川宿も反対で、品川駅は実質的には高輪につくられた。新橋停車場と機関庫は、播磨・龍野の脇坂家、仙台の伊達家などの屋敷跡に築造できたが、線路は仕方なく江戸前の海を埋め立てて、海岸線の外側に築堤を築いた。新橋停車場は、外濠や三十間堀につながる汐留川に面し、鉄道と市内の水運が結び付く場所となった。「〝海上〞を走る東海道線」(図表5―5)では、鉄道と旧海岸の間が細長い水面として残っており、海面に築堤を築いたことがよくわかる。築堤の海側には砂洲がみえる。平成31(2019)年4月、品川駅改良工事に伴って、この築堤の石垣の一部が800〜900mにわたって発見されている。

明治末期の都心部と鉄道― 水運と鉄道の結びつき

「明治末期の都心部」(図表5―2)になると、中央線(開業時は甲武鉄道)などの鉄道が延びている。道路網や濠・水路網には大きな変化はないものの、大名屋敷だった場所を中心に土地利用が変わった場所も見られる。それは、関東大震災までの東京の姿だったといってよいだろう。

現在の皇居をはじめ、皇居外苑、丸の内や大手町の業務機能が集積した場所や、霞が関の官庁街、日比谷公園などは街区としての大きな変化はない。しかし、道路の形状は江戸から引き継いでいるものの、宮城に近い旧・西丸下は皇居前広場、旧・大名小路の大名屋敷街は更地の「三菱ヶ原」になっている。桜田門外の練兵場の西側半分は大審院、地方裁判所、海軍省、東側は日比谷公園となった。仮皇居だった場所は赤坂離宮・青山離宮、その西側には青山練兵場が置かれている。都心部の練兵場が「郊外移転」したのであった。

面的には、日本橋や銀座などには変化は少ない一方で、城の西側の麴町や赤坂、麻布をはじめ、外濠の北側の本郷、小石川、牛込などの地域では市街化が相当進んでいる。

最も大きな変化として、丸の内の「三菱ヶ原」に建設中の東京駅などが描かれている。
また東海道線は烏森駅(現・新橋駅)を経て有楽町駅まで伸びている。中央線や東北線(日本鉄道)も描かれている。中央線は、開業当時のターミナルだった飯田町駅(明治28年開業)から万世橋駅(明治四五年開業)まで延長され、東北線は秋葉原貨物取扱所(現・秋葉原)まで伸びている。

新橋停車場と汐留川の関係のように、飯田町駅は日本橋川に面した場所、秋葉原貨物取扱所は神田川に面した場所で、いずれも、鉄道輸送と市内の水運ネットワークの結節点となった。秋葉原貨物取扱所は、日本鉄道の上野駅から貨物線を延長した貨物ターミナルで、江戸時代の火除地を明治になってから区画整理した場所に、明治23年に開業した。その開設にあわせて掘られた神田川からの水路と船溜まりもあった。遠距離を鉄道で輸送されてきた貨物が、水運網によって市内各地に運ばれたのである(図表6―1)。

なお、図表5―2の外側になるが、総武線は隅田川東岸の両国駅(明治37年に総武鉄道が両国橋駅として開業)、常磐線は隅田川を渡った隅田川駅(明治30年開業)まで伸び、隅田川に直結した水路と荷揚場が整備され、常磐炭鉱からの石炭を受け入れていた。新橋停車場(後の汐留駅)は東海道線、飯田町駅は中央線、秋葉原駅は高崎・東北・常磐線、両国駅は総武線、隅田川駅は主に常磐線の貨物を荷受けし、市内の水運に結び付ける機能を持っていた。

東海道線の築堤と旧海岸の間の水面はすでに陸地になっているほか、埋め立ても本格化した。明治21年(1888)、東京の近代化・工業化を進めるために「市区改正条例」が成立した。しかし、当時の東京湾は、隅田川の土砂の堆積のために、港湾としての機能をほぼ喪失していた。大型船は沖に停泊し、艀で荷役を行っていた。隅田川河口を浚渫して、船が航行できる深さを備えた澪筋を確保することは、市区改正に向けての緊急事業となった。同時に、石川島と佃島の先の洲を、浚渫した土砂で埋め立てて、そこに工場を建てることにした。

東京府は明治17年に埋め立てに着工、一号地が竣工した明治25年12月に「月島一号地」(約8万4000坪)と命名して公布した(図表5―2)。明治36年に相生橋が架橋されると月島は深川と直結して、工業地域と労働者街が形成された。月島の工業地域は、石川島造船所の周囲に汽罐(ボイラー)、鋳鉄管、造船、造機などの関連工場も集まった我が国初の重工業地域となった。こうして、嘉永6年(1853)に創設された旧幕府の石川島造船所は、日本の近代的造船業の発祥の地となり、現在のIHI(旧・石川島播磨重工業)に発展した。

都心部の鉄道 山手線のルート

2022年は鉄道開業150年を迎えたが、鉄道の新線開業は、地形のうえでは最も目立つ変化の一つである。


明治10年代の「明治前期の都心部」(図表5―1)と、明治40年代の「明治末期の都心部」(図表5―2)を比べると、明治5年に開業していた新橋〜横浜の官営鉄道に加えて、飯田町(中央線)や秋葉原(東北線)の貨物駅(貨物ターミナル)、万世橋駅が見える。これらの図より、もう少し広い範囲では(図表6―1)、現在のJRでは山手線、常磐線、総武線の両国橋(現・両国駅)までが敷設されている。

JR山手線の原型は、日本鉄道が明治18年(1885)3月に開業した「品川線」(赤羽〜品川)で、板橋、新宿、渋谷、目黒の各駅も開業した。日本鉄道は明治16年7月に上野〜熊谷(現・高崎線)、翌年8月には前橋まで開通させており、北関東から横浜に絹製品などを輸送するために品川線が計画された。これは「鉄のシルクロード」であった。このうち、赤羽〜池袋は赤羽線(通称埼京線の一部)である。

品川線のルートは、上野〜新橋の都心部を縦貫せずに、同程度の距離で密集した市街を避けながら赤羽〜横浜を結ぶ都心部からは西側となるコースとなった(図表6―1)。このルートは、北から石神井川(十条〜板橋)、神田川(目白〜高田馬場)、渋谷川(原宿〜目黒)、目黒川(目黒〜品川)の谷筋を横断している。それらの場所では、台地を切り拓いて切通しをつくり、その土砂で築いた築堤と鉄橋によって谷筋を渡っている。

淀橋台や荏原台では台地の先端ほど、浸食のために谷は深くなり、台地と谷底の高低差と傾斜は増える。品川線は谷筋の上流部を通るので、下流部よりも建設コストは抑えられたはずである。しかも、原宿〜目黒は渋谷川の谷筋、目黒〜品川では目黒川の谷筋に沿いながら品川駅に回り込んでいる。輸送需要、建設コストに地形が加わった〝方程式〞を解いた結果が、品川線だったといえるだろう。
現在の山手線のルートと神田川や渋谷川(古川)の関係を口絵1から見てみると、これより東側のコースでは谷地形が複雑になるため、鉄道建設には不向きだったことがわかる。

明治29年(1896)には日本鉄道土浦線(現・常磐線)の田端〜土浦が開通し、前年に開通していた土浦〜友部に加わって、田端〜水戸が結ばれた。田端〜土浦の開通と同時に、隅田川線の田端〜隅田川が開業した。こうして、それまでは船で運ばれていた常磐炭田の石炭は、隅田川駅に集積されることになった。

明治36年(1903)になると、日本鉄道の豊島線(田端〜池袋間・複線)が開通し、池袋、大塚、巣鴨の各駅も開業すると、品川線と併せて「山手線」と称されるようになった。

豊島線は、土浦方面から田端に到着した列車を品川線にショートカットさせるルートとして出発したが、その後、旅客を運ぶ都心部の大動脈になっていった。

一方、鉄道の発達により、「奥川廻し」は終焉を迎えた。明治22年から翌年の水戸鉄道(現・JR水戸線)の開業により、東廻り航路と奥川廻しの中継地である那珂湊と水戸が鉄道で結ばれ、それが日本鉄道土浦線の開通により東京とつながった。

明治になると、奥川廻しは汽船も運行されて盛んになっていたが、常磐線の開業によって、東北地方から東京に向かう貨物の流れは、水運から鉄道にシフトしていった。現・JR両毛線も明治22年(1889)に小山〜前橋が全通し、常磐線とあわせて、利根川と鬼怒川の上流・中流部で貨物が集積していた湊町を鉄道で結び付けたのである。

その後、明治39年(1906)3月になると、鉄道国有化法が公布され、10月の甲武鉄道、11月の日本鉄道など、翌年までに17社が国に買収された。この買収直前の10月には、輸送力を増やすために、新宿〜大崎間が複線となった。

中央線もできた

明治22年4月、甲武鉄道(現・中央線)の新宿〜立川、8月には八王子までが開業した。翌年10月に市街線(新宿〜牛込)、28年4月には牛込〜飯田町が開通(図表5―2)、12月には新宿〜飯田町が複線化され、西側から都心部に通じる鉄道網が成立した。

 

新宿〜中野の大カーブの途中で神田川の谷筋を跨いだ甲武鉄道は、中野から立川までが東西に一直線になっている。高円寺〜阿佐ケ谷や国分寺付近の国分寺崖線の谷筋を渡る場所もあるが、畑作利用が中心の平坦な武蔵野台地を活かして、中野と立川を最短で結んでいる。その背景には、宿場などのあった甲州街道沿いの地域における鉄道敷設への反対があった。しかし、結果的には、用地買収の時間もコストも抑えられた。

新宿〜飯田町では、陸軍練兵場や小石川の砲兵工廠(旧・水戸徳川家上屋敷の一部)へのアクセスに便利なルートが採用された。日清戦争(明治27〜28年)もあって、軍事輸送の重要性が高まっていた。地図上でも、青山練兵場(現・神宮外苑のある高台)への引込線(青山軍用停車場)がみえる(図表5―2)。

しかし、このルートの新宿〜四ツ谷は、淀橋台の浸食の進んだ場所であり、千駄ヶ谷〜信濃町の汐留川上流の支谷だけでなく、信濃町〜四ツ谷にかけては、同じく汐留川の上流で、現・赤坂御用地内を流れる深い谷筋を築堤で横断している。しかも、赤坂離宮(現・迎賓館)の建つ台地には「御所トンネル」を掘らなければならなかった。

これに対して、江戸城と市街の形を活かした部分もあった。四ツ谷駅が真田濠を埋め立てた跡につくられたのをはじめ、四ツ谷〜飯田町は外濠に沿った空間を利用するかたちで線路を敷設している。なお、明治37年12月には、飯田町〜御茶ノ水間(甲武鉄道の電車専用線)が開通したが、飯田町〜水道橋の区間は、神田川の水害対策の一環として築かれた土手の上を利用して敷設されている。

都心部の鉄道ネットワークの完成

明治41年(1908)3月、中央停車場(後の東京駅)の基礎工事が始まった(図表5―2)。翌年12月には烏森(現・新橋)が新設され、烏森〜品川と田端〜日暮里では、電車専用の複線工事が竣工した。翌月には御茶ノ水〜昌平橋が開業している。さらに明治43年6月の烏森〜有楽町の開業、後の東京駅となる呉服橋(仮)停車場の9月開業により、山手線の電車は、上野、池袋、新宿を経て正式開業前の東京に直通するようになった。

大正3年(1914)12月18日には中央停車場が落成し、東京駅と命名された。これに伴って、京浜線電車の東京〜高島町(現・横浜)、大正7年には田町〜品川の電車専用複々線が開通し、山手線と京浜線の分離運転が始まった。さらに鉄道の近代化が進んでいった。大正8年、東京〜万世橋の電車専用複線が開通した(昌平橋〜万世橋は明治45年開通、現在の赤煉瓦の高架橋がつくられた)。それにより、中央線と山手線は各線の往復運転を改め、中野〜新宿〜東京〜品川〜池袋〜上野を結ぶ、通称「の」の字運転となった。

大正14年(1925)3月、山手線の品川〜田端(新宿経由)でも電車専用の複線化が完成し、11月には、神田〜上野の高架線が竣工して山手線の環状運転がついに始まった。

昭和7年(1932)には、総武線の御茶ノ水〜両国が開通した(図表5―3)。御茶ノ水〜秋葉原では、震災復興事業とその後の失業対策事業によってつくられた神田川橋梁と松住町架道橋(松住町交差点=現・昌平橋交差点の上に架けられたアーチ橋)が連続する。浅草橋〜両国の隅田川には隅田川橋梁も完成した。御茶ノ水駅は本郷台(駿河台)の頂上付近にあり、かつ、山手線の高架線を秋葉原でまたぐ立体交差となったため、この区間の総武線は、当時としては高層の高架線となった。なお、明治23年(1890)に総武鉄道の本所(錦糸町)〜佐倉が開通している。
これにより山手、中央、京浜東北、総武からなる首都中枢部のJR線の骨格が定まった。

鈴木浩三(すずき・こうぞう) 1960年東京生まれ。東京都水道局中央支所長、経済史家。主に経済・経営の視点から近世を研究している。著書に『江戸の都市力』など。

『地形で見る江戸・東京発展史』(ちくま新書)は1100円。購入は書店か、筑摩書房のHPから各ネット書店で。
(読売新聞デジタルコンテンツ部美術展ナビ編集班)