【BOOKS】鈴木大拙『禅と日本文化 新訳完全版』(角川ソフィア文庫)で考える禅と茶の湯

12月4日まで京都国立博物館で特別展「みやこに生きる文化 茶の湯」が開かれており、2023年春と秋には東京国立博物館と京博で特別展「東福寺」が開催されるなど、日本文化や美術において、禅と茶道は大きな柱です。


そんな禅を英語で世界へ発信したのが鈴木大拙(1870~1966年)の「禅と日本文化」であることが知られています。実は「禅と日本文化」は、戦前に刊行され日本で一般に読まれてきたバージョン(岩波新書)と、戦後に改訂され、現在も英語圏で広く読まれているバージョンがあります。この英語圏で読まれているバージョンの初めての全訳書が今年9月に角川ソフィア文庫から刊行されました。美術ファンが日本文化をあらためて考えるきっかけにと、訳者で武蔵野大教授の碧海寿広さんと出版社の許可を得て、この『禅と日本文化 新訳完全版』から第8章「八、禅と茶道」と訳者解説を抜粋して掲載します。(洋数字化など一部編集)

八、禅と茶道

禅と茶道の共通点は、絶えざる簡素化の試みにある。禅は究極の現実を直観的につかむことで、不要なものの消去に成功している。茶道の場合、茶室での茶のて方を手本とする生活の仕方によって、これと同じことを行っている。茶道は、原初のシンプルさを求める唯美主義だ。自然へ近づこうとするその理想は、茅葺かやぶきの屋根の下に自分自身をかくまうことによって実現される。そこは四畳半しかない部屋だが、必ず技巧を凝らした構造と装飾で出来ている。禅もまた、人間が自己を厳かに見せるために開発してきたと思われる人工的な覆いをぎ取ることを目指す。禅がまずもって対峙たいじするのは、知性である。その現実的な有用性にもかかわらず、知性は存在の深みを掘り下げようとする私たちの努力の妨げとなる。哲学は、ありとあらゆる問いを投げかけ、その知的な解決を求めてくる。だが、どれだけ精神的に未熟な者にも例外なく手に入るはずの精神的な満足を、決して与えてはくれない。哲学に接近できるのは知的な能力を備えた者たちだけであり、それは誰にでも開かれた学問にはなりえない。禅――あるいは、より広く言えば宗教――とは、自己の所有物だと人が考えるものを、生命すら含めてすべて捨て去り、存在の究極の状態、〈本住地〉、自分の父や母のもとへと帰ることである。これは誰にでも可能なことであり、というのも、私たちは現に、それ、彼、彼女のいずれかであるところの私たちであり、また、それ、彼、彼女のいずれかでなければ、私たちは何者でもないからだ。これこそ簡素化の極致と呼ぶべきものであり、物事を語る上で、これ以上にシンプルな言い方はない。茶道はまず、老松の下に建てられた目立たない孤立した茅葺の屋根を、簡素化の象徴とする。その屋根は、あたかも自然の一部のようであり、人間の手が特に加わっていないように思える。はじめにその形態が象徴として機能すれば、あとはそれを人為的に扱ってもよい。ただし言うまでもなく、それを扱う上での原則は、茶道の発生を促した本来の思想、つまりは不要なものの消去と、完璧かんぺきに調和していなければならない。

茶は、鎌倉時代より以前から日本で知られていたが、これを最初に広めた人物は、一般的に禅師の栄西(1141〜1215)だとされている。彼は中国から茶の種を持ち帰り、友人の僧院の庭でこれを栽培した。言い伝えによると、栄西の茶に関する本(『喫茶養生記』)は、彼の茶畑から採られた茶と共に、当時の将軍で、たままた病を患っていた源実朝みなもとのさねとも(1192〜1219)に献上された。かくして栄西は、日本における茶の耕作の父として知られるようになる。彼は、茶には一定の薬効があり、様々な病に対して有効だと考えた。どうやら、彼は中国の禅寺にいるあいだに見ていたに違いない茶道のやり方を、周囲には伝えなかったようだ。茶道は、僧院への来客をもてなすための方法であり、あるいは、ときに同じ寺に住む者たち自身が楽しむためにある。この作法を日本へ持ち込んだ禅僧は、栄西より半世紀ほど後の大応国師だいおうこくし(1235〜1309)だ。大応の後に茶道の師範となった僧侶そうりょが何人かおり、遂には大徳寺の有名な住職である一休いっきゅう(1394〜1481)が、その弟子の珠光じゅこう(1423~1502)にその技芸を授ける。そしてこの芸術的な天才が、茶道を発達させ、日本人の好みに適したかたちで後世に伝えた。こうして珠光は茶道の創始者となる。また、彼に教えを受けた当時の将軍の足利義政よしまさが、茶道の偉大なパトロンとなった。これが後に、紹鷗じょうおう(1502〜55)や、特に利休によって洗練の度合いを高め、「茶の湯」として知られるものへの最後の仕上げがなされた。「茶の湯」は一般に「tea ceremony」や「tea cult」などと訳される。元々は禅寺で行われていた茶道が、独立した芸術の一つとなって、今では一般庶民のあいだでも流行している。

私はよく茶道を仏教徒の生き方と関連づけて考える。両者には共通する部分が数多くあるのだ。茶は心の新鮮さと注意深さを保ってくれるが、酔いが回ることはない。学者と僧侶から自然に評価される性質が、茶にはある。茶が仏教の僧院で広く用いられるようになり、それが当初は僧侶によって日本へ紹介されたことには必然性があった。もし茶が仏教の象徴だとすれば、ワインがキリスト教を表すと言えないだろうか? ワインはキリスト教徒のあいだで広く用いられている。教会ではキリストの血の象徴として使用され、キリスト教の伝統によれば、それは罪深い人間のために流されたものだとされる。おそらくこうした理由から、中世の修道士たちは僧院の中にワインの貯蔵室を維持し続けた。たるに囲まれワインカップを手にした彼らは、楽しく幸せそうに見える。ワインは何より人を興奮させ酔わせる。それは多くの点で茶と対照的であり、この対照性は仏教とキリスト教のあいだにも存在する。

かくして次の点が分かるだろう。茶道は禅と最も密接に結びついており、それは実際的な発達の過程のみならず、その作法に流れる精神性の尊ばれ方を見れば、原理的にもそうなのである。その精神性は、「和」「敬」「清」「寂」という感情からなる。茶道を成功に導くためには、これら四つの要素が必須とされる。いずれも、親愛と秩序のある生活を成り立たせる上で不可欠の要素であり、そうした生活は、禅寺での暮らしと等しいものだ。禅僧のふるまいに完璧な秩序があったことは、宋の儒学者である程明道が、かつて定林寺じょうりんじという僧院を訪れた際にした発言から推し量れる。「ここでは、実に、いにしえの三代の王朝で行われていた古典的な形態の儀式作法を目の当たりに出来る」。古の三代の王朝とは、中国の学識のある政治家であれば誰もが夢見る理想の時代のことだ。その時代には、物事の最も望ましい状態が行き渡り、人々は善政に期待できる幸福を余さず享受したとされる。現在もなお、禅僧たちの作法は個々にも集団としてもよく鍛えられている。小笠原おがさわら流の礼儀作法の起源は、唐の偉大な禅僧の百丈(720〜814)が編纂へんさんした「清規しんぎ」〔僧院の規則〕である『百丈清規』にあったと考えられる。禅の教えは、超越的なかたちの精神性を摑み取ることにある。他方で、私たちが生きるこの世界が個別具体的なかたちを持ち、その精神性は特定の形態によってのみ表現できることを、禅は抜かりなく思い起こさせてくれる。ゆえに、禅は超道徳的であると同時に、規律に厳格なのである。

「和」という漢字は「やわらぎ」とも読める。私の考えでは、茶道の全過程を左右する精神性をより上手うまく言い表しているのは、やわらぎのほうだろう。和は外形について多くを語るのに対し、やわらぎは内面の感情に関する示唆に富む。茶室に一般に漂う雰囲気は、この種の穏やかさを全面的に――触感、香り、光、音――創造する傾向にある。あなたは、手作りで不揃いな形の茶碗ちゃわんを手に取る。表面を覆う釉薬ゆうやくには均一性がないが、その素朴な感じにもかかわらず、この小さな道具には、穏やかさ、静けさ、慎ましさの特別な魅力がある。焚たかれた香は、決して強く香らず嗅覚も刺激せず
に、優しく漂う。窓とふすまにも、穏やかに広がる魅力のまた別の源がある。部屋に入ることを許された光は、常に柔らかく落ち着きがあり、瞑想めいそう的な雰囲気を導く。老松の木の葉のあいだを通り過ぎていくそよ風は、火にかけたかまの立てるシューシューという音と調和的に混じり合う。これらの環境はすべて、それを創造した人の人格を反映している。

「和(やわらぎ)が何より大事であり、他人といさかいを起こさないのが肝心である」。
聖徳太子しょうとくたいしが604年に編纂した、いわゆる「十七条憲法」の最初の言葉だ。摂政の太子が臣下に与えた、一種の道徳的・精神的な訓戒である。こうした訓戒にいかなる政治的背景があったとしても、重要なのは、それがやわらぎの並々ならぬ強調から始まっている点である。実のところ、これこそ日本人の意識に最初に授けられた教訓であり、人々は文明を何世紀も続けるあいだ、様々な度合いでそれに応じてきた。最近の日本は好戦的な国として知られるようにもなったが、こうしたとらえ方は日本人に対する誤解である。彼ら自身が意識する自己の性格は、総じて穏やかな性質のものだ。こうした想定をするのには十分な理由があり、なぜなら、日本という島国の全体を取り囲む物理的な環境は、気候だけでなく気象学的に見ても、穏やかで温和だからである。そうなる最大の原因は、空気中に水蒸気が多く含まれているからだ。山や村、森などは、いくらか蒸気のかかったような雰囲気に包まれ、柔らかな様相を呈する。草花は概して非常に色彩豊かだが、いくぶん控え目で繊細なところがある。ただし、春の木の葉はいずれも生き生きとして鮮やかだ。こうした環境で育った感じやすい心は、その環境から多くを着実に吸収し、それがやわらぎとなる。とはいえ、社会的・政治的・経済的・文化的に様々な困難に直面する私たちは、こうした日本人の特性に由来する基本的な美徳から逸脱しがちである。私たちはそうした破壊的な影響から自らを護らねばならず、禅はこの点で私たちの助けとなってきた。

道元(1200〜53)は、中国で数年のあいだ禅を学んだ後に帰国した際、現地で何を学んできたのかと尋ねられる。「柔軟心のほかには何も」と彼は答えた。「柔軟心」とは「柔らかな心の持ち様」であり、ここでの文脈で言えば、やわらぎのことである。私たちは一般に自我が強すぎ、心はとても堅く、抵抗心に満ちている。個人主義的で、物事をありのままに、あるいは自己のもとへやって来るままに受け入れることが出来ない。抵抗は軋轢あつれきを生み、軋轢はあらゆるトラブルの源だ。自己がなくなれば、心は柔らかく、外側からやって来る力に対して、いかなる抵抗もしない。これは感覚や情緒がすべてなくなるという意味では必ずしもない。それらは、生への精神的な展望という大枠のなかで制御されるのだ。こうした観点から見れば、キリスト教徒も仏教徒も同様に、道元に倣って無私の心や柔軟心の真の価値が分かるようになるに違いない。茶道において、やわらぎは聖徳太子が授けたのと同じ精神性に基づき語られる。やわらぎや柔軟心は、地上における私たちの生の基盤である。茶道がその小さな集団の中に「仏の世界」を建てると言うのであれば、まずはやわらぎから始める必要がある。この点をさらに明確にするため、次に禅師の沢庵の文章を引用したい。

沢庵の「茶亭之記」

茶の湯の原理は〈天〉と〈地〉の調和的な交じり合いにあり、それは普遍的な平和を確立するための手法を提供する。昨今の人々は、これを単に、友人との会合、世間話、快い飲食にふけるための機会としている。加えて、彼らは優雅な内装の茶室を誇り、そこで貴重な芸術品に囲まれながら完成し尽くされた作法で茶を点て、自分たちのようには洗練されていない人々を嘲笑ちょうしょうする。だが、これは茶の湯の本来の意図ではまったくない。

まずは、竹やぶの中や樹木の下に小屋を建て、〔手水鉢ちょうずばちの〕水と石をつらえ、草木を植え、屋内には炭を置き、釜を掛け、花を挿し、茶道具を飾ろう。そして、これらすべてを、次に述べる通りの発想と調和的に働かせるのだ。すなわち、自然の山や川でそうするように、流れる水と石を小屋の中で楽しむ。また、四季折々に変化する、現れては消え栄えては衰える雪月花や草木の表す様々な雰囲気と情緒を味わう。客人は然るべき礼儀で迎えられ、私たちは松の木の葉のあいだを通り抜けるそよ風のように鳴る釜の水の音を静かに聴き、世上の悩みや不安をすべて忘れる。釜からんだ柄杓ひしゃくにいっぱいの水を使えば、山に流れる川を想起して、私たち自身の心のちりほこりも洗われる。これは実に地上の仙人の世界だ。

礼儀の原理は敬意であり、実生活では調和的な人間関係として機能する。これは孔子が礼儀の用い方を定義する際に述べたことであり、茶の湯のために人が育はぐくむべき心構えでもある。たとえば、ある人が高貴な階級の人々と交流する際、その人のふるまいはシンプルかつ自然であり、いたずらに自己卑下することもない。当人よりも社会的な地位の低い人々と席を同じくしても、彼らへの敬いの姿勢を保ち、自惚うぬぼれの感情から完全に自由である。これは茶室の全体に浸透した何かが現出しているからであり、おかげで、その場に来た人々の関係はすべて調和的になる。その関係がどれだけ長く続こうと、敬意は常に維持される。迦葉かしょう〔ブッダの弟子〕の微笑や曾子そうし〔孔子の弟子〕のうなずきに通う精神性が、そこには働いていると言わざるを得ない。その精神性を言葉で表せば、あらゆる理解を超えた〈真如〉の神秘ということになる。

それゆえ、茶室に生命を吹き込む原理は、その建設から始まり、茶道具の選択、点前てまえの作法、料理、服装に至るまで、複雑な儀式やただの虚飾を避けることにある。道具は古いかもしれないが、心は活性化されて常に新しく、移り変わる季節やそれに伴う風景の変化に呼応できる。点数稼ぎをしたり貪欲さに溺おぼれたり贅沢ぜいたくに傾いたりすることは決してなく、いつも注意深く他者への配慮を怠らない。そうした心の持ち主は、自然と物腰柔らかく、常に真摯しんしだ――これが茶の湯である。

したがって、茶の湯とは、〈天〉と〈地〉がおのずと調和的に交じり合うのを鑑賞し、山、川、木、石が〈自然〉のままに見出みいだされる炉端に五行〔木・火・土・金・水の五元素〕の広がりを見て、〈自然〉の井戸から新鮮な水を汲み、その風味を自分の口で味わうことである。こうした〈天〉と〈地〉の調和的な交じり合いを楽しめるのは、どれだけ大きなことなのか!

(沢庵の引用はここまで)

茶道と禅は、日本の社会生活において一定の存在感を有する民主主義の精神に対し、何らかの貢献をしてきただろうか? 封建時代のあいだに築かれたその厳格な社会階層にもかかわらず、日本人の内には平等と友愛の思想が維持されてきた。四畳半の茶室の中では、様々な社会的地位にある客人たちが無差別の歓待を受ける。いったんそこへ入れば、庶民と貴人がひざを交え、両者の共通の関心事について、互いに然るべき敬意を持ちながら語り合う。禅では、もちろん、俗界の差別は何であれ認められない。禅僧たちは、すべての社会階層の人々と自由に交流し、誰とでも打ち解けてきた。実のところ、こうしたことは人間本性に深く根付いている。ゆえに、社会が人工的に課す制約をすべて放棄し、動物や植物、いわゆる無生物も含めた仲間たちとの自由で自然な心の交流を持ちたいという強い願いが、折に触れて生じる。それゆえ、私たちはこの種の自由に触れられる機会を常に歓迎する。これこそ、沢庵が「〈天〉と〈地〉の調和的な交じり合い」について語った際、彼の念頭にあったものに違いない。そこでは天使も集まり合唱する。

「敬」は、元をたどれば本来的に宗教的な感情である。それは、結局のところ哀れにも死ぬ定めにある私たち人間よりも高位にあると想定される存在へ向けられた感情だ。この感情はやがて社会的な関係性に移行し、それから、ただの形式主義へと堕落する。いわゆる民主主義の現代では、少なくとも社会的観点から見れば、誰もが皆ほかの誰かと同様に素晴らしく、特別な尊敬に値する人間はいない。だが、敬の感情をその本来の意味に立ち戻って分析すれば、それは自分自身の無価値さへの反省、つまりは、肉体と知性、道徳と精神性における自己の限界に気づくことであった。この気づきは、自己を超えたいという望みに加え、可能な限り自分とは正反対に位置する存在に触れたいという願いを、私たちの内面に喚起する。こうした願望は、私たちの精神の動きを、しばしば私たちの外側にある対象のほうへと導く。他方で、それが私たちの内側へ向けられると、自己卑下や、罪の感情となる。いずれもネガティブな道徳心だが、ポジティブな面を言えば、それらは他者を軽んじるのを望まない敬の態度を導く。私たちは矛盾に満ちた存在だ。ある点では、自分はほかの誰と比べても同様に素晴らしいと感じ、他方で同時に、自分以外の誰もが自分よりも優れているのではないかという、生まれつきの疑念ござ一種のコンプレックスござを持つのである。

大乗仏教には、常不軽菩薩じょうふきょうぼさつ、つまりは「他者を決して軽んじない」菩薩が存在する。おそらく、私たちが他者に対して極めて誠実である時ござつまり、私たちの存在の最奥の場所でどこまでも自分自身と共にある時ござ、そこには恥の感覚でもって私たちを他者に向き合わせる感情がある。それが何であれ、そこには敬の心から生じる深く宗教的な態度がある。禅は、寒い冬の夜に暖を取るため、寺院の仏像をすべて焼き払うこともあるだろう。外的なまやかしをすべて剝ぎ取った真理の存在を保持するため、貴重な遺物も含めたあらゆる文献を廃棄することもあるだろう。それらが門外漢の目にはどれだけ魅力的なものに映ろうと、禅はそうするのだ。一方で、禅は暴風雨に打ちひしがれ泥にまみれた素朴な草の葉を、決して忘れない。野に咲くすべての野生の花を、そのまま三千世界の仏菩薩へ捧ささげることも怠らない。禅は他者の敬い方を知るが、それは他者の軽んじ方を知っているからだ。禅であれ、ほかの何であれ、必要なのは心の誠実さであり、単に概念を論じることではない。

豊臣秀吉とよとみひでよしは、当時の茶道の大パトロンとして知られ、茶道の実質的な創始者である千利休(1522〜91)の賛美者であった。彼は、世間をあっと言わせるような、雄大で人目を引くものを常に追い求めていた。だが、遂には利休一派の提唱する茶道の精神を、何がしか理解したようである。その時、彼は利休の茶会に出席し、この茶人に次の歌を献じた。

底ひなき心の内を汲みてこそ茶の湯なりとはしられたりけり

(〈心〉の底知れない奥深くから汲まれた水で茶が点てられた時、私たちは茶の湯とは何かを真に理解する)

秀吉は、多くの点で粗野で残酷な暴君であった。だが、茶道の趣味については、単にこれを自身の政治的な目的のために「利用する」のを超えた、純真なものがあったと見てよさそうである。心の井戸から深く汲み上げた水について語ることの出来た彼の歌は、敬の精神に触れている。

利休は、「茶の湯という芸術は、湯を沸かし、茶を点て、それを喫することだけで成り立っている」と教える。そのまま受け取れば、これはシンプル極まりない話だ。人生とは、生まれて、飲み、食べ、働き、寝て、結婚し、子供を産み、最後に死ぬ――その後に何処へいくかは誰も知らない――ことだと言えよう。そのように述べれば、この人生を生きるよりもシンプルなことは何もないように思える。だが、こうした坦々たんたんとした人生を送れるものが、あるいは、欲望を持たず、後悔を残さず、ただ神を絶対的に信じて神に夢中の人生を生きられる者が、果たしてどれだけいるだろうか? 私たちは生きているあいだに死を思い、死にそうな時には生を恋しがる。一つのことを成し遂げると、それ以外の数多くの、必ずしも関連性がなく大抵の場合はどうでもよい事柄が脳内に群がり、私たちの気をそらしたり、いま手掛けている問題に集中するためのエネルギーを消耗させたりする。水が容器に注がれる時、そこに注がれるのは水だけではない。善と悪、純と不純、洗うべきもの、自己の深い無意識の中以外には決して注ぎ出せないものなど、多種多様な事物がそこへ入り込むのだ。茶の水の成分を分析すれば、そこには私たちの意識の流れを阻害し汚染する、あらゆる汚れが含まれている。芸術は、それが芸術であることを止めた時、はじめて完成される。そこには技巧を凝らさない完成があり、私たちの存在の奥深いところからの誠実さが示される。これが茶道における敬の意味だ。敬とはつまり、心の誠実さとシンプルさのことである。

「清」は、茶道の精神性を構成する要素の一つと見なされ、これには日本人の心性が寄与しているように思える。清とは清潔、ときに整然さのことであり、茶道に関連した場所や事物であれば、これを例外なく観察できる。「露地」と呼ばれる庭では新鮮な水が自由に使えるが、自然の流水が使用できない場合、茶室の近くには水がなみなみとあふれる手水鉢(つくばい)がある。茶室は当然の如く清潔に保たれ、塵や汚れは一つもない。

茶道における清は、道教の清の教えを想起させる。両者には共通するものがあり、いずれもその鍛練の目的は、五感のけがれから自己の心を自由にすることにある。

ある茶人は言う。「茶の湯の心は、六根〔五感と意識〕を清めるためにある。床の間の掛物や花入の生花を見て香りをかげば、視覚と嗅覚が清まる。鉄釜の湯の音や、松の木からしたたる水の音を聴けば耳が清まる。茶を味わうと口が清まる。茶道具を扱えば触覚が清まる。かくして五感が清まった時、意識も自ずと清浄になる。茶道とは、つまるところ精神の鍛練である。私の熱い思いは四六時中、茶の湯の心から離れることがない。それは単なる娯楽などでは断じてないのだ」

利休の歌の一つに次のような作品がある。

露地はただ浮世の外の道なるに心の塵をなど散らすらむ

(露地は、この俗世の暮らしから完全に外側の通り道としてあるのに、そこに心の塵をまき散らすだけの人々がいるのはどうしたことか?)

ここで彼は、次に引用する歌と同じく、茶室から静かに外を見ている時の自分の心境について述べている。

庭の面は払ひもあへぬ松の葉になかなか塵の見えずもあるかな

(松の落ち葉で覆われた庭に塵が舞うことはなく、私の心は落ち着いている!)

軒端もる天照る月のみかげにも心晴れては恥づべくもなし

はるか上空の月の光が軒先に見え、後悔の念に遮られることなく心を照らす)

これは実に、純粋で静寂な、穏やかならぬ感情のない、〈絶対〉の孤高を楽しむことの出来る心である。

岩伝ふ雪の細道あとたえて訪ふ人もなし待つ人もなし
(岩のあいだの雪に覆われた山道の突き当たりに立つ小屋の主人はただ一人、訪問客は誰も来ないし、来ると期待もしていない)

南方録なんぼうろく』という本は、最も重要な茶道の教科書の一つであり、ほぼ神聖視されている。次に引用する一節の通り、同書では茶道の理想が提示される。それは、どれだけ小規模であれ清浄な仏の世界をこの地上に実現し、たとえ一時的かつ集う人の数も少なかろうと、そこに理想の共同体を見ることだ。

「わびの心は汚れなく清浄な仏の世界を表現し、そこにある露地(庭)と草庵そうあんを、塵や埃の一つもない状態にする。主人と客人は共に絶対的な誠意をもって交流し、一般的な尺度に基づく調整、礼儀作法、型通りのやり方に従うことはない。火を起こし、湯を沸かし、茶を喫する――ここで必要なのはそれだけであり、その他の俗な関心事が入り込むべきではない。私たちがそこに求めるのは、仏の心の十分な表現である。

作法や挨拶あいさつにこだわり、各種の世間的な配慮が忍び込めば、主人も客人も同様に、互いの過ちを探りたい感じがしてきてしまう。そうなると、茶道の意味を十分に理解した人々を見つけるのは、ますます難しくなる。趙州を主人とし、禅の初祖の菩提達磨を客に迎え、利休と私自身が露地の塵を拾うならば、その集いは実に幸福なものではないだろうか?」

利休の主な弟子の一人によるこの文章には、禅の精神が余すところなく吹き込まれている。

次節では、さびまたはわびとは何かを明確にする。これは、茶道の四つの原理を構成する概念の一つだ。実のところ、これこそが茶道の最も本質的な要素であり、それなくして茶の湯はありえない。禅が茶道に深く関わってくるのも、実にこの点においてである。

茶道の精神性を成り立たせる四つ目の要素として、私は「tranquility(静寂)」という英語を用いてきた。だが、これは「寂」という漢字や日本語のニュアンスをすべて表すのには不適当かもしれない。寂とはさびのことであり、とはいえ、さびは「tranquility」よりもずっと多くの意味を含む。さびのサンスクリット語における同義語は sānta あるいは sānti であり、これらの語には、確かに「tranquility」「peace(平和)」「serenity(静穏)」といった意味がある。また、寂は仏典では「死」や「涅槃ねはん」を表す言葉としてよく使われてきた。しかし、茶道でこの寂やさびという言葉が用いられる時のニュアンスは、「貧」「簡素化」「孤高」などであり、こうした意味において、さびはわびの同義語となる。貧を楽しみ、与えられたものを何であれ受け入れるためには、穏やかで受動的な心が必要とされる。一方で、さびとわびは、どちらも客観的な何かを示唆しているように思える。単に穏やかさや受動性を備えているだけの状態は、さびでもわびでもない。わびと呼ばれる気分を人の心の内に喚起する客
観的なものが常に存在するのだ。わびは、単に特定の環境パターンに対する心理的な反応ではない。そこには活動的な美の原理があり、もしそれが欠けていれば、貧はただの貧困と化し、孤高はただの村せ分、あるいは厭世えんせいや人間嫌いになってしまう。したがって、わびやさびとは、貧の美を活動的に鑑賞することだと定義できる。それが茶道の中で用いられると、わびやさびの感情を喚起するような環境が創造ないしは再建される。これらの言葉の今日的な用法としては、さびは個々の事物や環境一般に適用されることが多いのに対し、わびは貧や欠如、不完全さと関連した生活の仕方を指す場合が多いと言える。ここから、さびはより客観的、わびはより主観的で個人的という対比ができる。私たちは「わび住まい」(わび的な生き方)について語る一方、茶入や茶碗、花入などの道具を評価する際には、しばしば「さびた味」や「閑味」があるといった特徴の描写をしたりする。「閑」とさびは同義だ。私の知る限り、茶道具の性質として「わびた味」が認められたことは一度もない。

次の二つの歌の内、最初のほうはわびの思想を表現し、二つ目はさびの思想を示していると思われる。

壁におふる小草にわぶる蛬きりぎりす
しぐるる庭の露いとふべし

(壁に生える雑草にキリギリスが隠れ、秋露に濡(ぬ)れる庭から見捨てられたかのようだ)

なにとなく庭のよもぎも下折てさびゆく秋の色ぞかなしき
(庭のよもぎが茎から枯れ、秋は深まり色あせて、なぜかは知らず、私の心は憂いに満ちている)

さびの思想は、元々は連歌の宗匠に由来するものだと言われる。彼らは、老齢、乾燥、麻痺まひ、寒冷、曖昧あいまい――いずれも、温暖、春、ふくらみ、透明などとは反対の否定的な感覚――を示唆する事物への、立派な美的鑑賞の仕方を示してきた。実際、それらは貧と欠如によって育まれた感覚である。だが、そこには高度に洗練された美的陶酔を導く、ある種の質も存在する。茶人であれば、これを「客観的には否定、主観的には肯定」とし、それによって外面の空虚さが内面の豊かさで満たされる、と言うだろう。ある意味で、わびはさび、さびはわびであり、両者は入れ替え可能な概念である。

一休の弟子で足利義政(1436〜90)の茶の師匠であった珠光は、かつて次のような話をしながら、自分の弟子たちに茶の精神を説いていた。ある中国の詩人が以下のような連歌を作る。

深い雪に覆われた林のなか
昨夜、数本の梅の枝が開花した

彼がこの詩を友人に見せると、友人は「数本の枝」を「一本の枝」に変えたほうがいいと助言した。作者はこの友人の助言に従い、友人を「一字の師」とたたえた。雪に覆われた林の中に花咲く一本の梅の枝――ここにわびの思想がある。

これとは別の機会に、珠光はこう述べたと伝わる。「藁屋わらや〔粗末な家〕につながれた名馬を眺めることは素晴らしい。そうであれば、平凡な家具が置かれた部屋に珍しい芸術品を見つけることも特に素晴らしい」。これは「ボロボロの僧衣を清風で満たす」という禅の言葉を思い起こさせる。表面的には際立ったものの兆候はなく、外見は内容と正反対で、その内容があらゆる意味でとても貴重なのだ。かくして、わびの生命は次のように定義できる。貧の極みの奥深くに隠された言葉にならない静かな喜び――この思想の芸術的な表現を試みるのが、茶道である。

だが、不誠実さの痕跡こんせきが少しでも見えてしまえば、すべてが完全に台無しになる。貴重な内容は、この上なく純真であらねばならない。それは、あたかもそこには決して存在しないかのように存在し、むしろ偶然に発見されるべきものである。はじめは何か並外れたものが存在するとは思いもよらず、けれど何か気を引くものがあり、それに近づいて、ためらいがちに調べてみる。すると、純金の鉱脈が予期せぬところから輝き出す。とはいえ、純金それ自体は発見されてもされなくても、ずっと同じで変わらない。その実体、つまりは自己に対する誠実さは、何が起きようと関係なく維持され続ける。わびとは、自己に忠実であることだ。主人は地味な小屋で静かに暮らし、予期せぬ客がやって来れば、茶を点て、新鮮な花を生け、客人は彼との会話やもてなしに魅了されて、穏やかな午後を楽しむ。これこそ本当の茶の湯ではないか?

次のような疑問を差し挟んでくる人もいるだろう。「現代という時代に、この茶人のような立場でいられる人間がどれだけいるだろうか? 悠長なもてなしについて語っても意味がない。まずは朝食を取り、労働時間を減らそう」。確かに、私たちは額に汗を浮かべながらパンを食べ、機械の奴隷のように何時間も働かなければならない。私たちの創造への衝動は、かくして哀れにも踏みにじられてきた。とはいえ、現代人が悠長さへの好みを失い、刺激のための刺激を追い求める以外の人生の楽しみ方を自己の不安な心の内に見出せなくなったのは、それだけが理由ではないだろう。問うべきは次の問題だ。内なる不安を一時的に抑え込むための努力を続けるような人生に、私たちはどうして身を捧げるようになったのか? 生について深く真面目に反省し、その深奥の意味に気づくことがもう出来ないのは、どういうわけか? こうした問題を解決した上で、必要であれば現代の暮らしのシステムをすべて打ち消し、新しいことを始めてみよう。その目的地は、物質的な欲求と快楽に自己を継続的に隷属させることではないはずだ。

また別の茶人はこう書く。「わびの精神は天照大神あまてらすおおみかみに始まる。この国の偉大な統治者である彼は、金銀珠玉をちりばめた見事な宮殿を意のままに建て、誰も彼を悪く言ったりはしない。だが、彼は茅葺の屋根の家で暮らし玄米を食す。のみならず、どこまでも自己に安住し、慎み深く、努力を怠らない。彼は最も優れた真の茶人であり、わびの生を営んでいる」

この著者が、天照大神をわびた暮らしを送る茶人の代表と見なしているのは興味深い。これは一方で、茶道が原初的なシンプルさの美的鑑賞であることを示している。言い換えれば、茶道とは人間存在の許す限り自然に帰り自然と一体化したいという、私たちが心の奥深くで感じるあこがれの美的表現である。

こうした見解を通して、わびの概念が明確になってくるものと私は考える。ある意味では、利休の孫である千宗旦そうたんと共に、本当のわびた暮らしは始まった。宗旦は、わびは茶道の本質であり、それは仏教徒の道徳的な生活に対応すると説明する。

「内面に感応するところのないわびを表向きだけ示そうとするのは、大いなる間違いである。そうしたがる人々は、見た目だけはわびに欠かせぬ要素をすべて揃えた茶室を建てる。そのために多くの金銀を浪費し、田園を売り払って得た資金で珍しい芸術品を購入するござ客人に見せびらかすためだけに。彼らはこれをわびた暮らしだと思っているわけだが、全然違う。わびとは、物の不足、自分が抱く望みを何も満たせないこと、貧困と喪失の生活一般を意味する。自己を前へ押し出す能力を欠くがゆえに、人生の道の途中でしょんぼり立ち止まること――それがわびである。とはいえ、彼はこうした状況にくよくよしたりしない。物の不足に充足することを学んできた彼は、自分が所持している物より以上を求めない。自分が厳しい状況にあるという事実を意識するのを、もはや止めている。だが、仮にもし、貧困、不足、自分を取り巻く状況の悲惨さの観念にとどまるならば、彼はもうわびの人ではなく、貧困にさいなまれる一人の人間である。わびの意味を真に知る人は、貪欲、怒り、怠惰、不安、愚かさから自由だ。それゆえ、わびは仏教徒が守る六波羅蜜ろくはらみつの道徳と等しい」

わびにおいて、美は道徳性や精神性と融合する。それゆえ、茶道はどれだけ美的に洗練されていようと、単に楽しみのためにあるのではなく、むしろ生活そのものであるべきだと茶人たちは主張する。この点で、禅は茶道と直接的につながる。実際、昔の多くの茶人たちは禅を心から真剣に学び、禅から得たものを自己の職分である芸術に応用した。

宗教はときに、この退屈な俗世の生活から逃避するための方法の一つとして位置づけられる。学者たちはこれに反論して、宗教は〈絶対〉や〈無限〉への到達を目指しており、生活からの逃走ではなく、そこからの超越を望むものだと述べるかもしれない。だが、実際的な観点から言えば、それは人が一息入れて回復するための短い時間を得られる逃避行動である。精神的な鍛練として禅もまた、これと同じことを行っている。ただし、そのままでは超越的に過ぎ普通の人々の心には近寄りがたいため、禅を学んだ茶人たちは、その理解を茶道という形式に置き換えて実践させるための手法を開発してきた。おそらく、かなりの部分はこうしたところに、彼らの美への熱望も示されている。

以上のようにわびを説明すると、それは多かれ少なかれ消極的な性質のものであり、人生に失敗してきた人々が楽しむためにあるのだと読者は考えるかもしれない。おそらく、そうした考えはある意味では正しい。だが、人生の中で何らかの薬や清涼剤をまったく必要としないくらい本当に健康な人間が、果たしてどれだけいるだろうか? しかも、私たちは皆やがて死ぬ運命にある。現代の心理学は、心身ともに強固で元気なビジネスパーソンが、引退後に急に崩れ落ちてしまうケースを数多く示している。どうしてそうなるのか? それは、彼らがエネルギーの保ち方を学んでこなかったからである。つまり、まだ働いている内にいったん退却し静養するというプランを意識することが決してないのだ。戦国の乱世を生きたかつての日本の武士は、戦という仕事に全力で取り組んでいる際、自分は常に最大限の警戒心で神経をとがらすことは出来ず、ときにはどこかで逃げ出す道を知っておく必要があると理解していた。茶は、まさにこの道を彼に与えていたに違いない。彼はときに、わずか四畳半しかない茶室に象徴される、自分の〈無意識〉の静かな一角に引きこもったのだ。そこから出てきた時、彼は心身ともに元気づけられた感じがするだけでなく、単なる戦闘の日々を超えた永遠に価値あるものによって記憶が刷新されたはずである。

かくして、茶道の精神性を構成する四つ目にして主たる要素である「寂」とは、究極的には、エックハルト〔中世ドイツのキリスト教神学者〕が言うような意味での、貧の美的観想の一種であることが分かった。その美的観想を、茶人たちは自らが言及する対象に応じて、わびやさびと呼んできたのだ。

(ここまで「八、禅と茶道」。原注は省略しました)

訳者解説(抜粋)

本書はDaisetz T. Suzuki, Zen and Japanese Culture, 1959 の全訳である。
今日、「禅(Zen)」は単に仏教の一宗派であるにとどまらず、東洋あるいは日本の文化や精神性の象徴として世界中に知られ、熱心なファンも多い。そうした禅のグローバルな普及や人気の拡大の立役者として第一に挙げられるのが、鈴木大拙(1870〜1966)である。その大拙の主著の一つが、「禅と日本文化」にほかならない。
「禅と日本文化」には、これまでに大きく分けて三つのバージョンが存在してきた。
一つ目は、1938年に京都の東方仏教徒協会から刊行されたZen Buddhism and Its Influence on Japanese Culture(『禅仏教とその日本文化への影響』)。これは1936年に英国やアメリカで行われた講義などを基にまとめられた。二つ目は、この英書にいくつかの変更を加えて日本語訳した『禅と日本文化』(岩波新書、1940)および『続 禅と日本文化』(同、1942)。そして、1938年の英書に大幅な加筆修正を行い、1959年にニューヨークのボーリンゲン財団から刊行されたZen and Japanese Culture である。本書は、この三番目の「禅と日本文化」の、日本語による初めての全訳書となる。
日本国内では従来、戦前に刊行された訳書のうち特に一冊目の『禅と日本文化』のみが一般に「禅と日本文化」として読まれてきた。この一冊目は着実に版を重ねてきたが、二冊目の『続 禅と日本文化』のほうは、現在ではあまり流通していない。一方、この二冊の訳書の原著を大きく書き換えた1959年のZen and Japanese Cultureこそ、現在の英語圏で広く読まれている「禅と日本文化」である。同じ大拙の「禅と日本文化」でも、日本と英語圏とで、かなり異なるものが長年にわたって読まれ続けてきたというわけだ。
したがって、本書は単に戦前の旧訳版に対する「新訳」というだけでなく、その後の原著への加筆修正も踏まえ、また旧訳版のように二冊の別の本に分けてもいないという意味での「完全版」である。本書の刊行によって、ようやく大拙の「禅と日本文化」の全貌ぜんぼうが日本の読者にもアプローチしやすくなるものと思われる。

◇鈴木大拙(すずき・だいせつ) 1870年、金沢生まれ。本名、貞太郎。上京後、鎌倉の円覚寺に参禅し、釈宗演から大拙の居士号を受ける。東京帝国大学選科で学んだ後、97年に渡米。出版社に勤めながら仏教や禅についての講演、公刊をおこなった。帰国後は東京帝国大学、学習院大学、真宗大谷大学で教鞭をとり、日英語で数多くの著作を残した。1949年に日本学士院会員となり、文化勲章受章。66年没。

◇碧海寿広(おおみ・としひろ) 1981年、東京生まれ。武蔵野大学教授。近代仏教研究。著書に『仏像と日本人』(中公新書)、『科学化する仏教』(角川選書)、『考える親鸞』(新潮選書)など。

『禅と日本文化 新訳完全版』は1540円。購入は、書店かKADOKAWAのHPから各インターネット書店で。

(読売新聞デジタルコンテンツ部美術展ナビ編集班)