【レビュー】「江戸の名門料亭八百善―その食と文化―」昭和女子大学光葉博物館で11月26日まで 酒井抱一もペリーも食べた江戸の料亭文化を再発見

江戸高名会亭尽 山谷八百善(サントリー美術館蔵)

そろそろおせち料理のことを考える季節になりました。関東地方でおせちと言えば、かつおだしを使い、砂糖でしっかりと味付けしたお煮しめなどが頭に浮かびますが、こうした伝統は、実は江戸時代の料亭文化の名残りという面もあるのです。

東京・三軒茶屋の昭和女子大学キャンパスにある光葉博物館で「江戸の名門料亭八百善 ―その食と文化―」展が11月26日まで開かれています。江戸の食文化を代表しただけでなく、当時の社会で文化人や政財界の人をつなぐ役割も担っていた料亭「八百善」の歴史を通じて、江戸文化が今の生活にもいろいろな形で受け継がれていることを再発見できる展覧会です。本展を監修した公益財団法人遠山記念館の学芸課長で昭和女子大学非常勤講師の依田徹さんの解説を聞きながら取材しました。展示を順に見ていきましょう。

秋の特別展「江戸の名門料亭八百善 ―その食と文化―」
会場:昭和女子大学光葉博物館(東京都世田谷区太子堂1-7-57)
会期:2022年10月25日(火) ~11月26日(土)
休館日:日曜日・祝日 ※ただし11月13日(日)は開館
開館時間:10:00 ~ 17:00
入場料:無料
詳しくは博物館の公式サイト(https://museum.swu.ac.jp/)へ

酒井抱一や谷文晁が手がけた「レシピ集」も

八百善は、もともとは18世紀前半に開業した八百屋で、外食産業が発達した江戸で次第に料亭へと発展していきました。店主は代々「善四郎」を名乗り、4代善四郎が八百善の料亭としての地位を確立するとともに、画家や書家など文化人たちとのネットワークを築き上げました。
こうした人間関係を駆使して1822年から1835年にかけて『料理通』という献立集を刊行。八百善のネームバリューに加え、初編では当時の「仲良し3人組」として知られていた人気絵師の酒井抱一と谷文晁、書家で文人の亀田鵬斎がそれぞれ絵と序文を担当し、全4編を発行して大ベストセラーになったそうです。今で言えば、人気イラストレーターと売れっ子作家を起用した三つ星レストランの豪華レシピ集といったところでしょうか。

「料理通」全4編の展示風景

将軍や黒船ペリーも舌鼓

八百善ではどのような料理を提供していたのでしょう。
八百善へは、江戸の文化人や武士はもちろん、11代将軍・徳川家斉をはじめとする徳川家の人々までが「御成おなり」と言って直々に出向いていたそうで、八百善の名声をさらに引き上げることになりました。また、ペリーが黒船でやって来た時には接待の料理を請け負い、明治時代に入ると海外要人来日時の饗応料理を引き受けるなど、幕府や政府と強いつながりがありました。

八百善に伝わる要人接待の献立

このような公式の場で出されるのは、本膳料理といって、脚付きのお膳を複数使って提供するものです。
献立を見て驚くのは、品数の多さ。例えば将軍家斉の息子で後に12代将軍・徳川家慶となる「御西丸様」のための献立を見ると、干菓子、お吸い物、煎茶が出た後で、「硯蓋すずりぶた」という重箱のような容器に車エビやあわび、卵焼きなど10種もの料理を詰めたものが、お酒とともに提供されます。
その後、魚が出されてからようやく本膳、二の膳、三の膳と続きます。当時の結婚式でもこのような本膳料理が出されていましたが、お土産用の折詰などは、現代の結婚式にも受け継がれています。また、重箱のような硯蓋は、八百善が得意とした鰹だしと砂糖の味付けや、素材をすり潰して作る真蒸しんじょやきんとんなどの料理と共に、現在のおせち料理のルーツとなったと考えられるそうです。

結婚式などで出される本膳料理の展示風景

本膳料理だけではなく、4代善四郎は中国から伝わった精進料理「普茶ふちゃ料理」や、長崎の「卓袱しっぽく料理」を京都や大坂で学び、料亭のメニューに取り入れていました。こうした料理は一人ひとりにお膳が付く本膳料理と違い、大きな円卓を囲んで大皿に盛られた料理を取り分ける方式です。
そう聞いて、今では特に違和感はないと思いますが、当時、これは非常にめずらしかったようで、そんな異文化の香りが八百善ファンをますます増やしたかも…と勝手に想像しました。

本膳料理よりも簡素に、一枚のお盆のような「折敷おしき」に乗せて提供する会席(懐石)料理は、茶席などで出されていました。5代善四郎の時代、天保の改革で贅沢が禁止され、料亭が一時休業していた間は、こうした茶懐石の仕出しを行っていたと考えられます。時代が明治に移る6代目、7代目の時代にも、茶懐石の仕出しは八百善にとって大事な仕事でした。

相撲の番付をまねた料理番付。八百善の名は中央下段に「勧進元」として大きく書かれ、東西の料亭の中でも別格だった

江戸時代のペーパークラフトで八百善の建築を立体的に

八百善が浅草山谷(現在の台東区東浅草)で創業したのは1717年と伝えられています。これを料亭として整備したのは4代善四郎ですが、当時の浮世絵にも多く描かれている料亭建築はさぞかし立派だったことでしょう。

当世美婦揃(東京都立中央図書館特別文庫蔵)

1860年の火災で焼失するなどして建物は現存していませんが、江戸時代のペーパークラフト「組立絵」が残っています。本展では、絵や図面だけでは分かりにくい立体的な八百善の建築を、この「組立絵」によって生き生きとよみがえらせています。
八百善の「組立絵」は全7枚あり、大きなパーツだけでなく、内装の建具や掛け軸、庭木まで細かく描き込まれていて、浮世絵に描かれている2階奥座敷の窓の欄間まで確認できたそうです。今回、建築を専門とする教員、卒業生らが4日間かけて完成させたそうです。

通りに面した側は八百屋の店舗で、左側の入り口が奥にある料亭へ通じている
再現された八百善

実は、この「組立絵」は、国立国会図書館のデジタルコレクションでインターネット公開されています。みなさんも江戸時代のペーパークラフトに挑戦してみませんか? ただし、簡単ではありませんので、取り組むときはご覚悟を。

『八百善組立繪』 画:歌川國長 版元:和泉屋市兵衛 1800年代 国立国会図書館デジタルコレクション 全7枚のうち1枚目

酒井抱一 大倉喜八郎 文化を生んだ「八百善」ネットワーク

ベストセラーになったレシピ本「料理通」のところでも述べたように、4代善四郎が作り上げた人的ネットワークにより、八百善は江戸の文化人や政財界のサロンのように機能していました。
依田さんによると、八百善が担っていたのは「人と人とをつなぐ仕事」だったと言えるとのこと。そうであれば、八百善が提供したのは、おいしい料理だけでなく、今につながる江戸の文化や経済が育っていくための環境だったのではないでしょうか。

前半のベストセラーレシピ集のところで登場した酒井抱一は江戸琳派を確立した絵師ですが、頻繁に八百善を訪れ、食事代の代わりに自らの絵を置いていったので、八百善には抱一の絵がたくさん残っていたそうです。抱一の弟子たちもよく利用していたため、八百善は江戸琳派の拠点となりました。

八百善に伝わる書と画 右は4代善四郎像

また、時代が下って大正時代の関東大震災後に営業再開した際には、大倉集古館でも知られる実業家大倉喜八郎から祝いの一筆を贈られています。第2次世界大戦後の再建時にも著名な財界人から連名の祝い文を贈られていて、財界との繋がりが強かったことが分かります。

現在の東京を歩きながら、約200年前の江戸の町を想像しようとしても、なかなか難しいかもしれません。しかし、江戸の人々も今と同じように、おいしいものを求めて料理屋の情報を探したり、仲間に会うためにいつもの店へ通ったり、商談を成功させようと良いお店を予約したりしていたのだと考えると、なんだか親近感が湧きませんか?

依田さんは「関東大震災や第2次世界大戦により一時的に失われた江戸文化の体系は、実はちゃんと残っていて、その延長線上に、例えば京都とはまた別の、江戸風のおせち料理があると考えてみてください。八百善が奇跡的に今に伝えているその文化を知ってもらえたら」と話していました。
本展を見て、江戸の料亭は食べるにとどまらず、人と人とをつなぎ、文化や社会を育んだ基盤だったと考えることができました。
(ライター・片山久美子)
*八百善は現在、11代目栗山善四郎さんが当主をつとめています。今年8月に横浜市磯子区に店を移して「八百善 雨月荘」として営業しています。(詳しくは、下の読売新聞オンラインの記事をご覧ください)