【探訪】「国宝 東京国立博物館のすべて」展 東京国立博物館 小説家・永井紗耶子

国宝 松林図屛風 長谷川等伯筆、安土桃山時代・16世紀、東京国立博物館蔵 【展示期間:10月18日~10月30日】

いよいよ始まりました。「国宝 東京国立博物館のすべて」展。
始まる前から、今か今かと待ちわびていた方も多いのではないでしょうか。かく言う私もその一人です。

これまで様々な史料で「東京国立博物館所蔵」という記述を見ました。しかし、それらはいつも公開されているわけではありません。所蔵されているけれど、見ることはできない。次にあの作品に出会えるのはいつだろう……と、東博のカレンダースケジュールを見つめては、ため息をついたことが何度あることか。

しかし今回、東京国立博物館創立150年を記念したこの展覧会では、思い切り見ることができるのです。

今回はまずは、数多くの作品の中から、絵画についてお話したいと思います。

圧巻の松林図

まず、はじめに迎えてくれるのは、長谷川等伯の「松林図屛風」です。それこそ美術や歴史の教科書にも登場している有名な作品の一つです。

国宝 松林図屛風 (右隻)長谷川等伯筆、安土桃山時代・16世紀、東京国立博物館蔵 【展示期間:10月18日~10月30日】

いざ、目の前に立ってみると、その静けさに包まれるような心地がします。

墨の濃淡だけで表された松林の風景。近づいてみると、その筆跡は激しく、躍動しているのが分かります。しかし、少し離れてみると、その筆跡は、松の葉が風に揺れているように見えるのです。大きな余白は、松林の中のひんやりとした空気を感じさせます。

どこか、霧雨に煙る中に松が立っているような。芳しい松の香りまでも漂うようです。

長谷川等伯は、安土桃山時代に活躍した画家です。京都の智積院にある桜図、楓図の屏風は、色鮮やかに季節の移ろいを伝えている作品です。私は、京都を訪れた際には、智積院に立ち寄って、この屏風を見に訪れます。こちらもまた、前に座っているだけで風の音や水のせせらぎを感じる作品です。実はこの屛風は、長谷川等伯が、自らの後継として育てていた息子、久蔵と共に描いたものでした。しかし残念ながら息子はこの屏風を作成した後に亡くなってしまうのです。

悲しみの只中にあった等伯が描いたのがこの「松林図屛風」の風景でした。

その話を聞いた時、私はこの墨の濃淡のみで描かれた静かな松林が、等伯の心象風景のように思えました。

この作品は、実は下絵であったとの説もあるそうです。しかし、この躍動する筆の中にこそ、等伯の心が映し出されているのかもしれない。そんな風に感じる作品でした。

しかしこの展覧会、最初からこの迫力なので、見終わる頃には大変なことになるのでは…と思わされる最初の作品でした。

時空を超えて歴史に名を刻む孔雀明王

今回、私が楽しみにしていた作品の一つ、「孔雀明王像」です。

国宝 孔雀明王像 平安時代・12世紀、東京国立博物館蔵 【展示期間:10月18日~11月13日】

これは、鮮やかな色彩と金を用いて描かれた明王図。平安時代に描かれたもので、明王の姿を描くと共に、その構図は曼荼羅の様式にも似ています。

目の前に立つと、明王の眼差しがこちらに向けられており、後背の輝きはより一層増すように感じます。孔雀の羽の一枚一枚も丹念に描かれており、吉祥果を持つ手先の細部に至るまで丁寧に装飾が解かされているのが分かります。一幅の絵なのですが、その前にいると、マントラが低く響いてくるような荘厳さ。正に千年の時を越えて来た重厚感があります。

この「孔雀明王像」は、描かれた平安仏画の中でも、さすが「国宝」と言える一枚だと思います。しかしこの作品は、平安時代だけでは終わりません。再び歴史上に姿を見せることになるのは、明治時代に入ってからのこと。

当時、明治政府が発した「神仏分離令」の影響で巻き起こった廃仏毀釈によって、仏教美術は壊滅の危機に瀕していました。明治の元勲である井上馨はそのことを憂い、仏教美術品を救うために集めていたのです。そのうちの一つがこの「孔雀明王像」。しかし、もしも欲しいと望む人がいるならば譲りたいと言いました。その価格は「一万円」、現在の価値で言うならば一千万円くらいにあたるのではないでしょうか。それを聞いた三井の大番頭であった益田孝は「五千円ならまだしも、一万円出す人はいない」と、買い手がつかないと考えていたそうです。しかし、迷わず手を挙げたのが、当時三十五歳になったばかりの若手実業家であった原三溪。三溪はこれを購入したことで、一躍、数寄者として名を知らしめることとなりました。

その後、外国人コレクターたちが、三溪が所有する「孔雀明王像」を見たいと切望し、大枚を積み上げて「譲って欲しい」と懇願したけれど、三溪は決して譲りませんでした。また、画家の支援を行っていた三溪は、「創作の参考に」と、前田青邨や下村観山、今村紫紅、小林古径、安田靫彦などの名だたる近代画家たちにこれを披露しました。現在、未だ国宝にはなっていない近代画家の作品の中には、この「孔雀明王像」を見たことで描かれた作品もあるでしょう。

正に時空を超えて、芸術に影響を与えて来た「国宝」です。

奥へと続く濃淡の世界

ともかくも、どれもが通常の展覧会ならば目玉となりえる作品ばかりなので、語りたい作品は尽きないのですが、もう一点だけお付き合いを。

雪舟の「秋冬山水図」です。

国宝 秋冬山水図(冬景) 雪舟等楊筆、室町時代・15~16世紀、東京国立博物館蔵 【展示期間:10月18日~11月13日】

雪舟と言えば、室町時代を代表する水墨画家です。四十八歳にして当時の中国、明に渡り、三年間の修行をしました。帰国後に精力的に作品を描き、多くの名作を残しています。

この「秋冬山水図」は、これまでにも書籍や図録などで目にしました。しかし改めて目の前に立ってみると、「あれ、こんなに小さな作品だったのか」という驚きがありました。

遠目に見ても分かるほど、はっきりとした勢いのある筆致で描かれた線が、山や岩、寺の輪郭を象っています。更にぐっと近づいて見てみると、その強い線の奥に淡く繊細な線や、墨の濃淡が奥行を描いているのです。

じっと前に立っていると、ひんやりとした冬の風や、岩の冷たさ、水の音が感じられるよう。気づくと絵の中に引きずり込まれていくような奥行を感じるのです。

水墨画は、そこに描かれている人物になり、風景の中に入り込んで楽しむものだと教えて頂いたことがあります。正に、するりと「中に入る」ことができるのが、この作品の魅力なのではないでしょうか。

大きい作品だと感じていたのは、この奥行を画面の中からも感じていたからかもしれない。そして、実物を見てみると改めて感銘を受けるものだと感じました。

いつか見てみたいと思っていたものが、こんなにもたくさん一度に見られる機会は、なかなかありません。ぜひ、足を運んでみてください。

永井紗耶子さん:小説家 慶應義塾大学文学部卒。新聞記者を経てフリライターとなり、新聞、雑誌などで執筆。日本画も手掛ける。2010年、「絡繰り心中」で第11回小学館文庫小説賞を受賞しデビュー。著書に『商う狼』『大奥づとめ』(新潮社)、『横濱王』(小学館)など。第40回新田次郎文学賞、第十回本屋が選ぶ時代小説大賞、第3回細谷正充賞を受賞。『女人入眼』(中央公論新社)が第167回直木賞候補に。