【プレビュー】幕末から明治にかけての「ライバル」を特集――三菱一号館美術館で「芳幾・芳年-国芳門下の2大ライバル」 2023年2月25日開幕

芳幾・芳年-国芳門下の2大ライバル

  • 会期

    2023年2月25日(土)4月9日(日) 
  • 会場

    三菱一号館美術館
    http://mimt.jp/
    千代田区丸の内2-6-2
  • 観覧料金

    一般1900円、高校生・大学生1000円、小、中学生無料

  • 休館日

    3月6、13、20日は休館

  • アクセス

    JR東京駅(丸の内南口)から約5分、有楽町駅(国際フォーラム口)から約6分、東京メトロ千代田線二重橋駅(1番出口)から徒歩約3分、丸の内線東京駅(地下道直結)から約6分、有楽町線有楽町駅(D3/D5出口)から徒歩約6分、都営三田線日比谷駅(B7出口)から徒歩約3分
  • カレンダーへ登録

※詳細情報は公式サイト(https://mimt.jp/ex/yoshiyoshi/)で確認を

2010年の「マネとモダン・パリ」から数多くの企画展を開催してきた三菱一号館美術館。40展目となるこの「芳幾・芳年―国芳門下の2大ライバル」を最後に大規模修繕工事のため休館することになった。同美術館は英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設計され、1894年に丸の内初のオフィスビルとして誕生した「旧三菱一号館」(1968年に解体)を2009年に復元した建物。2024年度中のリニューアルオープンを目指すという。

月岡芳年《藤原保昌月下弄笛図》明治16(1883)年 北九州市立美術館

落合芳幾(18331904)と月岡芳年(18391892)は、江戸後期を代表する浮世絵師、歌川国芳(17971861)の門下。豪放な武者絵から機知に富んだ風刺画まで幅広い作品を残した師匠の下で腕を磨いた芳幾と芳年は、壮年期に明治維新を経験し、「最後の浮世絵師」の世代の一員として激動の時代を過ごした。世相風刺が得意だった国芳の感覚を受け継いだのは芳幾。新聞錦絵のフロンティアとなった。一方の芳年は、国芳の武者絵を発展させて歴史画の分野を開拓。現代のアニメーションを彷彿とさせるダイナミックな作品を残した。それぞれ師匠の異なる面を継承したのである。

落合芳幾《与ハなさけ浮名の横ぐし》万延元(1860)年 悳コレクション

今回の展覧会は、プロローグ、エピローグに加えて6章で構成になる予定。展示の中心は、大阪で浅井書店(後の泰山堂)を営んだ浅井勇助氏が明治末期から収集した「浅井コレクション」だ。芳年収集で知られる「西井コレクション」、国芳研究でも著名な「悳コレクション」からの貴重な作品に加え、元大阪毎日新聞記者の新屋茂樹氏による「新屋文庫」からは錦絵新聞も出品されている。

落合芳幾《英名二十八衆句 鳥井又助》慶応3(1867)年 西井コレクション
月岡芳年《英名二十八衆句 高倉屋助七》慶応3(1867)年 西井コレクション

プロローグの「芳幾と芳年」では、若き日の共作やそれぞれの肖像画などを展示。これらを対比することで2人の特徴を紹介する。ふたりの共作で有名なのは、歌舞伎などの凄惨な場面をモチーフとした《英名二十八衆句》で、慶応23186667)年に描かれたこの連作は、「無惨絵」の代表作とされる。江戸後期から幕末にかけての浮世絵界は歌‍川派が隆盛。その黄金期を築いた国芳一門で、筆‍頭と目されたのが芳幾と芳年だという。

歌川国芳 《源頼光公館土蜘作妖怪図》 天保14(1843)年 浅井コレクション

続く第1章は「二人の師、国芳」。国芳の作品を改めて紹介。第2章は「武者絵(国芳・芳幾・芳年)」。国芳の技法を正統に継承したのが芳幾の「太平記英勇伝」ならば、大胆な視点でダイナミックな作品を創出したのが芳年の「芳年无者無類」。第3章は「国芳からの継承」。芳幾と芳年、それぞれが国芳から継承したものは何だったのか――。

落合芳幾《太平記英勇伝 明智日向守光秀》慶応3(1867)年 浅井コレクション ※展示替えあり
月岡芳年《芳年武者旡類 源牛若丸 熊坂長範》明治16(1883)年 浅井コレクション

4章は「芳幾・芳年の肉筆画」。これまで芳幾・芳年の画業の紹介は、浮世絵版画が中心だったが、今回は肉筆画も多く出品。それによって、二人の画技の比較を試みる。第5章「同時代絵師たち」では、芳幾・芳年と年齢が近い「最後の浮世絵師」世代の作家たち、「光線画」で一世を風靡した小林清親らの作品を展示する。

落合芳幾《五節句図》制作年不詳  東京国立博物館 Image : TNM Image Archive
月岡芳年《ま組火消しの図》明治12(1879)年 赤坂氷川神社

6章は「新聞錦絵」。時々の話題やゴシップを扱うことも浮世絵の画題のひとつだったが、明治になって次々に創刊された「新聞」がその役割を受け継ぎ、発展させた。写真が一般化するまでは、「新聞錦絵」が、その紙面を彩った。芳幾が條野採菊(鏑木清方の父)らとともに設立に関わったのが、「東京日々新聞」。芳幾は戯作者や好事家との交流が多く、明治以降はこうした仲間との事業にも携わった。芳年も対抗して「郵便報知新聞」の挿絵を描いた。明治の世相を映し出した、それらの「新聞錦絵」を紹介する。

落合芳幾《東京日々新聞111号》明治7(1874)年 毎日新聞社新屋文庫

エピローグは「月百姿」。スランプで神経を病んだこともあった芳年だが、西洋画法や歴史肖像の手本となった菊池容斎『前賢故実』などに学び、全く新しいタイプの武者絵を生み出した。美人画の秀作も残した晩年、江戸回帰を志向したのが《月百姿》だ。月にちなんだ歴史上の人物の物語が画題の100枚に及ぶ連作は、静謐な雰囲気に覆われており、芳年が到達した境地を示している。

月岡芳年《つき百姿 千代能》明治22(1889)年 浅井コレクション