若冲も楽しんだ?中国書画を即興で鑑賞する「煎茶会」が泉屋博古館東京で開かれました

飛鳥時代の仏教美術、平安時代の王朝美、武士の日本刀、室町将軍が愛した唐物、千利休が大成した「わび茶」など、日本の美術は、海外からの影響と国内で和様化する流れが波のように続いてきました。
江戸時代から明治時代にかけて大流行した海外由来のカルチャーがありました。それは「煎茶会」。
わび茶と同じ茶の湯ながら、現在では、あまり知られていない「煎茶会」とは?
中国書画を前に、気心の知れた友人たちと煎茶を飲みながら自由な意見を交わして鑑賞する一種のティーパーティーでした。江戸時代に新しい日本画を切り開いた伊藤若冲や円山応挙らも、実はこうした煎茶カルチャーから生まれたそうです。
泉屋博古館東京(東京・六本木)で開催中の「古美術逍遙―東洋へのまなざし」(10月23日まで)の関連イベントとして、9月19日に行われた記念煎茶会「もういちど、はじまりを」の内容をレポートします。

抹茶よりも「先端」だった煎茶文化

お茶には、抹茶と煎茶があり、抹茶が茶道で使われているのはご存じのとおり。一方で煎茶は、日常の飲み物という印象が強いですが、実際は、江戸時代になってから日本に入ってきた新しいタイプのお茶でした。

しかも、たんなる飲み物としてではなく、中国の「文人趣味」という外国カルチャーとセットでした。文人趣味とは、知識人(文人)たちが、煎茶やお酒を飲みながら漢詩や学問などについて語り合い、時には自ら筆をとって絵を描くなどの、中国・明時代の風雅な文化のこと。

煎茶と文人趣味が日本にきた江戸時代。その頃、中国ではその明王朝が滅び、清王朝へと移り変わっていく時代でもありました。煎茶は当時最先端の海外由来のカルチャーであっただけでなく、滅亡した明への同情や憧れもあって、日本で煎茶文化は大流行します。

抹茶の茶の湯が、名物など茶道具について定まった評価を共有したり、形式を重視したりするのに対して、煎茶は自由な発想を楽しむ世界でした。保守的な狩野派から脱却したといわれる伊藤若冲や円山応挙といった江戸を代表する作家たちも、この煎茶文化のなかで育まれました。

幕末から明治にかけては、茶の湯=煎茶というほどに人気でしたが、緑茶と呼ばれる飲み物としては普及する一方で、煎茶文化は衰微していきました。

こうした煎茶の歴史については、この日の記念煎茶会「もういちど、はじまりを」を主宰した、文人茶を継承し実践している佃一輝さんの話や著書『茶と日本人 二つの茶文化とこの国のかたち』(世界文化社)などで知った内容です。

参加者から自由な意見を引き出す佃一輝さん(右)

ジャズのセッションのように即興で絵画鑑賞

この日の煎茶会では、展示室に並ぶ中国書画を会議室のスクリーンに映し出し、参加者たちが即興的な対話を重ねて、作品を読み解いていきました。
面白いのは、「講義」ではないので、最初から「正解」が存在しているのではないところです。

参加者たちが意見や感想を出していき、例えば

「この絵の中で書が書かれている場所は全体から見るとバランスが悪くないか?」

「舟の上で完成している絵を差し出されて、ささっとその場で書を書き加えたのでは?」

などと、1人で鑑賞するだけでは気づけなかったこと(そのことが実際に正しいのかどうかは問題としない)が、対話の中から、ポンポンと出てくるのです。まるでジャズのセッションのようです。

途中で出された「玉露」。普段飲んだことのある玉露とは全く別の飲み物と思えるほどの味でした

もっとも、自由に”演奏”できる人(文人墨客)になるには、中国の歴史、書、画、漢詩などを勉強する必要がありそうです。ただ、楽器を弾けなくても音楽鑑賞が楽しめるように、観客席でもいいので、おいしい煎茶を喫しながら、中国絵画や書の世界を深く楽しめる機会がもっと増えるとうれしいですね。

(読売新聞デジタルコンテンツ部 岡本公樹)