「励まされる人に向けて描きたい」 「これまでの漫画家業の集大成」としての展覧会に満足 楠本まきさんインタビュー

「戀愛譚」の場面から(弥生美術館で)

東京の弥生美術館で、「線と言葉・楠本まきの仕事」展が開催中の楠本まきさんが、「美術展ナビ」のインタビューに応じてくれました。38年間の漫画家業の集大成となった展覧会はその作品同様、高い完成度で、ロンドンから久々に帰国したご本人も「思っていた以上の出来栄えとなりました」と納得の表情。少女漫画の中のジェンダーバイアスに対する問題提起など社会的問題への発言でも話題になった楠本さんは、「励まされる人に向けて描きたい」とその真摯な思いを語ってくれました。(聞き手・美術展ナビ編集班 岡部匡志)

『Kの葬列』など楠本さんの作品ならではの、耽美的な世界観が展開される展覧会場(弥生美術館で)

<楠本まき> 和歌山県出身。1984年、16歳の時に『週刊マーガレット』でデビュー。その後「KISSxxxx」、「Kの葬列」、「致死量ドーリス」など耽美的で精緻な作品群で世代を超えたファンを獲得。2020年には最新作「赤白つるばみ・裏/火星は錆でできていて赤いのだ」を刊行。フランス、イタリア、アメリカ、韓国などでも翻訳本が出版されている。お茶の水女子大学哲学科中退。ロンドン在住。

音楽界やファッション界に熱心なファンが多いことで知られる楠本作品。会場の弥生美術館には有名アーティストからの花束も届けられました

これまでの漫画家業の集大成として

Q 本展は昨年、京都国際マンガミュージアムで開催された展覧会の巡回展ですが、昨年はコロナ禍でイギリスから移動することが困難だったので、楠本さんが実際に会場を見るのは今回が初めてですね。いかがでしたか。

A 想像していた以上にとても良い出来になったと思います。両美術館の方々をはじめ、関係した皆さんが本当に頑張ってくれました。リモートでの打ち合わせしかできない状況の中で、図面上で指示と確認を繰り返し、最終的によくここまで仕上がったなあ、と感慨深いです。ゲストキュレーターとして妹(楠本亜紀さん:インディペンデントキュレーター)がそれぞれの会場に合わせた最適解を導き出してくれたのが一番大きかったですね。

私は立体的にというか、動線とか、空間的にものを見せる、ということをこれまでほとんど考えたことがなかったので。彼女なしにはこの展覧会はあり得なかったと思います。言葉や展示する絵を選出し、それを壁面上にどういう順番でどう配置するかなどは、普段自分が漫画作品を作っている時と同じ感覚で構成しました。多分、来館される方には、私の作品を読むように鑑賞していただけるんじゃないかと思っています。弥生美術館さんにも、ガラスケース内の壁を(作品の世界観に合わせて)黒くするとか、これまでされたことのなかったことにも色々果敢にチャレンジしていただき感謝していますし、一緒に作り上げたなあ、という気持ちです。アートディレクターの秋田和徳さんは長年、私と私の作品をよく理解してくれている方なので、そこは安心していました。

『KISSxxxx』の世界観に合わせて作られたバンドのライブのチラシも見もののひとつ。アートディレクターの秋田和徳さんが手掛け、自ら階段に張る気合の入れよう。1980年代後半のライブハウスの雰囲気が濃厚に伝わってきます。

Q このタイミングで大規模な展覧会の開催に至った経緯は。

A もともと、デビュー35周年に合わせて何かしたいな、と思っていて。いままで東京でしか個展を開いたことがなかったので関西で開催したいな、それなら京都国際マンガミュージアムがいいんじゃないかな、と。実際取りかかると準備が大変で、マンガミュージアムさんからも「35周年に拘らず、良いタイミングで開きましょう」と言ってもらえて、去年と今年の開催になり、コロナ禍にも見舞われた(笑)、という次第です。

Q ご本人にとっても漫画家人生の節目という感覚でしょうか。

A あまりそういうことは考えていないのですが、これまでも単行本や画集を出す時など、ギャラリーで展示をするなどはしており、今回もうちょっと集大成的なのも面白いんじゃないかと思いました。

仕事の最終形態は「書籍」、制作過程を見せる

Q 漫画家の回顧展というと、原画を中心にした展示となるのが一般的ですが、今展は「仕事」と銘打っているだけあって、漫画制作の職人技ともいうべき精緻な側面や、仕事へのこだわりにフォーカスしており、とてもユニークな内容です。吹き出しや文字の0・05㍉単位の位置調整や、8回にわたる校正紙のやりとりなど、その精密さには驚くばかりでした。

「0.5㎜左に」「0.15㎜上に」など0.1㎜以下の精密な指示が書き込まれた校正用紙

A 私は、自分の作品としての最終形態は書籍だと思っているんですね。そのため、原画を見てもらいたいという気持ちはとても希薄なんです。ただ、どういう風に作品を作っているのかということは、こういう形で見せたりしない限りだれにも分からないので、面白いのではないかと。皆さんに楽しんでもらえるように、と内容を考えました。

Q 原画が原画っぽくない、というと変ですが、すでに原画が作品として完成しているのにも驚きます。

A 確かに、最終的に印刷されたものと比べても、あまり違わないかもしれないですね。

Q 作画は手描きに拘っていますね。

A デジタルも割と昔から触っていますが、結局は自分では手描きほどの良さは出せないなあという結論に至って。紙に手描きでササッと描いても、味のある絵になる可能性は高いのですが、デジタルでササッと描くと、単なる雑なデジタル画にしかならない。スキャンしたり加工したり、たまにフルデジタルでも描きますけど、今後も基本的には紙に手描きで行くと思います。

不正入試に衝撃、「励ましたい」思い

Q 2019年、少女漫画の中に見られるジェンダーバイアスのかかった表現に対する提言(※1)で注目されました。特にクリエイティブに関わっている人たちが勇気をもらった発言だと思います。

A 2018年に発覚した医学部の不正入試(※2)のニュースが本当に衝撃で。あれがなければ、ここまではっきりしたことは描かなかったと思います。

『赤白つるばみ・裏』から、話題になった場面のステッカーが今展覧会では新たなデザインでヴァージョンアップして復刻。

Q この時代にあれほどあからさまな女性差別が存在するのか、とあきれてしまう事件でした。

A それまでももちろん、さまざまな場面で女性差別があることは多かれ少なかれ誰もが感じていたと思いますが、入試のような、能力だけで測られると信じていたものにまで性別で差をつけていた、というのは愕然とするというか、絶望しましたね。女性差別が常態化してしまっている社会にあって、せめて少女漫画はジェンダー規範の再生産に加担しないという選択をしてほしいと思いました。

Q あの事件で意識が変わったのですか。

A 私自身の中では、過去に描いてきた作品も、はっきりと言葉で表現はしていなくても、例えば作品の中に出てくる男の子と女の子の関係が対等であることなどは一貫していたと思います。ただ、それはたまたまではなくて、意思があってそう描いているということが分かるほうが、励まされる人は励まされるかなと。そういう意味では意識は少し変わりました。

代表作のひとつ『KISSxxxx』から、かめのとカノン。「男の子と女の子の対等な関係」という楠本さんの形容に、作品に触れた人は誰しもが頷くのではないでしょうか。

Q ちょうど東京では「ベルサイユのばら」50周年展を開催中です。池田理代子さんが厳しい男女差別を受けながら作品を通じて新しい価値観を表現し、昨今、楠本さんが改めてそうした問題を提起したのは意義深いと思います。この半世紀あまりの少女漫画の歴史を振り返って、そうしたジェンダーを踏まえた表現の変化についてどのように見ますか。

A 意識して描く作家さんが増えてきていることは嬉しく、心で連帯しています。ジェンダーという言葉が普及する以前も、それこそ池田理代子さんでも萩尾望都さんでも、意識を持った作家さんたちは昔からいて、別に新しいことではないんですけど、近年、はっきり言わないとダメだと思った人たちが増えたんじゃないかな、と思います。その一方で、依然個々の作家のジェンダー観だったり、社会との関わり方だったりのみに依存している状態のままなので、やはり編集者も一緒に考えてほしいですし、勉強していく姿勢が業界全体に必要だとは思います。

制作拠点としてのロンドンの魅力

Q 楠本さんがロンドンを制作の拠点として20年あまりになります。近年はブレグジット、コロナ禍、ウクライナの戦争、エリザベス女王逝去とイギリスや欧州で歴史的な出来事が相次ぎましたが、ロンドンでの暮らしはいかがですか。

A イギリスは他のヨーロッパの国と比べてもとても個人主義的で、そこが好きです。ただ、今回のエリザベス女王の国葬の際は、全体にナショナリスティックな傾向が強まって、「あれ?」と思うこともありました。テレビの画面の中でのことですけど。追悼の番組が延々と続いていました。

Q でもロンドンならではの魅力があるのですね。

A 気が楽です。私が外国人だから、ということもあるのですけど。気候など全部が好きです。気候がいいというと、みんな「えっ」と言うのですが(笑)、夏は涼しいし、湿気がないし。冬場も、日本のようなヒシヒシとくる寒さがないので過ごしやすいです。ただ、ロックダウンやウクライナの戦争で郵便事情が極端に悪くなったので、担当編集者さんはとても苦労していました。

A 作品もいろいろな国で翻訳されています。文化的な差異を乗り越えて多くの読者をインスパイアしています。

A こちらには意外と反響が分からないんですよ。イタリアは漫画好きな人が多いようで、去年新しく翻訳が出て、インスタに挙げるなどしてくれるので、ああ出てるんだ、と思うという感じで。でもまあ嬉しいですね。

校正が人生の大半

Q ファンは次がどんな作品が出てくるのだろうか、と楽しみにしています。

A しばらくは、新作の制作は考えていなくて、これまでの作品の改定版である「愛蔵版シリーズ」を出すことなどに注力しています。校正に人生の大半を使っているような日々です(笑)。

『KISSxxxx 愛蔵版』Ⅰの表紙(小学館クリエイティブ刊)

Q やはり書籍の形が最終形、ということでしょうか。

A そうですね。この愛蔵版は、編集さんと相談して、ファンの人に限らず、初めて読むという人にも手に取ってもらいやすいよう、常に書店に並べられるようなものを目ざしました。布張りでも箔押しでもお金さえかければいくらでも豪華な本にはなるけれど、ほしい人がすぐ手に入るものにしたいと思って。その制約の中でいかに愛蔵版としてデザインするかというのが醍醐味でもあります。

Q 新しい版を作るのにどれだけ校正がいるのか、という作品群ですよね。

A 編集者泣かせですよね。本当に皆さんよくやってくれています。8校とかは、デジタルになって可能になったことですね。

Q 展覧会で、「ここを見てほしい」というポイントを挙げるとすれば?

A 全部ですけど(笑)、弥生美術館では、学芸員さんのアイデアで導入部分として扉に作品から抜き出した言葉群を貼ったのが、うまく機能したと思います。展示自体が、私の漫画の世界の延長だと思って見てもらえれば。おまけで私と誕生日が同じ、とある哲学者の頭部の小さなエッチングを滑り込ませておいたので、見てフフっと笑ってほしいです。

ここでは『ドはドリーのド』『KISSxxxx』から印象的な一節がドアに書かれています

(※1)「ココハナ」に連載されていた『赤白つるばみ・裏』の2019年2月号で、少女漫画の中のジェンダーバイアスについて取り上げ、自身のnoteでも「少女漫画は、もっと少女の考え方や生き方を自由にするものでなければ、それは少女に対する裏切りではないか。」と書き、多くの共感を得た。

(※2)東京医科大学の裏口入試事件を契機に、日本の複数の大学の医学部が、女性や浪人生を不利に扱う得点操作を行って合格者を抑制していたことが発覚した問題。