【レビュー】博物館は昔から人気スポット 特別展「博覧-近代京都の集め見せる力-」展 龍谷ミュージアムで11月23日まで

日本最初の「博覧会」は明治4(1871)年に京都で開かれたということをご存知でしょうか。「人はなぜ集めるのか?」。博覧会や博物館を対象とした珍しい展覧会、「博覧-近代京都の集め見せる力-」展が龍谷ミュージアムで開かれています。紹介されているのは明治から昭和初期にかけて京都で開かれた「初期京都博覧会」、「西本願寺蒐覧(しゅうらん)会」、「仏教児童博物館」、「平瀬貝類博物館」です。展示は写真パネルやタペストリーも含めて約200件。重要文化財も2件、初公開品も60件あります。「博覧」とはモノや資料を集め見せることです。趣味や研究が、満足し、自慢したくなり、さらに探求へと続く。そんな主催者の意識が伝わって来る展覧会です。
特別展「博覧-近代京都の集め見せる力-」展
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会期
2022年9月17日(土)〜11月23日(水) -
会場
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休館日
月曜日(9月19日、10月10日は開館)、9月20日、10月11日
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開館時間
10:00〜17:00 (入館は午後4時30分まで)※10月7日、21日は午後8時閉館(入館は午後7時30分まで) -
拝観料
一般1300円、高大生900円、小中学生500円
小学生未満、障がい者手帳をお持ちの方と介護者1人は無料
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アクセス
市バス「西本願寺前」下車徒歩2分
「京都」駅より徒歩12分
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詳しくは龍谷ミュージアムホームページへ

第1章 初期京都博覧会
博覧会は明治維新による遷都で沈滞していた京都を盛り上げようと計画されたものです。19世紀後半に西欧で開催され盛況だった万国博覧会に刺激されたこともあったようです。場所は西本願寺書院で、会期は10月10日から11月11日までの33日間。1万人を超える入場者がありました。展示されたのは武具や書画、陶磁器などで骨董品展に近いものだったようです。そのため、この展覧会はプレイベントと位置づけられました。

翌年、明治5(1872)年に正式に第1回「京都博覧会」が開催されます。会期は3月10日から5月30日までの80日間。会場は西本願寺、知恩院、建仁寺の3カ所です。当初予定の4月30日までが延長されました。雨天などが理由に挙げられていますが、入場者が伸びなかったためのようです。最終的な公式入館者数は3万9000人でした。表紙写真の西本願寺大玄関門の写真パネルをよく見ると、「日のべ」(延長)の看板が見えます。また、出品目録も作られました。今回展示されたものには品目と所蔵者が記載され、挿絵による説明もあります。入場者を増やそうと、関西だけでなく名古屋や東京の書店でも販売されたそうです。

展示された「通券(入場券)」には英文が書かれています。第1回「京都博覧会」では、外国人が京都に入ることが初めて認められました。居留地に住む外国人が自由に日本国内を旅行することは認められなかった時期です。期間中に770人の外国人が入館したようです。居留地の英字新聞にも記事が載り、その挿絵が写真パネルで紹介されています。展示品や見入る人たちの衣装、竹製の柵など興味深いものです。幕に描かれた紋は三つ葉葵のようです。外国人にはこう見えたのでしょうか。京都博覧会は会場を替えながら昭和3(1928)年まで続きます。
第2章 西本願寺蒐覧会

西本願寺は江戸時代から歴代宗主の遺徳をしのぶ「法宝物拝観」を開いていましたが、明治8(1875)年からこれを発展させた「蒐覧会」が開かれます。第1回には西本願寺から45件、岩手から佐賀までの156の寺から691件の法宝物が集められたそうです。交通手段の発達していなかった当時、法宝物を傷つけずに運ぶ苦労は大変なものだったと想像されます。展示でも注目されるのは今回が初公開、明治天皇から拝領した『銀製孔雀置物』です。色は劣化していますが、広げた羽など非常に精巧なものです。オスを見上げるメスの表情など、見とれてしまうほどです。

『津島祭礼図屏風』も注目です。愛知県の津島神社の600年続く祭礼で、日本三大川祭の一つである尾張津島天王祭を描いたものです。この資料も今回初公開だそうです。川の両岸のお店や川に綱を通しての曲芸など、当時の様子が手に取るように分かります。傷みもなく色も鮮やかです。大切に扱われて来たのでしょう。この祭礼を描いた屏風絵は世界でも8点しか確認されていないそうです。

西本願寺鴻之間は地方の寺院や門信徒から借用した法宝物を展示した場所です。上段に木仏、下段には軸や冊子を陳列しています。竹で結界を作り、陳列物に触れないようにしています。

蒐覧会で展示した法宝物が本物だという、鑑定証も展示されています。福井県や富山市といった地名が読めます。遠く離れた地から地元に伝わる法宝物を人力で運んだ寺院や門信徒にとっては、大切な書として保管していたのでしょう。
第3章 仏教児童博物館
仏教を児童に伝えるという世界的にも珍しい博物館が、昭和3(1928)年に龍谷大学教授だった中井玄道によって設立されました。きっかけは米・ボストンに住む女性から中井に、雛人形の寄贈を希望する手紙が来たことでした。排日運動が激しかった当時、親日家だったその女性は日米両国の親善は児童の親善が道を開くと考え、生活習慣を知るために希望したのです。

大正14(1925)年、雛人形と着物などがボストンに送られ、雛祭りが開かれます。その後、返礼として人形が送られて来ました。日本でも好評で、各地でこの人形の巡回展示が行われます。「青い目の人形」の名で知られる日米の人形交換は、この交流会をヒントに行われたようです。今回はワシントン、リンカーン両大統領やインディアンの酋長、赤ん坊を背負ったインディアンの女性など(※現在は「ネイティブ・アメリカン」という表記を使う場合が多いが、当時の表記「インディアン」をそのまま使用した)の人形が展示されています。後の写真パネルは日本で展示された時の様子です。リンカーン大統領は若くてまだ髯も無く、愁いを帯びた表情が印象的です。

ボストンに送られた雛人形は当地の「子ども博物館」所蔵となり、全米各地の同博物館に貸与されて子どもたちが見ることになります。雛人形を希望した女性が、日本にも同様の博物館があればより親善が深まると提案、仏教児童博物館設立へとつながります。当初は中井が館長を務めていた龍谷大学図書館内に事務所を置きますが、昭和6(1931)年に円山公園内の三井家別邸を譲り受けます。博物館では仏教だけでなく歴史や地理、理化学、文学、玩具など様々な資料を揃え、お話の会や勉強会、趣味の会も開いていたようです。玄関前の集合写真にも、虫取り網のようなものを持った子が写っています。

海外との交流はアメリカだけではなくフランス、ドイツ、イギリス、チェコスロバキア、イタリア、メキシコ、中国、台湾、チベット、インドネシア、ジャバ、南洋諸島と世界中に広がります。博物館の活動は昭和50年代まで続きます。
第4章 平瀬貝類博物館
実業家で民間の貝類研究家だった平瀬與一郎が、大正2(1913)年に京都岡崎に建てた博物館です。日本産貝類の多くが彼の活動によって得られたと言われます。キリスト教宣教師でもあった生物学者の進言を受けた平瀬は、貝類研究が自らの使命だと思うようになったそうです。

遠方での長期採集ができるほど丈夫ではなかった平瀬は、実業で得たネットワークを通して採集者を募り、購入する方法で収集しました。平瀬が貝類の研究を始めたのは明治30(1897)年、38歳の頃でしたが、博物館構想を公にした明治40(1907)年時点で日本産貝類標本3000点、外国産5000点を所蔵していたと言います。

今回の展示では、当時は珍しかった館内のショップやチラシ、パンフレット、冊子類も展示されています。博物館の運営や刊行物発行には多額の資金が必要です。個人で維持していくのは困難だったようです。館の維持に苦労したようすが偲ばれます。大正8(1919)年に貝類博物館は閉館します。

会期中の関連イベント
■記念講演会
10月9日(日)「京都における博覧会と西本願寺」
並木誠士氏 京都工芸繊維大学特定教授・美術工芸資料館館長
11月13日(日)「特別展回顧 列品解説と共に」
和田秀寿氏 龍谷ミュージアム学芸員
※事前申し込みが必要。詳しくは同ミュージアムホームページへ。
(ライター・秋山公哉)