【鶴ヶ城】若松城天守閣郷土博物館で収蔵品展「幕末・戊辰戦争」が9月30日まで この後、半年の長期休館

鶴ヶ城の名を持つ福島県会津若松市の若松城は、戊辰戦争で新政府軍の1か月に及ぶ猛攻を耐えた難攻不落の名城です。しかし、明治時代になって天守などの建物は取り壊され、現在ある天守閣は昭和40年(1965年)に再建されました。この「若松城天守閣郷土博物館」が10月から来年3月まで改修工事のため入ることができなくなります。

長期休館前の収蔵品展「幕末・戊辰戦争」が9月30日まで開かれています。孝明天皇から会津藩主の松平容保に賜った品々などから、会津視点での「幕末・戊辰戦争」を知ることができる展示内容です。同館副館長で学芸員の中岡進さんに案内してもらいました。

明治維新をした新政府側の見方では、会津藩は「賊軍」でした。しかし、会津藩が朝廷、特に孝明天皇(明治天皇の父)の信頼があつかったことが、現在では様々な史料から知られています。

獅子牡丹図金屏風 岸誠作 江戸時代末期 個人蔵

こちらの獅子牡丹図金屏風は、孝明天皇の形見分けとして松平容保に贈られたもの。

こちらに並ぶのは、会津にとって極めて重要な史料です。孝明天皇の宸翰(手紙)には、文久3年(1863年)に「朕の存念貫徹の段 全くその方の忠誠にて深く感悦」と、京都守護職である容保の忠誠に感謝していることが書かれています。また、孝明天皇は容保をひそかに呼び、和歌を自筆で書いた「御製」も下賜していました。そこにも「たやすからざる世に 武士の忠誠のこころを よろこびてよめる」などと、幕末の難局を会津藩とともに乗り越えようとしていた思いが読み取れます。

これらは会津の名誉回復につながるものですが、容保は明治26年(1893年)に亡くなるまでその存在を明らかにしませんでした。容保の没後の明治37年(1904年)、元会津藩士で長崎市長も務めた北原雅長(1842~1913年)が、会津側から見た戊辰戦争までの経緯をつづった『七年史』を書き、この宸翰や御製の存在を明らかにしたところ、不敬罪で拘留されてしまいました。明治政府にとって、都合が悪かったことがうかがえます。

降伏式で使われた敷物「泣血氈(きゅうけつせん)」

常設展示の解説パネル

戊辰戦争で1か月籠城の末、会津藩は新政府軍に降伏します。降伏の儀式を描いた錦絵「会津軍記」は有名です。この儀式では、緋色の敷物が使われました。会津藩士は、この悔しさを忘れないようにと、敷物を切り取って分けました。展示されている「泣血氈(きゅうけつせん)」は家老だった内藤介右衛門が持ち帰ったもので、のちに子孫が会津若松市へ寄贈しました。

泣血氈 会津若松市蔵

中岡さんによると、錦絵とは異なり実際は、新政府軍がこの緋色の敷物を使い、降伏した松平容保らはゴザの上でした。明治になって少し時を経ると、徐々に明治新政府に対する不満が増え、旧幕府側へ同情する内容の錦絵も増えていきました。

会津の名刀「和泉守兼定」

会津藩には、江戸時代中期に国内で最も優れた刀匠に選ばれた「三善長道」や、新選組の土方歳三が愛刀としたことで有名な「和泉守兼定」など、優れた刀匠が多数いました。

左:刀 銘 源元興作之/安政六秋八月同年十一月三日千住太々土壇払 山田吉豊試之 会津若松市蔵
右:脇指 銘 兼定/君万歳 会津若松市蔵

10月以降、天守閣内には入れなくなりますが、城跡公園へはこれまでと同様に無料で入ることができます。

(読売新聞デジタルコンテンツ部 岡本公樹)