「深沢紅子と軽井沢 ~野の花に魅せられて~」10月25日まで、長野・深沢紅子野の花美術館で

深沢紅子と軽井沢 ~野の花に魅せられて~
会期:2022622(水)~1025日(火)
会場:深沢紅子野の花美術館(長野県軽井沢町長倉217/軽井沢タリアセン内 ℡0267-45-3662
開館時間:午前9時~午後5
休館日:会期中無休
入館料:大人600円、小中学生300
詳しくは館公式サイト http://www.karuizawataliesin.com/look/kouko

夏の軽井沢 高原の花に魅了

可憐な野の花を愛した深沢紅子こうこ19031993)。その名を冠した「深沢紅子野の花美術館」は故郷の盛岡市のほか、長野の軽井沢町にもある。軽井沢は紅子が夫の画家・深沢省三と一緒に20年余に渡り、夏を過ごした場所。紅子はここでも多くの草花に魅了された。その軽井沢の「野の花美術館」で、紅子と軽井沢の関係に光を当てながら、晩年の作品を中心に水彩と油彩あわせて約60作品を展示した企画展が開催されている。

滞在先の堀辰雄1412番山荘で写真に納まる深沢夫妻(1982.8.18宮崎陽子撮影)

堀辰雄の別荘をアトリエに

深沢紅子は1903(明治36)年、盛岡市に生まれ、12歳のころから日本画を学んだ。盛岡高等女学校を経て女子美術学校(現女子美術大学)日本画科に入学したのち、油絵科に転科。1923(大正12)年に同校を卒業し、同郷の深沢省三と結婚した。

ほどなく1925(同14)年の二科展初入選、1937(昭和12)年の第1回一水会展出品と画壇で名をはせ、戦後も1947(同22)年の女流画家協会創立参画と第1回女流画家展出品、1949(同24)年の一水会優賞受賞、1952(同27)年の一水会委員就任など、地歩を固めていった。故郷の岩手県立盛岡短期大学などで教鞭をとり、後進育成にも尽力した。

緑に囲まれた「深沢紅子野の花美術館」

1964(同39)年にはパリ近代美術館での国際女流美術展に出品したが、このころから約20年、夫婦で夏の軽井沢を過ごすようになった。滞在先は作家の堀辰雄が使っていた別荘(堀辰雄1412番山荘)で、ここにアトリエを構え、高原の散策で見つけた花々を描き続けた。

2階が作品の展示室になっている

印象的なペパーミントグリーン

美術館の由来も簡単に紹介しておく。開館は紅子没後3年にあたる1996(平成8)7月。建物は軽井沢の歴史的遺産の一つ、1911(明治44)年に建てられた旧・軽井沢郵便局舎を移築復元したもの。「明治四十四年館」と名付けられ、国の登録有形文化財に指定されている。印象的な外壁のペパーミントグリーンも建築当時そのままに再現した。

屋根裏の複雑な木組みが分かるよう、天井が外されている

優しさ、健気さ、気高さ

深沢紅子と言えば、やはり花の水彩画。2階の作品展示室に上がると、さっそく1990年から1992年制作の優品が目に飛び込んでくる。「タマアジサイ」「カラスウリ」「テッセン」「ナツハゼ」「ヤマツバキ」。背景もなく、花だけを見つめた絵からは、それぞれの花の持つ優しさ、健気さ、気高さがにじみ出ている。

深沢紅子「タマアジサイ」1990年 水彩
    深沢紅子「カラスウリ」1991年 水彩
    深沢紅子「ワスレナグサ」1991 水彩
    深沢紅子「テッセン」1991年 水彩
      深沢紅子「ナツハゼ」1991年 水彩
      深沢紅子「ヤマツバキ」1992年 水彩

      紅子は幼少期、盛岡市内を流れる中津川の河原で見た忘れな草や米内(盛岡市郊外)の山一面を埋めたカタクリの群生、裏山の藪に咲いたテッセンに魅入られ、やがて野の花を終生描き続けた。見栄えのいい花ばかりではなく、ぺんぺん草やドクダミ草すら画題にした。

      深沢紅子「よそおう」1982年 油彩
      深沢紅子「青い小さな本」 1984年 油彩
      深沢紅子「野に遊ぶ」1984年 油彩

      「一期一会」 出会いに感謝

      展示室には「強いものより弱いもの、華やかなものより落ちついたもの、賑やかなものより静かなもの、私の選ぶもの、求めるものは、幼い頃から、心に染みた、野の花の心、ひっそりとたたずむ野の花の姿以外の何ものでもなかったことを悟りました」という紅子の手記(「深沢紅子自画選集」実業之日本社、1986年発行 「野の花によせて」からの抜粋)や、自作の句「いつまでも 野の花咲けよ 軽井沢」の書も紹介されている。

        深沢紅子の書

        館長の大藤敏行さん(59)は「紅子の絵を見ていると、『一期一会』という言葉を思わずにはいられません。野の花はあすも今日と同じように花を咲かせるとは限らない。来年はもう同じ場所で見られないかもしれない。それが野に咲いた命というもの。紅子はそんな花との出会いを喜んだ。『あなたに会えてうれしい。あなたを描かせてください』という感謝や謙虚な気持ちを感じます」と語る。

        軽井沢は明治期、まず外国人宣教師たちが夏の避暑地に選び、日本の文人や詩人がまねた。なぜ深沢夫妻もやって来たのかは、展示室に掲げられた「軽井沢に住む」という解説文を読むと分かる。

        要約すると、「戦前から信州に足を運んでいた深沢夫妻は、堀辰雄ら軽井沢ゆかりの文学者と親交を持ち、スケッチのためしばしば軽井沢を訪れるようになった。戦後、故郷で教鞭をとった紅子は1964(昭和39)年、省三と共に再び上京。当時、紅子は喘息を患っており、堀辰雄夫人の勧めで夏を軽井沢で過ごすようになった」。喘息に苦しむ紅子は軽井沢でも野の花に癒され、励まされ、命の尊さを教えられたのだ。

        展示室には夫・深沢省三コーナーも

        葉の色、本の色 どこかで…

        改めてすべての絵を見て回ろうと考え、水彩画の前に立った。すると、そこに描かれた葉がどれも、柔らかな薄い緑色をしていることに気づいた。水彩画だけではない。油彩の「青い小さな本」の本の色も、「野に遊ぶ」の少年の背景の色も同じ薄く柔らかな緑色だ。紅子がよほど気に入った色だったのか。

        「それにしても、この色はついさっき見たような気がする。どこで見たんだっけ」。そんな疑問が浮かんだが、答えを得られないまま鑑賞を終えた。

        大藤館長に謝辞を述べ、展示室を後にした。館から一歩外に足を踏み出し、ふと振り返ったときに疑問が解けた。「あの緑色は外壁のペパーミントグリーンと同じ色だ」。

        郵便局舎は1911(明治44)年から1968(昭和43)年まで使われていたわけだから、紅子も手紙を出したりするため、しばしば訪れていた可能性は高い。「紅子は外壁からあの色を着想したのかもしれない。いや、きっとそうに違いない」。脳裏に紅子の水彩画を蘇らせながら、帰路は推理を遊んでみた。

        深沢紅子野の花美術館は、塩沢湖を囲むように様々な文化・芸術施設、歴史的建築物、庭園、レストランなどが集まる遊園施設「軽井沢タリアセン」の一角にある。すぐ近くには「軽井沢高原文庫」があり、深沢夫妻が滞在した「堀辰雄1412番山荘」が移築・保存されている。

        「軽井沢高原文庫」の裏庭にある「堀辰雄1412番山荘」

        その「軽井沢高原文庫」では現在、「生誕100年 ドナルド・キーン展」が1010日まで開催されている。軽井沢はキーン氏の夏の執筆場所。同展では氏の文学上の功績や多彩な交遊を紹介しているほか、料理好きだった氏の愛用のナイフ・フォークなども展示され、プライベートも垣間見ることができて面白い。
        同展の問い合わせは軽井沢高原文庫(電話0267451175)へ。
        (ライター・遠藤雅也)