【レビュー】写真・映像の可能性に新進作家たちが挑戦――東京都写真美術館で「見るは触れる 日本の新進作家 vol.19」展

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水木塁 《O/B/J-組み替えられた建築もしくは憩いの場として(overtone dub mix)》(2022年)などの展示風景

見るは触れる 日本の新進作家 vol.19

  • 会期

    2022年9月2日(金)12月11日(日) 
  • 会場

    東京都写真美術館
    https://topmuseum.jp/
    目黒区三田1-13-3 恵比寿ガーデンプレイス内
  • 観覧料金

    一般700円、学生560円、中高生・65歳以上350円

    ※10/1(土)は「都民の日」のため観覧無料

  • 休館日

    月曜休館、ただし月曜が祝祭日・休日の場合は開館し、翌平日が休館

  • アクセス

    JR恵比寿駅から徒歩約10分
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※詳細情報は公式サイト(https://topmuseum.jp/)で確認を

写真とは何か。映像とは何か。それは単に、現実を光学的技術で切り取って再生するものなのか。その先には、どんな創造の可能性があるのか――。

東京都写真美術館が2002年から開催している「日本の新進作家」展。チラシによると、〈写真・映像の可能性に挑戦する創造的精神を支援し、将来性のある作家を発掘する〉ことが目的だそうである。今回のテーマは「見るは触れる」。5人の作家たちによる〈視覚を通しその物質としての手触りを想起〉させる作品を集めている。

岩井優 《経験的空模様 #1》(Control diariesより) 2020年 Photo: Shu Nakagawa ©Masaru Iwai, Courtesy of Takuro Someya Contemporary Art

今回紹介される作家は、水木塁、澤田華、多和田有希、永田康祐、岩井優の5人。澤田と岩井が映像作品中心で、水木、多和田、永田が写真中心。モチーフ選択や技法など、様々な面で工夫を凝らした作品が、その作家ごとに並んでいる。

例えば、多和田の作品。〈I am in You〉と名付けられたこの作品は、まず波立っている海の様子を写真で撮り、同じ画像を2枚ずつプリントする。1枚は多和田自身、もう1枚は多和田の母親が水の写っている部分を焼き、娘と母が焼いた後のプリントが呼応するように展示されている。写真を「焼いて」、「残されたモノ」を使って創作する行為、それはどこか「身を削る」ことに似ているような気がしてくる。

澤田華 《漂うビデオ(水槽、リュミエール兄弟、映像の角)》 2022年
多和田有希 〈I am in You〉(2016-2022年)の展示風景

水木塁の《雑草のポートレートおよび都市の地質学》シリーズは、サイアノタイプ(青写真)とデジタルプロセスを組み合わせたもの。《O/B/J-組み替えられた建築もしくは憩いの場として(overtune dub mix)》は、もともと建物だったものが彫刻作品になり、それが飲食物などを置かれる場になるという「メタモルフォーゼ=意味の読み換え」を写しだしている。文化や社会をストリートの視点から捉えていくことを目的とする水木にとって、「読み換え」の作業は「スケートボーディング」の感覚に似ているという。

たまたま写真に小さく写り込んだ何か、映画のモニターに反射する自分の姿など・・、見逃してしまいそうな些細な物事にこだわってみせる澤田、また、岩井は福島での除染作業の様子を延々と描き出す。われわれが写真・映像として見ているイメージとは一体何なのか。それはどのように構成されているのか。それぞれの作品を見ていると、そういう根源的な想いがアタマの中をよぎったりもする。

永田康祐 《オーディオ・ガイド》(2019-2022年)の展示風景
永田康祐 《オーディオ・ガイド》(2019-2022年)より 《Theseus》(2022年)の展示風景

個人的にツボだったのは、永田康祐の作品。《オーディオ・ガイド》と総合タイトルが付けられた展示室には、作品解説の音声ガイドが収録されたヘッドホンが用意されており、観覧者はそれを着けて作品を見るように推奨されている。全部で17分程度の音声ガイド。それを「聞いている」ということは、展示室の「場」に縛られているということでもあり、観覧者は否応なく一定時間以上作品と対峙させられることになる。

これだけでも小味な仕掛けだが、ピックアップされている作品も面白い。例えば、フォトショップの「スポット修復ブラシツール」を使った《Theseus》。このツールは、撮影時に「写り込んでしまった」被写体や画面上の汚れを「消す」ために使われるモノで、指定された領域の周囲の画像を解析し、そこからひとつのパターンを生み出すことで、その領域の新たな画像を周りと「違和感なく」作り出す。つまり、そのツールを画面全体に使ったこの作品は、「リアル」がすべて「リアルから想起されるメタリアル」へと置き換えられているのだ。ここに提示されているのは、微妙にゆがめられた都市の姿。「どこか『人間の記憶』に似ている」という永田自身の言葉に、妙に共感を抱いてしまう。

永田康祐 《オーディオ・ガイド》(2019-2022年)より 《2種類のブラックホールの画像》(2015、2019年)の展示風景

どうやら永田は、個々の作品の中で「リアル」と「メタリアル」との混淆をひとつのモチーフにしているようだ。《2種類のブラックホールの画像》で展示されるのは、映画というフィクションのために作られた画像と、電波望遠鏡のデータからアナライズして得られたメタリアルな画像。「リアル」が何か曖昧な中で実体化された画像。それはまるで宇宙の様々なエポックメイキングな事象を「私は見た」と主張し続ける『柔らかい月』(イタロ・カルヴィーノ作)の登場人物のようだ。

《メキシコ合衆国地図の複写》という作品では、メキシコ合衆国の地図の中に紛れ込んでしまった「島」を扱っている。その状況は、架空の国が百科事典の中で「増殖」していくホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」を思わせる。省みて《Theseus》で挙げた「リアル」と「メタリアル」の間で揺れ動く「記憶」の不確かさ、存在の不確かさは、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』や京極夏彦の『狂骨の夢』との共通性を感じてしまう。

古今東西、様々な作家たちが追求してきた事柄を、永田は写真を使って「実体化」「可視化」しようとしているのだろうか。永田が次に映し出すのは、どんな「メタリアル」なのか。個人的に、とっても興味がわいてきたのである。

(事業局専門委員 田中聡)

水木塁 《雑草のポートレートおよび都市の地質学(dubbed version 3)》(2022年)の展示風景

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