【レビュー】明るい「悟り」、「抜け感」あふれる禅画の世界――出光美術館で「仙厓のすべて」展 10月16日まで

展示風景

仙厓のすべて

  • 会期

    2022年9月3日(土)10月16日(日) 
  • 会場

    出光美術館
    http://idemitsu-museum.or.jp/
    千代田区丸の内3-1-1 帝劇ビル9F
  • 観覧料金

    一般1200円、高校生・大学生800円、中学生以下無料

    ※日時指定予約制、各種割引、予約方法などの詳細情報及び最新の情報は、公式サイト(http://idemitsu-museum.or.jp/)で確認を

  • 休館日

    月曜休館、但し9月19日、10月10日は開館し、9月20日、10月11日が休館

  • お問い合わせ

  • アクセス

    東京メトロ有楽町線の有楽町駅、都営三田線の日比谷駅を利用の場合、B3出口から徒歩3分、東京メトロ日比谷線・千代田線の日比谷駅を利用の場合、地下連絡通路を経由してB3出口へ。
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※画像の作品は、すべて仙厓作、江戸時代、出光美術館蔵

禅に関わる美術は難解、というイメージがある。禅画は特にそうだ。同じく仏教を基盤とする密教美術(これはこれで難解かつ深遠だが)と比べると、その特徴が見えてくる。

密教美術の中心になっているのは仏像や曼荼羅。仏像は信仰の対象となる仏の姿を写しだしたものであり、曼荼羅は密教の宇宙観を仏の姿などを借りて描き出したものだ。つまり、そこには「理論」があり「法則」がある。一方、「禅画」は禅僧である作者が「禅の教え」や「人生訓」などを、自らの感覚に基づいて描いたもの。一般的な「理論」や「法則」はあるようでない。禅の「悟り」は「言葉にできない」境地でもあるわけで、「言葉にできない」「感覚」を描いた絵は「難解」になっても仕方がない。

とはいえ禅画のイメージは単に「難解」なだけではない。「飄逸」「軽妙」「枯淡」「魁偉」――「言葉にできない」「感覚」は、ちょっと他のジャンルにはない面白くてインパクトの強い絵を後世に残しているのである。出光美術館で開催されている「仙厓のすべて」展には、まさにそういう「面白くてインパクトの強い絵」が並んでいる。

《自画像画賛》

仙厓(17501837)は、美濃国(現在の岐阜県)出身の禅僧である。貧しい農家に生まれ、11歳の頃、地元の清泰寺で出家した後、19歳から武蔵国久良岐郡永田(現在の横浜市)の東輝庵で月船禅師について修行した。32歳の時、同寺を出て行脚の旅に出、40歳で九州・博多の聖福寺の第123世住持となる。62歳で隠棲し、88歳で亡くなるまで書画をはじめとする多彩な趣味を楽しむ自適な生活を送ったという。そして、この仙厓は白隠(16861769)と並ぶ禅画の名手である。

東の白隠、西の仙厓。このお二人、「難解」という言葉の代わりに、「かわいい」とか「緩い」とかのキーワードで語られることが多い。現代人の眼には、漫画家のしりあがり寿氏のような「へたウマ」な絵に見えるのだろうか。上に挙げた《自画像画賛》は、典型的な1枚。左側にある賛文には、「出家した禅僧達は、みな仙界に住む、近寄りがたい存在と考えられているのに、ただ(仙厓)一人だけの書画を希望してくるとは」という意味のことが記されている。何だかブツブツ言いながらも結局は話を聞いてくれる、どこか飄逸な雰囲気の老僧。そんなイメージが浮かんでくる。

《指月布袋画賛》
《狗子画賛》

70歳を過ぎて「厓画無法」を宣言し、特定の画法にこだわらない融通無碍な表現で軽妙かつ洒脱な禅画の数々を残した仙厓。特に印象的なのは、晩年の作品の「抜け感」だ。上に掲げた2枚の絵を見ていただこう。布袋さまが子供(?)と一緒に空を指さしている《指月布袋画賛》。賛文は〈を月様 幾つ 十三七つ〉。わらべうたを歌っている。子犬が描かれた《狗子画賛》。〈きゃんきゃん〉という鳴き声が賛文だ。まあ、何というか、自由奔放というか三歳の童子のようというか、思わず頬が緩んでしまいそうだ。

展示されている《釈迦三尊十六羅漢図》
展示されている《龍虎画賛》

まあ、これだけを見ると、何かの座興で描いた戯画のようだが、仙厓の画力はとても高い。それは細かく丁寧に羅漢たちの姿が描かれている《釈迦三尊十六羅漢図》や水墨画の「龍虎図」のスタイルを踏襲したうえで独特の世界を展開している《龍虎画賛》を見れば明らかだろう。実際、若い頃の仙厓は狩野派の影響が見られる「普通に上手な絵」を描いており、今回の展覧会では、そういう絵も展示されている。シンプルな直線、曲線で物の形を捉え、そこに「軽み」や「おかしみ」のニュアンスを加える晩年の技は、長く画業を追究してきたたまものと言えそうだ。

《坐禅蛙画賛》を見てみよう。単純な輪郭と目鼻口だけの描写だが、ニヤリ笑っているカエルそのものにしか見えない。〈座禅して 人が仏に なる ならハ〉の賛文。このカエルそのものも座禅を組んでいるようで、「人ですら悟りに至るのであれば、なんのオレだって」とでも言っているようだ。単純きわまりない描線なのだが、絶妙なバランス感覚で収まるところに収まっている。その「楽しい描線」からは、スペインの画家、ジョアン・ミロと共通する「軽み」をも感じる。

《坐禅蛙画賛》
《○△□》

禅宗には「公案」というものがある。解答があるかどうか分からないが、それを考えていくことで「悟りの境地」へと進む一助となるという「問題」である。そのひとつ、「子犬にも、仏の性質があるのだろうか」と問う公案が、「狗子仏性」。《狗子画賛》も《坐禅蛙画賛》も、それが下敷きになっているようにも見える。そういう目で仙厓の作品を見ると、実はそこには公案や高僧の語録が数多く織り込まれている。「緩さ」や「抜け感」の裏側には、禅画らしい「難解な」思想があるのだ。《○△□》もそのひとつだろう。○、△、□の記号が表すものは何なのか。それは世界の象徴なのだろうか。単純なようで様々な解釈が可能だ。

《堪忍柳画賛》

出光美術館の創設者、出光佐三氏(18851981)は19歳の時に《指月布袋画賛》に心惹かれて購入し、それから仙厓の書画を収集していったそうだ。なるほど、ここで展示されている数々の作品には、人の心を和ませながら禅の奥義に触れてみたくなる力がある。《堪忍柳画賛》の〈気に入らぬ風も あらふに 柳哉〉との賛文から思い出されるのは、古典落語の「天災」だ。けんかっ早い長屋の八つぁんを入れ替えようと、心学者の紅羅坊奈丸が色々「ありがたいお話」をするのだが、その中で、心学の先達である中沢道二の〈ならぬ堪忍、するが堪忍〉とともに、仙厓のこの言葉が引用されているのである。仙厓の禅画は古くから庶民生活に溶け込み、善男善女を善導してきたのだろうか。様々なよしなしごとが心をよぎる。やっぱり禅画の世界は奥が深い。

(事業局専門委員 田中聡)

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