【レビュー】「河内長野の霊地 観心寺と金剛寺」京都国立博物館で9月11日まで

楠木正成とその一族が着用あるいは奉納したと伝わる大量の甲冑。伝来する22件が一挙公開

特別展 河内長野の霊地 観心寺と金剛寺─真言密教と南朝の遺産─
会期:2022年7月30日(土)~9月11日(日)
会場:京都国立博物館 平成知新館 2F、1F
開館時間:火~木・日 9:00~17:30(入館は17:00まで)
金・土 9:00~20:00(入館は19:30まで)
観覧料:一般1200円、大学生600円、高校生300円
詳しくは同博物館のHP

京都国立博物館で特別展「河内長野の霊地 観心寺と金剛寺」が9月11日まで開催されています。関西在住以外の方には馴染みが薄いかもしれませんが、大阪府河内長野市は、大阪府の南部に位置する山あいの地域で、京都から高野山につづく街道の合流地点として栄えた歴史をもっています。下記の地図をご覧いただくと分かるとおり、奈良県南部や和歌山県に隣接しており、平安時代後期には、多くの貴族達が京都から河内長野を通過して、弘法大師空海がひらいた高野山金剛峯寺へ参詣しました。

京都国立博物館での記者発表時の映像から

楠木正成ゆかりの地

さらに、河内長野は、軍記物「太平記」ファンなら胸を躍らせる地域ではないでしょうか。なぜなら、この地にある真言密教の2大寺院「檜尾山観心寺ひのおさんかんしんじ」と「天野山金剛寺あまのさんこんごうじ」は、南北朝時代に南朝側として活躍した武将・楠木正成ゆかりの寺であり、南朝の後村上天皇が仮の御所である行宮あんぐうにした場所だからです。そのため、楠木正成とその一族が着用あるいは奉納したと伝わる大量の甲冑22件が伝来しており、今回の展覧会では一挙公開されているので、ファンには堪らないでしょう。

京博は、2016~2019年度に両寺の文化財調査を実施。両寺の蔵の中を隈なく調査し、記録を取り目録を作成しました。同展はその調査成果を約35件の新発見の寺宝とともに紹介します。国宝4件・重要文化財30件を含む名宝130件が一堂に会し、第1章~3章の構成で河内長野の深い信仰と歴史が伝わる内容です。

【第1章 真言密教の道場】 観心寺と金剛寺の歴史


両寺は、平安・鎌倉時代に中央権力との関わりによって、真言密教の道場として発展しました。
観心寺は、大宝元年(701年)に役小角えんのおずぬにより開かれ、平安時代初期に弘法大師空海が北斗七星を勧請し、本尊の如意輪観音菩薩を刻んだ伝承が残ります。

歴史的には、空海の十大弟子の一人・実恵とその弟子・真紹しんじょうが整備。嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子たちばなのかちこ(檀林皇后)の帰依を受け、彼女のサポートがあったと推測され、現在の秘仏本尊で国宝「如意輪観音坐像」や本展の注目展示作品である重要文化財「伝宝生如来坐像(弥勒菩薩)」が安置されたようです。

国宝 観心寺勘録縁起資財帳(部分) 平安時代 元慶7年(883) 大阪・観心寺蔵 通期展示
883年の観心寺の財産目録。本尊の如意輪観音坐像にあたると考えられる記載もある

一方の金剛寺も、奈良時代に聖武天皇の勅願で行基により創建され、平安時代に弘法大師が修行をしたとの伝承が残ります。平安時代後期に高野山から入った阿観あかん上人が荒廃した同寺を再興し、現在のように伽藍整備をしました。再興は、後白河上皇とその妹の八条女院の篤い帰依と庇護を受けておこなわれ、尊勝曼荼羅図(密教で災害の消滅や利益の増加を祈願して修される尊勝法の本尊として用いられる図)を立体化した巨大な三尊・大日如来(平安時代)、不動明王(鎌倉時代)、降三世明王(鎌倉時代)が金堂にまつられました。
八条女院の祈願所になった後は、歴代女院の祈願所になり、幅広い身分の女性が帰依したことから「女人高野」と呼ばれています。

注目の新発見、中国・唐代小説「遊仙窟」の最古写本の失われた部分

さらに金剛寺は、阿観上人により、学問寺として発展し、様々な書籍が集まる図書館のような性質を持ち合わせていました。本展担当の井並林太郎研究員は、注目の新発見の寺宝について「金剛寺には、日本文学に多大な影響を与えた『遊仙窟ゆうせんくつ』という中国唐代に書かれた恋愛小説(伝奇小説)の最古写本が残されており重要文化財となっていましたが、真ん中部分がごっそり抜けていました。それがこのたびの調査で、抜けていた部分がほぼすべて発見されました」と説明します。新たに発見された部分も重要文化財に追加指定され、修理によって一帖にまとめられたという調査の大きな成果を紹介します。

重要文化財 遊仙窟 鎌倉時代 元亨元年(1321) 大阪・天野山金剛寺蔵 通期展示

【第2章 南朝勢力の拠点】 南北朝動乱期の歴史の中心地だった河内長野

鎌倉幕府滅亡後、建武の新政を始め、足利尊氏に敗れた後に奈良県南部の吉野に南朝を開いた後醍醐天皇。南北朝時代の始まりです。地理的に奈良県南部にも近い両寺は、後醍醐天皇の息子・後村上天皇が率いる南朝の拠点になりました。都がある京都に戻ろうとし、拠点を転々としたなかで、後村上天皇は、金剛寺の子院・摩尼院まにいん食堂じきどうを行宮として5年ほど過ごしました。その後、観心寺の総持院に行宮を移したため、この頃の河内長野は、まさに南朝の政治の中心だったことが分かります。

琵琶 南北朝~室町時代(14~15世紀) 大阪・天野山金剛寺蔵 通期展示
後村上天皇は、金剛寺の子院・摩尼院で僧・空良から秘曲の伝授(奥義の皆伝)をされた

この第2章の展示は、太平記の南朝ファンが胸を熱くする展示品ばかり。楠木正成自筆の書や後村上天皇ゆかりの品などが並びます。

重要文化財 厨子入愛染明王坐像 鎌倉~南北朝時代(13~14世紀) 大阪・観心寺蔵 通期展示 
後村上天皇の念持仏と伝わる

ちなみに楠木正成の墓や後村上天皇の御陵(檜尾陵ひのおのみささぎ)も観心寺にあるので、太平記ファンなら、これを機に現地へ聖地巡礼したくなるのではないでしょうか。

【第3章 河内長野の霊地】室町時代以降の観心寺と金剛寺

室町時代以降は、地域の大寺院として、庶民を含め幅広く信仰を集めた両寺。室町以降、全国の寺院では、財源確保のため、僧坊酒そうぼうしゅと呼ばれる酒造りがおこなわれており、金剛寺は「天野酒」という名酒を醸造していたことで知られています。古文書や密教法具、曼荼羅などの文化財から、両寺が高野街道の交通の要所として栄えた河内長野を代表する2大寺院であることが改めて分かります。高野山の金剛峯寺や、南朝の中心であった奈良の吉野を訪れる際は、ぜひ河内長野を周遊先の候補に入れてみてはいかがでしょうか。
(ライター・いずみゆか)

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