【レビュー】場所と人間の切り離せない関係 「サリー・ガボリ展」キュレーター・嘉納礼奈

80才を過ぎて画業をスタートさせたオーストラリア先住民(アボリジニ)の画家サリー・ガボリ(1924-2015)の個展が11月6日(日)まで、パリ14区のカルティエ財団現代美術館で開催されている。晩年の9年間を創作活動に費やし、2000点以上の絵画を制作したガボリ。オーストラリア国外初の個展となった同展では、約 30 点の絵画が展示されている。アボリジニの伝統的な考え方は継承しつつも、いわゆる「先住民アート」の絵画様式とは異なる、地図とも気象図ともまたは心象風景とも言えるような独自の作風が話題を呼んでいる。

ガボリは1924年、オーストラリア北部クイーンズランド北西部カーペンタリア湾に浮かぶベンティンク島に暮らす先住民、カイアディルト族に生まれた。カイアディルト族はヨーロッパからの入植者と接触するのが遅かった部族で、ガボリの家族も漁猟など自然の資源や環境に頼ったカイアディルト族の伝統的な暮らしを送っていた。ガボリは、部族の他の女性と同じように漁のための罠や、手編みの漁網を作っていた。
1940年頃より、キリスト教宣教師たちはカイアディルト族のモーニントン島(ベンティンク島の北側に位置)への移住を促す。1948年には、サイクロンと高潮が相次いでウェルズリー諸島南部を襲い、ガボリやその家族を含む部族の人々は移住を強いられた。当初、一時的だと考えられていた移住地での避難生活は40年以上にもわたり、彼らの文化や伝統と切り離された暮らしを送ることとなった。その後、先住民の権利獲得のための闘争を経て、1994年クイーンズランド州政府が領土の一部をカイアディルト族に返還。 ベンティンク島のニーニルキに居住地「アウトステーション」が設立され、ガボリと夫パット・ガボリを含む長老たちのグループが断続的に島に戻って生活する。 しかし、医療と経済的支援が不足していたため、グループは 2000 年代に居住地を離れ、モーニントン島に永住することとなった。

2005年、モーニントン島の高齢者施設で暮らしていた80才のガボリは、作業療法の一環として初めて絵を描いた。アート&クラフトセンターで開催されていた先住民ラルディル族の男性たちの絵画クラブでの出来事であった。1980年代後半以前は、「先住民アート」と呼ばれる枠組みの一環においてさえ、アボリジニの女性がキャンバスや樹皮、絵の具などの画材を提供されることはごく稀であったという。
生まれた場所と先祖のトーテムにより人々の名前を付けるカイアディルト族の伝統社会。場所と人間は切り離せない関係で結ばれている。ガボリは、部族や先祖、家族にとって大切な場所を描いた。ガボリの絵画は先祖から受け継いだ土地の風景画であり、陸、海、空を表す地図でもあり、そこで起こる気象現象を描いた図でもある。また、それらの場所に関連づけられた人々のポートレートでもある。
父の土地:トゥンディ
《トゥンディ》シリーズの展示風景
ベンティンク島北部にあるトゥンディという場所に関連した作品群は、サリー・ガボリの父の生誕の地と関係している。白で塗りつぶされている部分は、砂地の波紋、河口で泡立つ水、浜辺に打ち寄せる小さな波、高潮による浸水などを表現しているという。
初期の頃は小さなキャンバスに取り組み、細いブラシとアクリル絵の具を稀釈せずに用いた。下層の絵の具が完全に乾く前に、素早いジェスチャーで次々とブラシストロークを加えていき、色、トーンを変更していく。
カイアディルト族の女性たちとの共同作品

2007年からは、生まれ故郷への帰還に触発されて、より大きなキャンバスの上に先祖の大切な場所を描く。また、姉妹や姪を含む他のカイアディルト族の女性たちと共同で長さ 6 メートルの巨大な作品を制作した。共同で描かれた大作の一つのテーマであるマカルキは、ベンティンク島の北岸にある狩猟場で、サリー・ガボリの兄に関連する場所でもある。アルフレッド王と呼ばれるガボリの兄は、モーニントン島に移住する前のカイアディルト族のコミュニティの主要なリーダーであった。

女性たちの共同作品は、個々人の先祖代々の場所への深い愛着を部分的に体現しつつ、なおかつ画面全体の表現として一体を成している。移住前にベンティンク島で生まれ、部族の言語を話す最後の世代である彼女らは、絵画表現を通して重要な文化の語り部となっている。
島の創造と最愛の夫の物語:ディバーディビ

ガボリが最も頻繁に描いたのは、ディバーディビという場所。記憶を辿りながら、画面上にその風景を描き出す―塩原、河口、岩の尾根、マングローブ、川、サンゴ礁、漁の罠。ディバーディビは、島の創造の物語と、ガボリの最愛の夫であるパット・ガボリを象徴する。島の創造の物語では、「岩タラのご先祖様」として知られている《ディバーディビ》が“ひれ”で地球を掘り、いくつかの小島を作りウェルズリー諸島を形成したと伝えられている。島の創造の物語は、《ディバーディビ》が閉じ込められて食べられてしまったスウィアーズ島(ベンティンク島の東に位置)で終わる。 岩タラの肝臓だけが崖のふもとに捨てられ、そこで新鮮な水源に生まれ変わったと伝えられている。この《ディルバーディビ》の創造の物語は、約 6000 年前に起こった湾岸の水位上昇により、ベンティンク島が本土や他のウェルズリー諸島から切り離された気候現象を語っている。ガボリの夫であるパット・ガボリはこの物語と先祖に関連する場所の後継者として、《ディバーディビ》のトーテム名を受け取った。

2011年、クイーンズランド州最高裁判所は、ガボリに《ディバーディビ・カントリー》 (2008) を拡大した壁画の制作を依頼した。 2 世紀以上にわたってカイアディルト族の権利を認めていなかった法制度の象徴が、今やカイアディルト文化に対する理解や敬意にとって変わった。
故郷の島への帰還:ニーニルキ

島の南東部の海岸にあるニーニルキには、スイレンが散らばる淡水のラグーンがある。川や小川の支流が主水路から離れて流れが変わるところにできる水溜りは、オーストラリアの風景の典型でビラボンと呼ばれている。

さまざまな青の色合いの海は、カイアディルト族によって島の海岸に沿って築かれた低い石の壁からなる巨大な漁の罠によって分割されている。これらの罠のメンテナンスを担当していたガボリ。このモチーフは、絵画に何度も登場するが、ほとんどの場合、明るいパステルカラーと対照的な太い黒い線と形で表されている。

ニーニルキは、「アウトステーション」という一時的に故郷の島に戻ることができる居住地があった場所。ガボリは家族と一緒に来ては、若い世代にカイアディルト族の知識を伝え、先祖とのつながりを再構築できるようにした。
ガボリは、先住民アートの図式表現の伝統とは異なる手法で、部族とその先祖の土地をめぐる生命の切っても切り離せない関係を描いた。現代美術とも、先住民アートとも、抽象とも具象とも言い切れない表現。ガボリが80才の時、キャンバスの上に堰を切ったように絵の具が流れ出した。これまでの自身と部族の仲間の長年に渡る避難生活の苦難を克服すべく、絵画を先祖代々の大地と部族の物語、そこにまつわる人々に捧げた。(キュレーター・嘉納礼奈)
