【レビュー】芸術と芸術家の考えが及ばない「襞(ひだ)」とは ―「シモン・アンタイ生誕100周年記念展」キュレーター・嘉納礼奈

ハンガリー出身でフランスの現代美術家、シモン・アンタイ(1922-2008)の生誕100周年を記念した大規模な回顧展が、パリ16区のルイ・ヴィトン財団美術館(フォンダシオン ルイ・ヴィトン)で開かれている。
アンタイは、1982年のヴェネチア・ビエンナーレでフランス代表作家として出展したのち、自ら公の場から退いた。以後、よほどの例外を除いて公の場で作品を発表したり、作品について言及したり、作品の販売をすることはなかった。
同展は遺族の協力のもと、アンタイの活動初期から引退後の晩年に至るまで、主に1957年から2004年の作品を中心に約150点を展示している。およそ半数の作品が一般に初公開される大回顧展とあって反響を呼んでいる。

アンタイは1948年、ハンガリー第二共和国にかげりが見え始めた頃、妻と共に祖国を離れる。イタリアを経由しフランスへ辿り着き、その後の生涯をフランスで過ごした。
1960年より、アンタイは独自の「折り込み」の技法で絵画を制作した。キャンバスの布をさまざまな形に折り込んだり、縫い込んだりした上からローラーでその表面を平らにする。その上から筆で絵の具を塗って乾かした後、折ったり、縫い込んだ「襞」の部分を全て広げる。するとキャンバスの上に絞り染めのように着色部と色が塗られていない地の部分が紋様を織りなす。アンタイいわく、この技法は「芸術家の才能が介入する余地がない」という。偶然性に任せ、作家のエゴや意図をも消し去る創作であった。

「折り込み」の技法を編み出すにあたって、アンタイは2人の近現代美術家と彼の家族のルーツに影響を受けていた。
近現代美術の影響とは、アンリ・マチスの切り紙絵(1943-1952)と、ジャクソン・ポロックのドリッピングなどに代表されるモチーフが画面の全体をフラットに覆い尽くすオールオーバーであった。マチスの切り紙絵は、色と形で画面の中にモチーフ(ポジ)と背景の余白(ネガ)を同時にもたらし空間の関係性を生み出す。
ジャクソン・ポロック « ナンバー26A 黒と白 »(1948)キャンバスにエナメル塗料、205 × 121,7 cm Centre Pompidou, Paris. Musée national d’art moderne / Centre de création industrielle Dation Aimé Maeght, 1984 © ADAGP, Paris 2022 © Centre Pompidou, MNAM-CCI, Dist. RMN-Grand Palais / Adam Rzepka
全面を覆うオールオーバーは、画面の中で中央や周縁、上下などの序列、絵画における主題という概念をも排除する新しい表現方法であった。画面の端から端まで繰り返しの無限に反復されるようにモチーフが埋め尽くす。

アンタイ一家のルーツも大事な影響の一つであった。17世紀にドイツからハンガリーの農村に移住してきたカトリック教徒のシュヴァーベン人の子孫であった。アンタイは、祭りの度に母のエプロンを洗濯し、濡れたままの状態で正方形に折り畳んでは、アイロンでビシッと格子状に折り目をつけた。上手くいった時には、エプロンがビロードのように光り表面は鏡のよう滑らかになったという。アンタイは絵画制作の全工程を一人で行う。15平方㍍など巨大なキャンバスの布を格子状に縫ったり、織り込んだり。その上をまるで畑でも耕すかのようにローラ★ー★で平らにする。そして色を塗って広げるまで気の遠くなるような作業を一人で行う。
「折り込み」の技法を発明後は、様々なバリエーションの作品を生み出した。展示では、年代ごとに創作のバリエーションとその探求が紹介されている。

Donation de l’artiste, 1985 © Archives Simon Hantaï / ADAGP, Paris 2022 © Centre Pompidou, MNAM-CCI, Dist. RMN-Grand Palais/ Philippe Migeat
「折り込み」の技法を生み出す直前の初期の代表作は、 « Écriture rose » (ピンクの文体)。1958年末から1959年末までの1年間に毎朝、この一枚の絵画の制作に勤しんだ。まず数週間かけてキャンバスの布の表面を滑らかにした後、哲学書や聖書の文章をインクで書き写した。毎日、重ね重ね書き写された文章は解読が難しいほど細かく密集している。写経のように他者の言葉を書き写すことで画面に向かう自己とは無関係の動作を獲得しようとしている。

1960年から2年間、アンタイは « Mariales »と名付けたシリーズで「折り込み」の技法の第一歩に踏み出した。油彩を使用しているため、表面に凹凸が残り、滑らかにならなかったことに不満を抱いていたという。モチーフが 画面を全面覆い尽くす。« Mariales »という名前は、1948年にフィレンチェのウフィチィ美術館で見た絵画、イタリア中世後期の画家ジョットの« オンニサンティの聖母 »(1310年頃)の中で聖母が纏うブルーのマントとその襞から着想を得た。

« Catamurons »シリーズ(1963- 1965)は、当時アンタイが、バカンスを過ごすために借りていたノルマンディ地方の別荘から名前をとって名付けられた。キャンバスの白い地の部分がぐるっと縁を取り囲み、その中には青と黒と茶色のモチーフが描かれている。同シリーズは、黒い木の扉の裏側に天日干しにされた大きな白い布巾を見て着想を得たという。白い布巾の上には、太陽の光と扉の色が交差し、視覚効果を織り成していた。

« Meuns »シリーズ(1966-1968)の名前は、アンタイが家族と共に暮らしたフォンテーヌブローの森近くの集落の名前に由来する。前の« Catamurons »シリーズ同様、オールオーバーではなく、モチーフの形や色彩が画面の中央に主役として押し出されている。

« Études (習作) »のシリーズ(1968-1971)は、前回のシリーズと違って、「折り込み」の着色により隅々まで単色の油彩で色づけられたオールオーバーの絵画。準備された「折り込み」の襞は非常に細かいため、色と余白が織りなすモチーフも細かく干渉し合っている。

アンタイは、素材の選択、様式、バリエーション、演出効果などに芸術家の意図がより介入しない手法はないかと考えた。芸術と芸術家の考えが及ばない作品へ。機械的に順序立てられた方法と偶然による作品。色は特別な意味は持たない。格子状に塗り分けられた色と余白は互いのために隣あい存在し合う、ただそれだけだ。アクリル絵の具を使い、画面に色と余白の形がより滑らかに広がっている。同シリーズをヴェネチア・ビエンナーレに出展後、公の場から退くこととなった。

公の場から姿を消したアンタイは、過去の作品を大幅に整理し処分した。彼は、キャンバスを「折る」ことも絵の具を塗ることもやめた。処分の結果、残った自分の過去の作品を「切る」ことを始めた。アンタイにとって、「切る」ことは「折る」ことや「塗る」ことよりもさらに急進的は技法であった。ハサミは過去の作品の色や余白に容赦なく切り込んでいく。このようにハサミによる破壊に耐えることができた作品だけを残していった。

晩年のアトリエには、過去の「折り込み」と「塗り」によるカラフルな作品が壁に折り重ねられ、折り込まれたままの作品、再トリミングされ、さらに「折り込み」と「塗り」が何重にも繰り返され、縮小された過去の作品など、公からの引退後もさまざまな試行錯誤の痕跡が残されていた。
芸術のための創作や自身の作家としての意図からことごとく逃れようとしたアンタイ。彼にとって創作とは芸術と芸術家から作品を解放することであった。逃亡劇は、彼と作品を出来るだけ遠くへ行くことを駆り立てた。ついには、アンタイ自身も美術館や文化施設、ギャラリー、美術マーケットなど美術界から逃れることとなった。すでに亡命者であった彼にとって、美術界も「とどまるに耐え難い場所」であったのか。それは、彼と作品を脅かす何かによる「支配」の影を感じたためか。または、作品に関する誤解や解釈が美術マーケットで価値として一人歩きするのを感じたためかもしれない。果たして、妥協を許さないアンタイは逃亡の先に彼と作品の「安住の地」を見つけることができたのだろうか。(キュレーター・嘉納礼奈)
