【レビュー】「滝平二郎展 ー静謐なひとときー」 8月22日まで、イルフ童画館で

滝平二郎展 ー静謐なひとときー
会場:イルフ童画館(長野県岡谷市中央町2-2-1 ℡0266-24-3319
会期:2022年611日(土)~822日(月)
休館日:毎週水曜日(祝日は開館)
開館時間:午前9時~午後6時(入場受付は午後5時半まで)
入場料:一般510円、中高生310円、小学生160
詳しくは館公式サイト

戦争体験が生んだ「きりえ」の名作

「きりえ」を通して日本の懐かしい風物や暮らし、子どもたちを描き続けた滝平二郎(19212009)の作品展が長野県岡谷市のイルフ童画館で開催されている。詩情あふれる画面からは滝平が対象に向けた優しい眼差しを感じるが、創作の背景には本人が戦争で味わった凄絶な体験があった。滝平は戦場で何を見て、何を信条としたのか。本展の開幕にあわせ同館を訪れた長男の滝平加根さん(58)(滝平二郎事務所代表)にお話しをうかがった。

JR岡谷駅にほど近い「イルフ童画館」

念願の個展 武井武雄、岡谷と接点も

イルフ童画館は、「子どもの心にふれる絵」の創造を目指した地元出身の童画作家・武井武雄(18941983)の作品展示や児童文化の発信などを目的として、1998年に開館した。イルフは武井の造語。「古い」の逆さ読みで、「新しい」を意味する。

イルフ童画館の入り口。武井武雄の作品「星曜日」をもとに制作した陶板のレリーフが来館者を迎える

武井と滝平二郎の接点は1962年、武井が同人とともに東京で開いた「第1回日本童画家協会展」に見つけられる(同展に滝平も出品)。下って1974年、滝平は生涯の盟友、児童文学作家の斎藤隆介と岡谷市を訪れ、文化講演会で講師を務めている。

そうした縁を持つ「滝平二郎展」は同館の念願だったが、今回、滝平二郎事務所の協力のもと、同館のファンの期待にも応える形で実現した。

制作中の滝平二郎 画像協力・滝平二郎事務所 🄫JIRO TAKIDAIRA OFFICE Inc.

本展は「画家の目覚め 物語と人間、そして戦争」「戦後 木版画家としての再出発」など4章で構成。朝日新聞日曜版に掲載されたきりえや絵本原画、木版画など約110点の作品と仕事道具を紹介している。

展示されている滝平二郎愛用の彫刻刀や筆記用具

恐怖と絶望 沖縄で壮絶な体験

滝平は霞ケ浦を望む茨城県玉川村(現小美玉市)の農家に生まれ、青年期に版画家を目指すが太平洋戦争が勃発。赤紙(臨時召集令状)により軍に入隊すると最後に送られたのが激戦の沖縄だった。

陸軍少尉・滝平二郎は、部下らとともに砲弾降り注ぐ山中を彷徨い、極限の飢えと恐怖、絶望でやせ細り、生ける幽鬼と化すこととなる。のちに滝平は、そのときの姿を「戦争敗走記」という連作にまとめている(本展で展示)。

開幕日に行われたギャラリートークで父・滝平二郎と作品について語る長男の滝平加根さん

「普段は寡黙な父でしたが、酒が入ると決まって沖縄戦の話をしてくれました」。滝平加根さんは「美術展ナビ」のインタビューに、在りし日の父親の姿を回想してくれた。

「ジャングルの中を彷徨っていたとき、ふいに巨大な亀が現れて道をふさいだというんです。車ほどもある大きさで、怖ろしくて一歩も動けなかったと。その怪物は自分を睨みつけ、今にも襲い掛かってくるようで、必死に石や土くれを投げ続けた。ところが、しばらくたってみると、握りこぶしほどの小さな亀だと分かった。精神的に極限状態だったからか、いもしないモノを見たり、聞こえるはずのない声を聞いたり、完全におかしくなっていたと話していました」

滝平二郎「八郎 COVER」1967年 画像協力・滝平二郎事務所

滝平は多くの仲間が撃たれ、次々と死んでいくのも目の当たりにした。「ある日父が、しみじみとこう言ったんです。『不思議なんだよなぁ。みんな死ぬ間際になると決まって、母ちゃん、母ちゃん、ってつぶやくんだよ。父ちゃんってつぶやいたやつは一人もいなかったなぁ』と。それが不思議で仕方なかったと言うんです。まぁ私は別の意味で不思議でしたけどね。生きるか死ぬかって時になぜそんなことが気になったのかなと…」

画業に専心 版画ときりえで独創性発揮

滝平は九死に一生を得て復員すると、故郷で画業に邁進することとなる。中国木版の影響を受け、明暗を意識した力強い輪郭線を持つ独特の版画スタイルを築き上げた。

滝平二郎「花さき山 COVER」1969年 画像協力・滝平二郎事務所

さらに児童文学作家・斎藤隆介との出会いが、「八郎」「花さき山」「モチモチの木」など数多くの名作絵本を世に出すきっかけとなる。また、1967年ごろから独創的な切り紙を制作。そして朝日新聞紙上での連載を機に、滝平の切り紙は「きりえ」と命名され、新しいジャンルとして世の中に定着することとなった。

滝平二郎「モチモチの木 COVER」1971年 画像協力・滝平二郎事務所

戦争を憎悪 「平穏な暮らしこそ」

滝平のきりえのほとんどが日常の暮らしのひとコマを切り取った作品だ。とりわけ楽しい場面を描いているわけではないし特別な行事でもない。

その理由について加根さんは、「やはり沖縄戦でしょうか。『人間は生きているだけで幸せなのだ。ごく普通の日々こそが貴重で、ありがたく、かけがえのないものなのだ』と、骨の髄から痛感したからでしょう。戦争への激しい反発と平穏な暮らしへの渇望と喜びが常に創作の根底にあったのだと思います」と推察する。

連日、痛ましい戦争のニュースが飛び込んでくる昨今、滝平の「平穏な暮らしこそ」というメッセージは重く心に響く。

滝平二郎「金魚」1971年 画像協力・滝平二郎事務所

「お前のオヤジさんの話は面白い」

滝平は戦争に絡んだ悲惨な体験ばかりを語っていたわけではない。終戦間際、米海兵隊の捕虜となり、その収容所での出来事も子どもたちに話して聞かせた。

少尉として輸送部隊を率いていた滝平は、「捕まった将校は即銃殺」とすり込まれていたため、「どうせ自分も銃殺刑だろう」と覚悟していたという。

ところが、取り調べを境に事態は思わぬ方向へ。尋問役の将校に「職業は何か」と尋ねられ、なかばヤケクソで「画家である」とうそぶいたところ、通訳を通して「それなら私を描いてみろ」と紙と鉛筆を渡された。ほどなく完成した絵を見た将校は予想以上の出来栄えに驚嘆。他の米兵からも「タキダイラ。次は私を描いてくれ」「タキダイラ、その次は私だ」といった具合にたちまち評判となった。中には家族写真を手に、「故郷に残してきた妻と子どもたちだ。彼らの分も頼めるか」と、依頼する者もいたようだ。

絵の謝礼は米国のタバコ「ラッキーストライク」。滝平はそれを捕虜仲間と分け合ったが、注文をこなすうちに謝礼も豪華になり、ときにはチーズの缶詰などもあった。

滝平二郎「灯ろう流し」1972年 画像協力・滝平二郎事務所

この奇妙な捕虜生活が一息ついた頃、今度は、「隊長殿!もっと注文を取ってきてください!」と、欲気のついた部下たちから催促の矢が飛んでくるようになり、「ほとほと参った」と苦笑していたという。

滝平はこういった笑いを誘うエピソードもたくさん持っていたようで、「私が中学に上がる頃は、『お前のオヤジさんの体験談はおもしろい』と、たびたび同級生が話を聞きに来たくらいでした」と、加根さんは懐かしそうに話す。

展示室に置かれた滝平二郎と斎藤隆介のコンビによる名作絵本の数々

1972年10月から約1年にわたって放送されたNHKドラマ「赤ひげ」のタイトルバック用原画

「想像すると楽しい」 巨匠も魅了

滝平の体験談は日本映画界の巨匠の関心も引いた。「山田洋次監督です。何かの会合でご一緒した際、雑談の中で沖縄戦の話をしたそうです。すると監督から 『じつに面白い。映画にしたいのでもっと話を聞かせてもらえませんか』と頼まれたそうです。でも丁重にお断りしたと言っていました。『不真面目な自分が話すと戦争の悲惨さが伝わらないから』というのが理由だったようです」

もちろん山田監督は滝平を画家としても認めていた。中でもお気に入りの1枚が本展でも展示している「嫁さま」だ。

滝平二郎「嫁さま」1970年 画像協力・滝平二郎事務所 🄫JIRO TAKIDAIRA OFFICE Inc.

夕暮れどき、白無垢姿のお嫁さんが祝福と羨望の眼差しを背に、嫁ぎ先に向かう舟へと手を引かれている。橋の上に一人だけ男の子がいる。祝いの門出にふさわしい表情ではない。逆に何か悲しみをこらえているかのような目と口元だ。

滝平二郎「嫁さま」部分 画像協力・滝平二郎事務所 🄫JIRO TAKIDAIRA OFFICE Inc.

「山田監督はこの男の子を滝平本人と捉えて、『いろいろ想像すると楽しくなって、私の家族はつい笑顔になったものだ』と、寄稿までしてくださいました」。こう話す加根さんの言葉には、画家・滝平二郎への畏敬の念がにじんでいた。

 湧き出るストーリー 童心へのいざない

インタビューを終えたあと、あらためて「嫁さま」の前に立ってみた。橋の上の男の子にいじらしさを感じ、男の子が花嫁の弟と思えてならなかった。

優しかった姉さまがもう手の届かないところに行ってしまう。最後にもう一度抱きしめてもらいたいけれど、顔を見るだけで涙があふれてしまうから、やっぱりこのままここで見送ろう――。

まるで自分が男の子になったように、いろいろなイメージや感情がわき起こった。ほかの観覧の人たちも静かに絵を見ながら、思い思いにストーリーを巡らせていたのではないか。

滝平二郎のおかげで久しぶりに童心を取り戻したことに感謝し、館を辞した。(ライター・遠藤雅也)

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