奈良の小学生には有名人!都が移ったあと長く田畑だった平城宮跡の保存の立役者とは? 平城宮跡の国史跡指定100周年で注目

平城宮跡歴史公園の復原された朱雀門と朱雀門ひろば

710年から784年まで都だった「平城京」は、奈良時代の日本の中心地でした。今年(2022年)は、平城宮跡(奈良県奈良市)が1922年に国の史跡に指定されてから100周年のメモリアルイヤー。1952年には史跡版の国宝指定とも言える「特別史跡」に指定され、1998年には「古都奈良の文化財」として、ユネスコの世界遺産に登録されています。

それだけ歴史的にも学術的にも価値が高い遺跡である平城宮跡ですが、都が平安京に遷ったその後、どのような姿だったかというと……実は、長らく田畑だったのです。古代の遺構が非常に良い状態で残っている稀有な遺跡として、現在の姿で保存することができたのは、遺跡への熱い思いを持った先人たちがいたからでした。

平城宮跡歴史公園の北西端にあり、奈良文化財研究所が運営する平城宮跡資料館

平城宮跡歴史公園の北西端にあり、奈良文化財研究所が運営する平城宮跡資料館では、特別展「平城宮跡史跡指定100周年・奈良文化財研究所70周年記念  未来につなぐ平城宮跡 -保存運動のあけぼの-」が612日まで開催され、そうした人々の思いをたどることができます。今秋にも続編の特別展が開催予定です。

明治期の平城宮跡保存運動に携わった人々

明治時代に平城宮跡の保存運動を支えたのは、植木商・棚田嘉十郎たなだかじゅうろうや地元である都跡みあと村の有志たちでした。

朱雀門ひろばに建つ棚田嘉十郎の像。奈良県の小学生は郷土史で必ず学ぶ人物です

近年新たに発見された標木ひょうぼくや関係資料から、平城宮跡保存運動のさきがけとなった人々の熱い思いをたどってみましょう。

旅人から問われて

世間から忘れ去られ、田畑だった平城宮跡ですが、地元には「ここが都の跡だった」との言い伝えが残っていました。なかでも、大極殿(古代の朝廷の正殿)の基壇については、「大黒だいこくの芝」「大黒殿」と呼ばれていたのです。

植木商だった棚田嘉十郎が「平城宮跡の保存運動」に目覚めたきっかけは、奈良を訪れた旅人から都があった場所を聞かれ、答えることができず残念に思ったことから。「大黒の芝」と言い伝えられる場所に村人の案内で行ってみると、瓦や敷石などがたくさん出土するのに、何も保護もされていないことに衝撃を受け、保存運動に生涯を捧げようと誓ったと言われています。

晩年に自らの活動を語った「棚田嘉十郎聞書」。植木商だった嘉十郎は文字を書けなかったという

村の有志と嘉十郎らは、遺跡の場所の目印となる標木を2本、明治34年(1901)と明治43年(1910)に立てました。この標木は平城京跡保存活動のシンボル的な存在でしたが、古写真しか残っておらず失われてしまったと考えられていました。

標木の古写真

近年、保存活動に携わった地元の溝辺家に保管されていたことが分かり、奈良文化財研究所に寄贈されました。保存運動黎明期の嘉十郎を含む人々の思いが伝わる品です。

近年見つかった標木。向かって右が明治34年のもの、左が43年のもの。説明をするのは奈良文化財研究所展示企画室長の岩戸晶子さん

幻の「平城神宮」計画

嘉十郎らは保存のために、平城京を顕彰する「平城神宮」の建設を目指しました。平安遷都1100年を記念して、明治28年に創建された京都の平安神宮をモデルにしようと考えたのです。

棚田嘉十郎と志をともにした溝辺文四郎の日記。「決約」が書面に残っている。溝辺文昭氏所蔵

田畑を潰して大規模な神宮を創建することに反対の声もあり、この計画は実現しませんでしたが、賛同者を募った名簿「平城宮旧紀念翼賛簿」や「平城神宮見積書」など多くの資料が残っています。

棚田嘉十郎の同志として二人三脚で活動した溝辺文四郎みぞべぶんしろうが制作させた元明天皇像(木彫)。平城京遷都をおこなったこの女帝の像は、平城神宮の御神体としてまつられる予定の1体でした。神宮にまつることが叶わなかったため、文四郎は自宅に安置し「朝夕礼拝スル事決心」しました。今も溝辺家では「ゲンミョーさん」と呼ばれているそうです。

平城神宮の御神体としてまつられる予定だった平城京遷都をおこなった元明天皇像。溝辺文昭氏所蔵

「時代背景として、明治期の尊皇思想が盛り上がった機運がありました。天皇の御在所だった場所が忘れられているという熱い思いです」と奈良文化財研究所展示企画室長の岩戸晶子さんは説明します。

平城神宮の夢が絶たれた後は、奠都てんと(都を定めるの意)1200年を記念して、記念碑を建てる目標を掲げました。そのために、先ほど紹介した標木のうち1本が明治43年に立てられたのです。木製なのはあとでちゃんとした石碑を建てようとしたからだそうです。

明治43年の標木。切断されているが「平城宮址記」「碑建設地」と読むことができる

その後、現在まで

大正時代には、紀州徳川家の当主・徳川頼倫よりみちを会長に「奈良大極殿阯保存会」が発足。大正天皇御大典ごたいてんと遺跡保存とを関連付けようとしました。

事業としては、遺跡の意義を見えやすい形で表現することが重視され、現在の保存の考え方とは異なる点も。大極殿・朝堂院地区を石積みの溝をめぐらして、区画を分かりやすく示す工事を始めたことで、逆に史跡を破壊してしまう恐れが指摘されました。

 特別展では、その後の戦後の発掘調査と保存運動までを紹介しています。現在は、総面積132ヘクタール(東京ドーム約28個分)の広さが特別史跡に指定されています。

 学術的な発掘調査は、昭和27年(1952)に新設された奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)が担当し、昭和53年(1978)には、「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想」が策定され、これを指針として、保存整備がすすめられてきました。

今年の3月19日に完成披露された復原された大極門(第一次大極殿院南門)。さらなる復原事業がすすめられている。画像提供:平城宮跡管理センター

遷都1300年にあたる平成20年(2008)には、第一次大極殿が復原され、平成30年(2018)には、「国営平城宮跡歴史公園」が一部開園。そして、史跡指定100周年の今年、「大極門」(第一次大極殿院南門)の復原が完成しました。岩戸さんは、「保存とともに史跡そのものの活用にも取り組んでいます。その魅力を伝え、知ってもらうことが未来へと守り伝えることに繋がると思います」と話していました。(ライター・いずみゆか)

・奈良文化財研究所 平城宮跡資料館公式HP

 ・平城宮跡歴史公園公式HP

新着情報をもっと見る