小林亜星さんの一周忌を前に、肖像画を描くなど交流の深かった現代童画会の小澤清人会長が思い出を語る

多くのCMやアニメソングのほか、都はるみさんの大ヒット曲「北の宿から」などでも知られる作曲家の小林亜星さんが88歳で亡くなられて、5月30日で1年となります。

亜星さんのご自宅に飾られていた肖像画を描いた現代童画会会長の小澤清人きよんどさん(71)に、亜星さんの思い出などをうかがいました。

小澤さんが亜星さんと出会った「宵待草」(撮影=宮澤新樹)

小澤さんが、亜星さんと出会ったのは1990年ごろ。京王線井の頭公園駅前にあった「宵待草」という、小澤さんがプロデュースした大正ロマン風のカフェが舞台でした。テレビドラマ「寺内貫太郎一家」で昭和の頑固おやじを演じてから顔の売れていた亜星さんは、変装して店に入ってきたものの、一目で分かったといいます。

大正ロマンの雰囲気が好きな同士ですぐに意気投合し、亜星さんは店に置いてあった小澤さんの絵はがきなどを買って帰られ、交流が始まりました。「スケールは違いますが感性が似ていたのでしょう」と振り返ります。

小澤さんが描いた亜星さんの肖像画の一部

亜星さんの肖像画を描くきっかけは、2008年の正月、亜星さんがご夫人の早苗さんと「宵待草」を久々に訪れたことからでした。その前の年に、小澤さんはご両親の大きな肖像画を描きあげ、「自分という人間を、この世に送り込んでくれた父母は、モデルとしては原点。ある意味、人物はこれ以上描けない」と燃え尽きたような状態に陥っていました。

ちょっと元気のなかった小澤さんが、居眠りしていた亜星さんをスケッチしていたところを、早苗さんが見つけ、「描いてもらうからには上手じゃないと。清人さんが描くならいいわよ」と、次のモデルと目標が定まりました。

「亜星さんは一世を風靡し、誰もが知っている。全然似てないと言われたらおしまい」という重圧は感じながらも、「身長1メートル70にも満たないのに、とても大きく見える方。人物としては最高のモデル。西郷隆盛のイメージで描いてみたい」という思いが勝りました。

亜星さん(右)を描く小澤さん(2008年正月ごろ。亜星さんの自宅で)=小澤さん提供

 肖像画を描く場合、本人を知らずに写真から描く方法もありますが、小澤さんは「その人の雰囲気、匂いを描かないといけない」という信念を持っています。「天才は一度で、その人を見抜くかもしれないが、自分は数を描いていくことで、『こんな人なんだな』と自分なりの見方が分かってくる」と話します。

長い下のまつげ

何度も亜星さんのお宅に足を運び、描き込むことで、小澤さんが気づいたのは「下のまつげがすごく長い」という点です。言われるまで気づきませんでしたが、絵を見ると確かにバサバサするようなまつげが、亜星さんらしさを特徴づけているのが分かります。また、ふくよかな体型で周りを安心させますが、目は大きくはないものの、非常に強い力があります。「良い肖像画を描くには、じわりじわりと、その人と一体になるのが大事ということを勉強させていただき、とても感謝しています」と小澤さん。一番描いているテーマの西洋人形は、絶えず直している小澤さんですが、この絵については、書き上げた後は筆を入れていないといいます。思い通りに描けた証でしょう。

蓄音機
音符

亜星さんは一流の趣味人でもあり、時計も変わったものを中心に300以上のコレクションがあり、蓄音機や手風琴などもお持ちでした。そういう小道具や、音符などもご本人の周りに配し、亜星さんらしい雰囲気をより醸し出しています。

一番の大作の《響》と小澤さん

130号の《響》と題された絵は約半年をかけて制作され、小澤さんが会長を務める現代童画会の2008年の本展に出品されました。展覧会を訪れた亜星さんは「この作品は、僕の偲ぶ会の時に出してほしいな」と冗談交じりに話されたそうです。

ご自宅の居間に飾られていた肖像画の前でほほ笑む亜星さんご夫妻(2017年秋ごろ。亜星さんのご自宅で)=小澤さん提供
《或る音楽家の肖像》

亜星さんが亡くなられた1年前はコロナ禍が続き、葬儀は身内だけで行われ、ご自宅にあった10号の《或る音楽家の肖像》が祭壇に飾られたそうです。この作品は、クリムトの作品に影響され、大きい額部分に楽器や懐中時計、ジョッキなど亜星さんのコレクションを散りばめています。上下に「小林」、左右に「亜星」の文字も見えます。

「参列者から『あの絵は良かった』とうかがいましたが、(130号と大きな)《響》を飾って、多くの方に偲んでいただきたかった」と小澤さん。コロナ禍を乗り越えた何回忌かに、多くの方がこの大作とともに、亜星さんを偲ぶことができる日が来ることを祈るばかりです。(読売新聞美術展ナビ編集班 若水浩)

こばやし・あせい クラシックからジャズ、ロック、演歌まで幅広い音楽活動を行った。1976年には作曲した「北の宿から」(都はるみ)がレコード大賞を受賞。72年 「ピンポンパン体操」が200万枚を超す大ヒットを記録した。CM曲としては、明治製菓の「チェルシー」、日立の「この木なんの木」など。アニメソングでは「ガッチャマン」、「ひみつのアッコちゃん」、「魔法使いサリー」などが多くの人の記憶に残る。74年のテレビドラマ 「寺内貫太郎一家」に主演し大好評を得るなど俳優としても活躍した。