【探訪】阪神間の蒐集家たち5人の「もの」を見る眼。 キュレーター・嘉納礼奈

数年前から、ビジネスへのアート思考の取り組みやビジネスパーソンに美術品の蒐集を奨励し、アートとビジネスを結びつけるべくセミナーなどが多数開かれている。
だが、美術品の蒐集といっても、一夜漬けのノウハウで急にできるものではない。
また、財力に任せて闇雲に行うものでもなければ、スノッビスムで無理矢理たしなむというものでもない。また、必ずしもビジネスや実業と結びつくものでもない。
ただ言えることは、蒐集品とは一人の人間が生きていく中で巡り合い「眼」に捉えられたものなのだ。
関西の大阪と神戸の間、「阪神間」と呼ばれる地域には古美術や近現代美術の蒐集家が早くから存在した。現在、関西で開催中の企画展で見ることができる5人の蒐集家たちの作品を通して彼らの「眼力」を学びたい。(キュレーター・嘉納礼奈)
池長孟 南蛮美術

まずは、南蛮美術の蒐集家である資産家の池長孟(1891-1955)の蒐集した重要文化財「聖フランシスコ・ザビエル像」。神戸市立博物館で5月8日まで実物が展示されている。

聖フランシスコ・ザビエル(1506-52)のこの礼拝画は、教科書などでお馴染みだ。作品の保存のため、実物展示は期間限定でその他の期間はレプリカが展示されている。日本に初めてキリスト教を伝えたことで知られるザビエルは、アジアでの布教活動を展開中の1549年に来日し、2年ほど日本に滞在。彼の帰国後、日本のキリシタンは約30万人に増えたものの、17世紀初めに徳川幕府が禁教令を出し、その後は潜伏キリシタンたちが密かに信仰を続けることとなった。この礼拝画は、ザビエルが1622年に聖人に列せられたことが日本に伝わり、西洋版画を元にして日本で日本人絵師により描かれたのではないかと推測されている。

礼拝画には、手を交差して祈りのポーズで描かれている聖人ザビエルのほか、彼にまつわる言い伝えが天使たち、十字架状のキリスト、I HS、燃える心臓などの絵画モチーフで語られている。画面下部には、同時代のキリスト教絵画には極めて珍しい万葉仮名で書かれた信仰のあり方である7つの秘跡が記されている。
1920年に、現在の茨木市千提寺地区にある東藤次郎宅で「聖フランシスコ・ザビエル像」などのキリシタンの遺物が密かに保管されていたことが公となった。1935年、池長は何度も交渉を重ね、東家より同作品を入手した。発見当初は、掛け軸に仕立てられ、木箱に入っていたという。
池長は、1927年より南蛮・紅毛美術(戦国時代から明治の文明開花期までに至る海外からの影響を受けた日本美術)とその資料の蒐集を始めた。きっかけは、大阪の古美術店のショーウィンドーに陳列されていた長崎版画との衝撃的な出会いだった。自邸の洋館「紅塵荘」のための装飾品を探すうちに一大コレクションを築いたのだ。1940年に7000点以上の蒐集した品を公開すべく「池長美術館」を開館。アール・デコ調の美術館を建てた。1951年、神戸の大空襲を奇跡的に逃れた蒐集品の散逸を防ぐべく、神戸市に委譲した。現在、蒐集品は、神戸市博物館に、当時の池長美術館の建物は神戸市文書館に引き継がれた。
村山龍平 日本と東洋の古美術

次は、日本と東洋の古美術の蒐集家であった朝日新聞社創業者の村山龍平(1850-1933)の「阿弥陀三尊像」と「帰来迎図」である。

現在開催中の中之島香雪美術館の企画展、「来迎」展(5月22日まで)で展示されている。
村山のコレクションは、仏教美術、茶道具、近世絵画、武具などからなる。同展では仏教美術の中からとりわけ、浄土信仰の蒐集品を関連作品とともに展示している。テーマである「来迎」とは臨終の際に、阿弥陀如来をはじめとした仏や菩薩がお迎えに来ることをいう。生前、人々は死後に阿弥陀如来の住む極楽浄土に生まれ変わりたいと切に願う。または、大切な人に極楽浄土へ行って欲しいと願う。「来迎図」や極楽浄土を描いた曼荼羅などの「浄土図」は、人々の信仰と祈りの想像力を掻き立ててきた。いわば、あの世とこの世を結びつけるコミュニケーションツールであった。

注目作品である「阿弥陀三尊像」は、数あるコレクションの中でも今回が初公開。数少ない南宋〜元時代の大作で、明治期から村山家の美術蔵に眠っていたという。
阿弥陀如来を中心に、阿弥陀から見て左に観音菩薩、右に勢至菩薩の三尊が飾りのついた蓮華座の上に座っている。詳細にこそ、この時代に描かれた仏画の特徴が見て取れるという。左右にいる菩薩の冠の後ろから垂れているシースルーの布の文様、台座を取り囲む雲に丁寧に入れられた紫色のぼかしなど。実物でしか見られない細部を肉眼で見ることができる。

「帰来迎図」は、阿弥陀如来と6菩薩が亡くなった人を迎えに来て、浄土へ帰っていく後ろ姿を描いている。2019年より約1年の修復を終え、修復後初公開となった。御一行の先頭の2菩薩はそれぞれ篳篥(ひちりき)と横笛を吹いている。3人目の菩薩が持つ蓮台の上には黒い着物を着た亡者が乗っている。今回の修復調査に際して新たな知見が発見された。画面の上部の空の色がほんのり赤色であること、画面右下の御一行を見送る赤鬼と青鬼や屋形の前方の空間に「雲母(きら)」と呼ばれる表面にパールのような光沢を与える鉱物が使用されていたことなどだ。
神戸・御影にある香雪美術館は、1973年同コレクションを公開するために村山の自邸の敷地内に開館したが、現在は長期休館中 。コレクションは中之島香雪美術館で見ることができる。ちなみに、中之島香雪美術館では村山の藪内流の茶人としての側面を知ることができる。自邸に建造した茶室「玄庵」のレプリカだ。実物と全く同じ大きさ、資材や建築用法でそっくりそのまま再現されている。
嘉納治兵衛 東洋古美術

続いては青銅器、陶磁器、書、絵画など東洋古美術のコレクター、白鶴酒造7代目の嘉納治兵衛(1862-1951)の中国陶磁器、重要文化財「白地黒掻落龍文梅瓶」と重要文化財「金襴手獅子牡丹唐草文八角大壺」である。現在、白鶴美術館(本館)で開催中の「中国陶磁編 モノクロームの世界+色絵の世界」(6月5日まで)で公開されている。

1934年に開館した白鶴美術館は、当初から美術品の展示・保管の目的で建てられた城郭のような建物で私立美術館の先駆けであった。展示物は、全て同コレクション内から選んでいる。同コレクションは、約1450点以上で、国宝2件(75点)、重要文化財22件(39点)を含む。

企画展では、収蔵品の陶磁器をモノクロ(1階)と色絵(2階)のそれぞれの魅力を感じられる構成になっている。モノクロの見ものは、重要文化財「白地黒掻落龍文梅瓶」。
素地の全体を一旦、黒釉で覆ってから、紋様の形状を得るために黒い部分を削り出す掻落(かきおとし)と言う手法が用いられている。白い部分をよく見ると、斜めに走るヘラの跡のような筋がたくさん見える。龍が今にも瓶を飛び出さんばかりの立体感がある。

色絵の展示では、重要文化財「金襴手獅子牡丹唐草文八角大壺」が存在感を放っている。
中国、江西省北東部の景徳鎮一帯にある中国最大の窯である景徳鎮窯でその全盛期の民時代に作られたとされる。赤地の金襴手の壺の中では現存最大の作品である。壺の周囲は、八角に面取りされ、上部の四方(よも)だすき文、真ん中の膨らみ部分の七宝菱つなぎ文や、裾部の獅子牡丹文は吉祥の表現が施されている。
嘉納は幼少の頃より、奈良の古美術に親しみ、1875年より開催された奈良博覧会では美術の眼を養うために自ら看守役を申し出たという逸話を持つ。また、美術品蒐集のほか、煎茶や抹茶を趣味としていた。設立当初の趣意書で記した蒐集作品の永続的な保存と公開による社会貢献への思いは水害、大空襲、震災を乗り越え今日も受け継がれている。
山口吉郎兵衛 香合

次は、陶磁器や茶道具、人形やかるたの蒐集家で山口銀行の頭取、四代目山口吉郎兵衛(1883-1951)の香合をご覧あれ。
現在、滴翠美術館では「茶の湯の香合―掌中の美を愛でる」(6月12日まで)が開催され、38年ぶりに山口コレクションの香合が一堂に会している。
同美術館は1964年、2500点にも及ぶ蒐集品を公開するという山口の生前の意志を受け継ぎ、山口の自邸を改装して開館した。

元々、香合は蓋付きの容器で仏具の一種として伝わったが、茶の湯の世界でお香を入れる茶道具として用いられた。手のひらサイズで漆器や陶磁器、木材などの素材にさまざまな意匠が施されている。江戸末期に作成された「形物香合相撲」番付表に「西方二段六位」に選出された「祥瑞蜜柑香合」。枝葉のついた蜜柑を象っている。景徳鎮窯で作られた染付磁器で鮮やかな特徴的なブルーの染付に文様が施されている。

幕末に活躍した京都の名工、仁阿弥道八による「七福神香合」。
茶席の床に置かれたこの香合を見るとちょうど七福神たちと目が合うように顔に角度がついている。七福神の顔、腕や手は白土の素地をそのままに他の部分は赤く発色する黄土や鉄釉や白釉を使い分けている。手のひらサイズの意匠たちは、可憐なもの、どっしりと渋いものなど様々な顔をしている。
山村德太郎 現代美術
主に戦後の現代美術を蒐集した山村硝子株式会社社長の山村德太郎(1926-1986)の作品は、現在兵庫県立美術館で開催中の「生誕100年 元永定正展」(7月3日まで)で見ることができる。山村德太郎は、1955年の社長に就任した頃に母ハルとともに国内外のモダンアートの蒐集を開始した。母の死を機に、1966年に蒐集品のうち、ジョアン・ミロなどの海外作家の作品を国立西洋美術館に寄贈。以後は、日本の戦後美術の蒐集に絞り込んだ。モダンアートから現代美術への系譜がたどれるような体型的なコレクション形成を目指し、いずれは公的な財産となることを前提として日本の現代作家の作品を蒐集していた。山村はのちに、コレクションは津高和一と吉原治良、斎藤義重、元永定正の四本柱であったと語った。

山村が四本柱の一人、元永定正(1922-2011)の作品と出会ったのは、1961年の東京画廊で行われた個展であったが、親しくなったのは後のことだった。山村は1973年にガラス瓶のリサイクルにいち早く着手した人物で、その新聞広告の挿絵を1978年、元永に依頼したことがきっかけだったという。

山村の蒐集した両作品は、元永が日本画の「たらし込み」という技法に着想を得て描いた絵画作品である。床に置いた画面の上に絵の具(油性合成樹脂塗料)をたれ流して描かれている。ニューヨークのマーサ・ジャクソン画廊と契約していた時期であった。山村は元永の作品について、「もし、私が“自分の目”を大切にしていなかったら、おそらく元永さんとの出会いはなかったであろう」と語っている。同作品を含む68作家167点のコレクションは山村の亡き後の1987年と1990年に、現・兵庫県立美術館に収蔵された。
蒐集家たちの「こころ」も継承を
SDGs、持続可能と言うワードが飛び交う昨今だが、阪神間の蒐集家たちは実業で社会から享受した富を社会に還元することを意識しながら、その「眼」を培っていた。
そして何を蒐集するか。南蛮美術、仏教美術、茶道具、玩具、現代美術など、「美術」といえども「もの」の分野はさまざま。偶然の出会いもあれば、やっと辿り着いた名品もある。兎にも角にも自分が好きなものに出会えたと言うのが蒐集家の醍醐味であろうか。
蒐集家たちの眼が集めた「もの」の側面だけでなく、「出来事」や「こころ」も大切に受け継ぎ、次から次へと多彩な企画で我々を魅了する学芸員の方々にも敬意を表したい。
