「ふつう」とは何か、見直してみて――府中市美術館で企画展『春の江戸絵画まつり  ふつうの系譜  「奇想」があるなら「ふつう」もあります―京の絵画と敦賀コレクション』

《牧童群牛図屏風》の展示風景

企画展『春の江戸絵画まつり  ふつうの系譜  「奇想」があるなら「ふつう」もあります―京の絵画と敦賀コレクション』
会場:府中市美術館(東京都府中市浅間町1-3)
会期:2022年3月12日(土)~5月8日(日)
休館日:月曜休館、ただし3月21日は開館し、22日が休館、5月2日は開館
アクセス:京王線東府中駅から徒歩17分、または、東府中駅からちゅうバス府中駅行きに乗り府中市美術館で下車。京王線府中駅からでも、ちゅうバス多磨町行きに乗り、府中市美術館で下車。JR武蔵小金井駅からは京王バス府中駅行きに乗り、一本木で下車
入館料:一般700円、高校・大学生350円、小・中学生150円、未就学児無料など。
※入館料などの詳細情報はホームページ(https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/)で確認を。

「ふつうの系譜」と題されたこの展覧会、最初に目に入るのは六曲一双の作者不詳《牧童群牛図屏風》である。野性的で力強い牛たちと、傍らでうろちょろしている牧童との対比が面白い。その隣にあるのは、曾我簫白の《猩々と牛図》。やっぱり勇壮な牛の周りでヒトに近いけどヒトではないヤツらが三匹、なにやら魂胆がありそうな動きをしている。簫白といえば、「奇想」の代表格。二つの作品も、どちらかというと「奇想」の作品だ。あれ、今回は「ふつう」がテーマじゃないの?

まあまあ。展覧会場は広い。そんなに急くこともないでしょ。「奇想」をスタートにした企画者の意図は、会場を巡り始めるときっとすぐに分かるのだから――。

土佐光起《伊勢図》(部分)一幅/絹本着色 江戸時代前期(17世紀後半)敦賀市立博物館

大和絵、狩野派、円山派・・・・・・「ふつう」の作品を一覧していくと、冒頭2作品のどこが「ふつう」でどこが「ふつうでない」なのか、素人目にも何となく理解できてくる。骨太で緻密、確かな技術で描かれた牛たち。そこにまとわりつく牧童や猩々。その対比が、あくまでスタンダードな「ふつう」と、その技術を生かしながらもひねりや批評性を加えた「奇想」との対比にも見えてくるのだ。21世紀の今、展覧会で人気を集めているのは、前述の簫白に加え、伊藤若冲、歌川国芳、河鍋暁斎といった「奇想」の絵師たちだけど、「奇想」は「ふつう」があってこそ、映えるのではないですか? そんなメッセージも伝わってくるのである。

日本画の本流とも言うべき「ふつう」の作品の数々をまとめて見ると、改めて気付くのがその技術と美意識の高さだ。墨絵のような世界の中に色鮮やかな美女が浮かび上がる《伊勢図》。広大な渓谷の景色を力強く精緻に描く《楼閣山水図》。構図の取り方といい、色彩感覚といい、お見事。土佐絵でも狩野派でもレベルの高さは全く変わりがない。

狩野永岳《楼閣山水図》一幅/絹本着色 江戸時代後期(19世紀) 敦賀市立博物館

岸駒の《猛虎図》を見ていると、よくこんなに細かい毛並みを表現できるな、と感嘆する。虎の目鼻が浮き出ているように見えるところなど、被写界深度を浅くして撮った写真のようだ。そういう高度な表現をサラリと使っているところも、「ふつう」の絵のスゴイところ。

岸駒《猛虎図》 一幅/絹本墨画 江戸時代中期(十八世紀後半) 敦賀市立美術館蔵

ムダがなく、調和が取れている。技術をひけらかしたりはしない。「ふつう」の絵は、上品なのである。過去から流れる伝統をしっかりと踏まえ、さりげなく自分の工夫を加えて作品を仕上げる。そういう「ふつう」の良さを理解できるのは、やはり伝統を熟知し、多くの作品を見慣れている人たちなのだろう。「教養のある」方々の集まるサロンでこそ、評価される作品。違う言い方をすれば、それは「ハイカルチャー」なのである。

原在中《養老滝真景図》一幅/絹本着色 天保元年(1830) 敦賀市立博物館

ハイカルチャーに対応するモノは、「ポップカルチャー」であり、「カウンターカルチャー」だ。そう考えるとまあ、「奇想」の人気が高いのも分かる。「ふつう」が思いついてもやらない、露悪的で鬼面人を驚かすような発想をあえて彼らは採用する。だからこそインパクトが強く、けれん味たっぷりの仕上がりになる。それは教養主義・権威主義になりがちなハイカルチャーに対するアンチテーゼなのであり、だからこそ一般受けもし、21世紀の今の感覚にもあっているのである。

岸礼《百福図》一幅/紙本淡彩 明治六年(1873) 敦賀市立博物館

まあ、「ふつう」の絵師たちも「けれん」は「できるけどやらない」ところがあって、それは《百福図》などを見るとよく分かる。「ふつう」と「奇想」は、ある意味、紙一重なのだ。一般的に言えば、カウンターカルチャーの担い手たちは、スタンダードであるハイカルチャーの力が強ければ強いほど、輝いて見える。例えば昭和の時代、唐十郎や寺山修司の「アングラ演劇」がパワーを発揮したのは、文学座のような「新劇」が権威と実力を持っていたからだ、というように。ちょっと俗になるけどもプロレスで言えば、大仁田厚の電流爆破デスマッチが熱気に満ちていたのも、全日本プロレス、新日本プロレスといった「王道」が頑として存在していたからだ。

梅戸在貞《三保之松原図屏風》(部分)二曲一双/紙本金彩 明治時代―大正時代(19世紀後半―20世紀前半) 敦賀市立博物館

だから、というわけではないけども、様々なカルチャーの世界で「奇想」ばやりの今、「ふつう」を見直す作業には、グッドボタンを押したくなる。「スーパー歌舞伎」で昭和の演劇界の寵児となった三代目市川猿之助(現・猿翁)は昔、こう話してくれた。「『型破り』というのは、型を理解したうえで壊すことなんだ。型が分かっていないままで好き勝手やるのは、『型なし』なんだよ」。アートの世界でも、十分説得力のある言葉だと思う。(事業局専門委員 田中聡)

 

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