【レビュー】「夢二がいざなう大正ロマン-100年前の文化と女性を中心に―」5月29日まで、竹久夢二美術館で

「夢二がいざなう大正ロマン-100年前の文化と女性を中心に―」 |
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会場:竹久夢二美術館(東京都文京区弥生2-4-2 ℡03-5689-0462) |
会期:2022年1月29日(土)~5月29日(日) |
休館日:毎週月、火曜日(但し3月21日、5月2日、3日は開館) |
開館時間:午前10時半~午後4時半(最終入館午後4時まで) |
入館料:一般1000円、大学生・高校生900円、中学生・小学生500円(併設の弥生美術館も観覧可能) |
詳しくは展覧会公式サイト |
夢二と咲いた大正ロマン
竹久夢二美術館(東京・文京区)で「夢二がいざなう大正ロマン―100年前の文化と女性を中心に―」が開催中です。本展では大正ロマンを象徴する画家・竹久夢二(1884~1934)の芸術と自由恋愛をクローズアップしながら、大正期に花開いた大衆文化の数々を紹介しています。ここでは夢二の抒情画をはじめとした展示作品を鑑賞し、著しい社会進出を果たした当時の「新しい女性」たちのライフスタイルや流行風俗の一端を見て回ります。解説を同館の石川桂子学芸員にお願いしました。

思春期の少女をセンチメンタルに
抒情画とは大正後期~昭和初期に流行した少女のためのイラストレーションです。主に思春期前後の少女たちを、センチメンタルな趣を多分に含みながら流麗な線描や淡彩によって表現しました。

抒情画の原型をつくったのが夢二でした。時代の流行を作画に反映させ、少女の内面にも目を向けた夢二の少女像は多くの乙女たちの心を捉えました。

日本髪から洗練された束髪へ
最初に紹介するのは「Mai」というタイトルの作品です。大正時代の女性の装いはまだ和服が主流でしたが、髪型は変化が大きく、従来の日本髪から、結いやすく洗練された束髪に移行しました。この絵の女性もセル(薄い毛織物)の着物を装いながら、ヘアスタイルは流行した「耳隠し」。おしゃれな夢二式美人です。

化粧品の充実 購買意欲を刺激
女性の美意識の高まりは化粧品や化粧法にも顕著な変化をもたらしました。西欧の技術を採り入れた国産の基礎化粧品類が充実。女性雑誌には各種化粧品の広告が多数掲載され、女性たちの購買意欲をそそりました。

銀座を闊歩 モダンガール
洋装に断髪、描き眉毛にマニキュア――。大正末期の都会で一世を風靡したのが「モダンガール」、通称モガです。流行の最先端を行く彼女たちは「モダンボーイ(モボ)」と銀座の街を闊歩し、都市風俗の象徴的存在となりました。
ここで紹介する「涼しき装い」は三越百貨店のPR誌の口絵で掲載された夢二の作品です。アール・デコ調の画風でモダンガールたちを描いています。初夏の日の午後でしょうか。涼やかな服装とヘアスタイルで、豊かな生活を存分に楽しんでいる様子が見てとれます。
タイピスト、パイロット―― 職業婦人が活躍
モガの中には自立して社会進出した人もいました。職に就き、報酬を得る女性。「職業婦人」の登場です。
大正期以降、職業婦人や女性の就職に関する情報は雑誌で特集も組まれます。事務員、タイピスト、電話交換手、自動車の運転手、飛行機の操縦士など、職業婦人が活躍する姿が紹介されました。

カフェーの女給 紳士のお目当て
モガやモボたちが集まる銀座には多くのカフェーが軒を並べました。カフェーを彩ったのが女給たちでした。和服に白いエプロン姿といういで立ちで酒や料理をテーブルに運び、客のそばに腰かけて話し相手になりました。
女給も人気の職業でした。夢二が描いた女給もサクランボ柄のかわいい和服の上に、白いエプロンを着けています。どうやら彼女目当ての紳士が花を片手に店にやってきた場面のようです。

銀座の名店をイメージアップ
流行の先端を行く銀座に大正2(1913)年、日本初のフルーツパーラーが開業しました。「銀座千疋屋」です。同12(1923)年には、今日に続く看板メニューのひとつ「フルーツポンチ」が誕生しました。

夢二は同店の広報誌の表紙も描いています。果物の持つ個々の色や形態を明快な色彩と形状で図案化しました。洗練されたアルファベットのレタリングを組み合わせ、モダンで都会的な果物店のイメージを表現。銀座を代表する名店に貢献したのです。
同店の広報担当者は「正確なところは不明ですが、夢二も足しげく通い、当時の経営者とも親しくなったのが縁で、当店のポスターやカタログの表紙絵などのデザインを手掛けたとみられます」と話しています。
女子教育の普及 青春を謳歌
大正は明治に比べ、女子教育が飛躍的に普及した時代でもあります。大正2(1913)年に全国で213校だった高等女学校は同12(1923)年には529校に、女学生も7万人から21万人へと大きく増加しました(唐澤富太郎「女学生の歴史」より)。

高等女学校ではスポーツ教育も取り入れられました。夢二も10代前半の少女向け雑誌「新少女」の表紙絵で、はかま姿で軽やかにテニスに興じる女学生を描いています。女子も学校で青春を謳歌し始めた時代でした。
須磨子のヒット曲の表紙絵も
社会にレコードが普及し、大衆歌謡が興隆しました。当時の流行歌を歌った一人が女優の松井須磨子(1896~1919)です。

須磨子は「サロメ」「生ける屍」などを演じて注目されましたが、「復活」の劇中で歌った「カチューシャの唄」(大正3年発表)は2万枚を超すレコードを売り上げ、続いて「その前夜」の劇中歌だった「ゴンドラの唄」(同4年発表)でもヒットを飛ばすなど、歌う女優の先駆けとなりました。夢二はこれらの歌の楽譜表紙絵を描いています。

時代の申し子・夢二 女性が支持
大正期はデモクラシーの風潮、教育の普及、物資の大量生産と消費の拡大、マスメディアの発達などを背景に、大衆のエネルギーが膨れ上がり、大衆文化が開花します。特に都市では生活の中に西洋文化が積極的に取り入れられ、和洋折衷のファッションなど、次々と新しい風俗や流行が誕生しました。
時代の申し子が竹久夢二でした。夢二は中央画壇とは距離を置いて世の中の移り変わりを見つめ、貪欲に自分の理想の女性像を描き続けました。自身も愛情のおもむくままに生きました。
夢二を支持したのが、同じ時代の空気を吸う女性たちでした。彼女たちも夢二に導かれ、新しい価値観やみずみずしい感性を求めたのです。

いのち短し 恋せよ乙女
ただ、ハイカラでモダンな時代の風もほどなく吹きやんでしまいます。昭和に入り、次第に戦時色が濃くなると、「統制」の名のもと、一般の人々は暮らしも思想も表現も一切の自由を奪われます。
そんな暗雲が奔放な大正の女性たちを待ち受けていると思うと、「ゴンドラの唄」の有名な一節「いのち短し 恋せよ乙女」を思い起こさずにはいられません。

女学生の装いを再現 華宵の作品も
本展では、夢二の日本画や夢二がデザインした千代紙、絵封筒、ブックデザインなども展示されています。女学生やカフェーの女給、夢二式美人、それぞれをイメージした着物の装いを、実物で再現したコーナーもあります。

夢二と同じく大正期に活躍した抒情画家・高畠華宵(1886~1966)らの作品も来館者の関心を集めています。また、同館に隣接する「弥生美術館」では華宵のコレクションを中心に、明治末から戦後にかけて活躍した挿絵画家やイラストレーターの作品や資料、雑誌、装幀本などを幅広く所蔵しています。こちらにもぜひ足を運んでみてください。(ライター・遠藤雅也)