【レビュー】国宝の古文書から見る戦国のリアリズム「上杉家文書の世界Ⅵ」米沢市上杉博物館

「国宝」と言うと色彩豊かで、造形美に優れた美術品を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。見た目は地味ながら国宝の古文書群が山形県の米沢市上杉博物館にあります。これらの古文書は、上杉謙信・景勝、武田信玄・勝頼、徳川家康らが躍動した戦国時代の歴史を雄弁に伝えてくれます。仙台市在住の歴史研究家・菅野正道さんにレビューしてもらいました。
開館20周年 コレクション展 国宝「上杉家文書」の世界Ⅵ 戦国の交渉 |
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会期:2022年2月11日~3月13日 |
会場:伝国の杜 米沢市上杉博物館(山形県米沢市丸の内一丁目2番1号) |
開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで) |
休館日:月曜日 |
料金:一般210円、高大生110円、小中生50円 |
詳しくは同館ホームページへ |
地味?古文書メインの展示
古文書は歴史を研究する上で最も基本的で不可欠な資料である。
しかし、ミュージアムで展示となると、古文書の立場は微妙なものになる。もちろん、歴史系の展示で古文書は不可欠なコンテンツであるが、「見た目が地味」「何が書いてあるのかよくわからない」等々、一般的な評価は高くない。織田信長や徳川家康などの有名人が書いたものだと「あの人が書いたものだ~」「昔の人は、よくこんな字を書いたり読んだりしたね」などと見てもらえることもあるが、それでも展示されている資料を真に楽しむまでにはなかなかいかないのではないだろうか。
展示する側も、往々にして「古文書を展示してもあまり見てもらえない」「色がない」などと認識されることがあって、古文書を前面に出した展示に躊躇することもあるようだ。
そうしたなかで、山形県の米沢市上杉博物館は、直球一本勝負で古文書メインの展示をしばしば行っている。

上杉博物館は、江戸時代にこの地に治府を置いた外様大名・上杉氏に関する資料を収蔵品の中核とするミュージアムで、織田信長が上杉謙信に贈った洛中洛外図屏風(国宝)を収蔵していることで有名である。

国宝「洛中洛外図屏風」ともう一つの国宝「上杉家文書」
上杉博物館の目玉となるもう1件の収蔵資料が上杉家文書である。越後国(新潟県)の戦国大名上杉謙信やその跡を継いだ景勝に関わるものを含む鎌倉時代から明治時代にかけての2018通、4帖、26冊の古文書群は、平成13年(2001)に武家文書として初めて国宝に指定された。
上杉博物館は、武家文書の白眉とも評されるこの古文書群について、多くの研究者や文化庁、東京大学史料編纂所などと共に継続的に研究を行い、その成果を生かしながら“国宝「上杉家文書」の世界”と題した展覧会を平成13年以来これまで5回開催してきた。
上杉と小田原北条、武田との同盟に迫る
現在開催中の 「上杉家文書の世界Ⅵ 戦国の交渉」は、その第6弾で、開館20周年を記念した展覧会である。
今回は、上杉謙信と関東の小田原北条氏が取り結んだ同盟=越相同盟と、武田信玄の跡を継いだ勝頼と上杉景勝が結んだ甲越同盟にスポットを当て、交渉の駆け引きや同盟の展開、そうした政治状況を担った武将たちの関係性を紹介している。
料紙にも注目
展示されている古文書1点1点の内容は大変に興味深いものだが、それだけにとどまらず、古文書に用いられた紙(料紙)にも注目し、「モノ」資料としての古文書展示に挑んでいる。
古文書は、書かれている内容だけでなく、紙の質や形、宛名の書き方、折りたたみ方、などからも多くの情報を読み取れることが近年では大きく注目されている。
上杉博物館でも、古文書を「モノ」として理解し、文字が読めなくても展示資料として観覧者に理解してもらおうと、常設展示の中でも折り方を体験できるなど、いくつかの取り組みを試みてきたが、本展覧会もそうした流れを継承している。

贈り物で信玄への攻撃を促す謙信宛ての書状
まず永禄12年(1569)に成立した越相同盟に関連する関東地方の武士たちの書状が展示されている。北条氏の当主や一族、重臣たちから上杉氏に宛てられた書状だけでなく、常陸(茨城県)の真壁氏、上野(群馬県)の由良氏などの文書もあり、上杉謙信と北条氏の同盟が関東地方の戦国に大きな影響があったことをうかがわせる。
やはり注目資料は北条氏当主が上杉謙信に宛てた書状だろう。その一つ、同盟成立半年後の北条氏政書状は、特産品を贈って共通の敵である武田信玄への攻撃を謙信に言外に促す書状だ。

北条氏領国の伊豆(静岡県)の産物として知られるミカンや「江川酒」が贈られていることが興味深いが、もう一つ注目してほしいのが紙の形である。
当時、書状で用いられる紙は縦が30数センチ、横が40数センチ程の大きさが一般的で、これを「竪紙」と呼んでいる。この竪紙を正方形もしくは縦方向が長くなるように裁断した「竪切紙」がこの書状では用いられている。
竪切紙は東国(関東地方から東北地方)の戦国文書でよく見られる紙の使い方だが、西日本ではほとんど見られない。また東国でも戦国時代の終わりころの書状では段々と用いられなくなってくる。
酒が結ぶ上杉景勝と武田勝頼の甲越同盟
戦国大名の外交関係においては、このように贈り物が重要な役割を果たす事例がしばしば見られる。
武田信玄と上杉謙信は終生のライバルであったことは有名だが、その跡を継いだ武田勝頼と上杉景勝は、織田信長を共通の敵として、天正6年(1578)に甲越同盟を結んでいる。同盟が結ばれてから約1年後、勝頼が景勝に出した書状には「夏酒」を贈ることが記されている。

現在の日本酒は、新米が出た後、冬季に仕込む「寒造り」が主流だが、戦国時代は春先に仕込んで夏に完成する「夏酒」が主流だったと言われる。酒豪で知られた謙信ほどではないが、景勝も酒を好んだようで、重臣の直江兼続らと「大酒」したという手紙も残っている。酒を輸送するのは容易ではない時代、遠路わざわざ甲斐から越後へ夏酒を贈ったのは、勝頼が景勝の酒好きを知っていたからであろうか。
ばれないように小さな紙に
甲越同盟に関しては、勝頼の従兄弟である武田信豊の書状が興味深い。まだ勝頼と景勝の同盟が交渉段階で書かれたもので、万が一、使者が敵方に捕らわれる事態になっても書状が見つかりにくいようにと小さな紙=「小切(こきり)紙」が用いられている。小切紙の書状は、南北朝時代には時折見られるが、戦国時代には滅多に用いられなくなる。本資料は希少な例として、また当時の危険が多かった交通状況を知ることのできるものとして、ぜひ見ていただきたい一品である。

武田勝頼「最後の手紙」
信玄が確立した武田家を滅ぼしたとしてかつては愚将扱いをされていた武田勝頼だが、近年では再評価が進んでいる。たしかに一時は信玄の時を上回る規模の領国を獲得しているが、天正10年(1582)に織田信長に滅ぼされている。
織田方の圧力が日に日に高まる2月20日付けで上杉景勝に宛てられた勝頼の書状は、援軍を要請しながらも、まだまだ大丈夫と強気であることが文面から読み取れる。しかし事実は、この1ヶ月後の3月11日に勝頼は自刃に追い込まれている。この書状は、現存が確認されているものとしては勝頼最後の書状と目されているものである。

天下統一で変化する書状のスタイル
織田信長、そして豊臣秀吉によって進められた全国統一の過程で、戦国大名がやり取りした書状の形態も次第に変化した。竪紙や切紙の書状から、竪紙を二つ折りした「折紙」という紙の用い方が一般化していく。
展示の最終コーナーではそれを明確に見せてくれる二つの徳川家康書状が並べられている。元亀2年(1571)に書かれた謙信宛ての書状は竪紙を横長になるように二分した「横切紙」が用いられているが、秀吉による天下統一が成った後の文禄3年(1594)に景勝宛てに出された書状は折紙である。天正18年(1590)の天下統一の完成は、政治だけでなく書状の形態という儀礼的、文化的なものにも大きな影響を与えたのだった。


40点余り展示されている古文書は、全て国宝に指定されている上杉家文書から厳選されたものである。たしかに地味な展示と思われるかもしれないが、そこに記された武将たちの思い、緊迫した政治状況、時に心を和ませる贈り物など戦国時代の息吹きをまざまざと感じさせてくれる。また、さまざまな文書の形や折り方、紙の質も興味深い。

江戸時代に描かれたものであるが、上杉謙信や景勝、上杉家と武田家の主要な家臣を描いた絵画も展示され、いいアクセントになり、さらに戦国への思いを高めてくれる。
まだ雪深い米沢であるが、それもまた、雪国の武将だった上杉謙信、景勝への思いを致す一助となるのではないだろうか。
(歴史研究家・菅野正道)
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