【レビュー】アートとは何かを考える「人間の才能 生みだすことと生きること」滋賀県立美術館で3月27日まで開催

人間の才能 生みだすことと生きること |
---|
会場:滋賀県立美術館 展示室3 |
住所:滋賀県大津市瀬田南大萱町1740-1 |
会期:2022年1月22日(土)〜3月27日(日) |
休館日:毎週月曜日(祝日の場合は開館し、翌日休館) |
開館時間:9:30〜17:00 入館は16:30まで |
入館料:一般1,300円/高・大生900円/小・中生700円 |
公式ホームページ:https://www.shigamuseum.jp/exhibitions/1634/ |
「人間の才能 生みだすことと生きること」が滋賀県立美術館で1月22日から3月27日まで開催されています。
本展で紹介される17人の作家のうちのほとんどが、プロのアーティストではありません。中には、何らかの障害を持つ作家もいます。作家たちに共通しているのは、世間の評価を望まず、日常生活の中で、独自の方法で作品を生みだしていることです。
人間がもつ「つくる」という才能。その才能を最大限発揮した作品、まるで「生みだすこと」と「生きること」が一体化しているような作品が集います。
「アート」や「アール・ブリュット」について問いかけ 共に考える
本展で紹介される作品の中には、アール・ブリュット(※)と呼ばれる作品がある一方で、アール・ブリュットの定義に収まらない作品もあります。
※専門的な美術教育を受けていない人々によって生みだされた作品
滋賀県立美術館は、2016年より、アール・ブリュットを収集方針の一つに掲げ、収蔵してきました。そんな活動に対して、「称賛と同時に様々な批判もいただいた」と保坂健二朗ディレクター(館長)は語ります。
「作品がアール・ブリュットかどうかや、いい作品かどうかは誰が決めるのか」「美術館は本来、芸術家が切磋琢磨し、保存も考慮して生みだした作品を未来に伝えていく場。そうではない作品を収蔵することは、美術館として正しいのか」
このように、様々な意見が寄せられたといいます。本展は、そんな意見に回答する場としても、企画されました。本展をとおして、アートとは何か、アール・ブリュットとは何かを鑑賞者に問いかけ、共に考えます。
「起」アール・ブリュットとは
本展は、起承転結の4章構成です。
第1章「起」では、アール・ブリュットという言葉が生まれた経緯を振り返ります。
アール・ブリュットは、フランスの芸術家であるジャン・デュビュッフェ(1901〜1985年)が1945年頃に提唱した言葉・概念です。
デュビュッフェは、アール・ブリュットについて「芸術的文化によって傷つけられていない人たちによって制作されたもの」と位置づけています。

アール・ブリュットは、アートに対する世間の考え方に影響を与えました。クリエイターもアール・ブリュットに敏感に反応しています。その例として、ファッションブランドのComme des Garçons(コムデギャルソン)が2014年のDMでアール・ブリュットの専門誌『RAW VISION』とコラボしたことが挙げられます。
一方で、アール・ブリュットという定義には、難しさもあります。アール・ブリュットと呼ばれる作品に、視覚的な共通点を見いだすことができないからです。またデュビュッフェ自身も、「こうした作品の共通性を定義することには意味がない」と語っています。
「承」9名の作家によるアール・ブリュット
アール・ブリュットと呼ばれる作品には、どのようなものがあるのでしょうか。
日本のアール・ブリュットは、日本国内よりもむしろ海外で着目されてきました。第2章「承」では、海外の展覧会への出品歴がある古久保憲満や澤田真一、冨山健二などを含む、9名の作家の作品を紹介します。

古久保憲満は、大きな画用紙に想像上の都市を緻密に描き出します。画用紙にはネオンが光る高層ビル、鉄道、発電所、刑務所など、ありとあらゆるものが配置され、古久保が作り上げた世界観が縦横無尽に広がります。

澤田真一が生みだすのは、思わず触りたくなるほど細やかな突起や線刻で覆われた、生き物のようなオブジェ。
幼少の頃から手が器用だった澤田は、養護学校を卒業後、粟東なかよし作業所の作陶工房で制作に携わります。当初は、器や壺を制作すると同時に、写実的なカエルを作っていましたが、職員や利用者の刺激を受けながら、作風を次第に変化させていきました。

鹿児島県の福祉施設で制作を行う冨山健二は、動物や建物などを編み目で描きます。独自の造形理論に基づき、淡々としたスピードでひたすら線を重ねていき、モチーフが重なっても、余白が見えなくなっても、手を止めることはありません。施設のスタッフが止めたり、ページをめくったりするまで、同じ紙の上で線を描き続けるのです。
「冨山さんは、作品の完成を自分では決められません。しかし、そのことをネガティブに捉える必要はないのでは」と保坂ディレクターは語ります。

熊本在住の藤岡祐機は、はさみを使って、紙に櫛の歯のような切り込みを細かく入れていきます。藤岡は制作を終えると、斜めに切り込みのサインを入れ、同時に、作品に対する関心を失うのだとか。1万点を超える作品を家族が保管してきました。

鵜飼結一朗の《妖怪》は、14メートルにも及ぶ作品です。動物やキャラクター、侍、昆虫などが練り歩く様子は、まるで現代版の百鬼夜行図のよう。
鵜飼は図鑑やアニメに出てくる動物やキャラクターを、非常に細かく描きこんでいます。マッチの図鑑を気に入っているためか、「BEST MATCHES」などと書かれた旗がところどころに紛れ込んでいます。
《妖怪》は、海外での人気が高く、一部は海外の美術館やコレクターに購入されてきました。「この規模でこの作品を見ることができるのは、最初で最後ではないだろうか」と保坂ディレクターは強調します。



そのほか、ボタンと布で「ボタンの玉」を作る井村ももか。漢字やドットを細密に並べ、ときには余白を生かした表現も行う喜舍場盛也。線を用いて不思議な空間を作り出す岡崎莉望らの作品を紹介。

デジタルネイティブ世代の上土橋勇樹の作品も興味深いです。上土橋の作品は、カリグラフィ、グラフィックデザイン、漫画のようなコマ割りの作品の3つに分かれます。
アール・ブリュットの研究者の中では、デジタルネイティブ世代の作品をどう捉えるかが議論となっています。
というのも、インターネットを使用する以上、(デュビュッフェがアール・ブリュットを定義した)「芸術的文化によって傷つけられない」ことは不可能だからです。ならば、デジタルネイティブ世代の作品は、アール・ブリュットとは呼べないのでしょうか。アール・ブリュットは、今の時代にはあり得ない概念なのでしょうか。
この議論に対して、保坂ディレクターは「アール・ブリュットがもたらすインパクトを大事にしたい」と考えます。たとえアール・ブリュットに当てはまらない要素があっても、「評価を求めない」「独自の技法で作る」などの要素を含み、かつ、アートについて深く考えるきっかけとなる作品ならば、アール・ブリュットとして紹介してもいいのでは。そんな考えで、上土橋の作品を第2章に加えたそうです。

「転」アール・ブリュットを相対化
アール・ブリュットという概念の誕生により、従来の美術史では評価されてこなかった作品に注目が集まるようになりました。その一方で、アール・ブリュットの定義に収まらない作品をどのように評価すべきかという問題も生じるようになりました。
たとえば、絵を描くレッスンを受けた人(芸術的文化に傷つけられた人)が、周囲の評価を求めず、「作りたい」という衝動にもとづいて制作した作品は、どう考えたらいいのでしょうか。
第3章「転」では、アール・ブリュットを相対化する作家やプロジェクトを紹介。アール・ブリュットという概念の難しさを確認すると共に、「人はなぜものを作るのか」を考えます。

こちらは、京都・亀岡にある知的障害者の入所施設「みずのき」の絵画教室で行われた造形テストの結果です。
後ろには、同じ人が描いた作品を展示しています。見比べると、各々がもつ独自の「才能」が、作品に映し出されていることがわかります。

また、アルトゥル・ジミェフスキによる短編映画《Blindly》を上映。映画では、眼が見えない6人の人々が、自分の像や動物、風景などを描きます。完成した絵を物理的に見ることはできないものの、頭の中のイメージにもとづき、指で構成を確認しながら、絵を描いていく――。そうした姿から、絵とは、描くとは、見えるとは(あるいは見えないとは)一体どういうことなのかと、考えさせられます。

クライマックスを飾るのは、美術家・彫刻家の中原浩大の展示企画「Educational」です。幼少期のお絵かき、小学校時代の作文や自由研究、高校時代の水彩画など、中原の手による作品や資料がずらりと並びます。
一人の子供が2歳から高校生になるまで、社会との接点を持ちながら成長していく様子を俯瞰し、教育が人間の成長にもたらすものとは何かを問いかけます。
「結」アートへの関心を深める
第4章「結」は、鑑賞者が感想や意見を壁のボードに書き込み、アートへの関心を深める場です。
「本展の目的は、『これがアートだ』『アール・ブリュットはこうあるべきだ』と定義することではなく、鑑賞者に問いかけ、共に考えることだ」と保坂ディレクターは言います。
アートとは何か。改めて考えると、難しい問いですが、作品を見て浮かんだ言葉を壁に書き留めてみてはいかがでしょう。その言葉は、自分自身が、そして他の鑑賞者がアートについて考えを深めるきっかけとなるかもしれません。
(ライター・三間有紗)
あわせて読みたい