【レビュー】北海道八雲町に入植した旧尾張藩士やその末裔が始めた熊彫を紹介する「木彫り熊展」 名古屋大学博物館

モダンなインテリアにも映える置物として、木彫り熊がブームだという。かつて、北海道土産といえば木彫りの熊だった時代がある。サケをくわえた漆黒のヒグマ像を思い出す人も多いだろう。「アイヌの民芸品」とうたわれたことも人気の理由だった。しかし、北海道で最初に木で熊を彫り始めたのは、函館から北へ約70㌔、八雲町の農民たちだった。いつから、どうして、そしてどんな熊を彫ったのか。この展示会にはその答えがある。
展覧会名:企画展「木彫り熊展―木彫り熊 北海道八雲町と尾張徳川家の関わり―」
会場:名古屋大学博物館3階展示室 (名古屋市千種区不老町)
会期:2021年11月30日(火)~2022年2月26日(土)
休館日:毎週日・月曜日
アクセス:地下鉄名城線「名古屋大学」駅下車、2番出口すぐ
入館料:無料
主催:名古屋大学博物館・八雲町教育委員会
詳しくは名古屋大学博物館ホームページ(http://www.num.nagoya-u.ac.jp)
全国へ広がった木彫り熊
会場に入ると、展示台に並べられた木彫り熊が目に入る。「北海道から日本各地に持ち帰られた木彫り熊」だという。サケをくわえた熊もあった。「これだ!」と思わず声が出た。我が家でも一時期、父が北海道で買ったというこの熊が床の間に置かれていた。「アイヌの民芸品」と聞かされた記憶がある。
しかし、今回の企画展を担当した名古屋大学博物館・情報学研究科の新美倫子准教授は「これはメインの展示じゃありません。まずはみなさんの中にある木彫り熊イメージを確かめるためなのです」という。つまり、新美准教授の実家や知人、同僚などから集めた「北海道土産」の熊なのだ。南は沖縄から寄せられた熊もあった。
木彫り熊第1号は八雲町
確かに昭和30年代の北海道観光ブームでもてはやされたのは、旭川を中心とした「アイヌの木彫り熊」で、八雲町の名は出てこない。しかし、記録をさかのぼると、旭川アイヌの木彫り熊の始まりは1926年(大正15年/昭和元年)。これに対し、八雲町ではわずかに先行し、酪農家の伊藤政雄が1924年(大正13年)に開催の農村美術工芸品評会に出品した木彫り熊が、北海道木彫り熊の第1号とされている。

今回、第1号の展示はないが、つぶらな瞳の「這い熊」は、ほぼ同時期の作品で、10㌢ほどの体長も姿形もそっくりだ。いずれも尾張徳川家19代当主の徳川義親が西欧視察旅行中(1921~22年)にスイスで買い求めた木彫りの熊がモデルとなった。
旧尾張藩士たちの入植
なぜ尾張徳川家が出てくるのか。展示では八雲町誕生物語を紹介し、尾張徳川家とのゆかりを説明している。

神棚の中に納められているのは幕末期に活躍した尾張徳川家第17代当主の徳川慶勝の写真だ。明治天皇の命令で1879年(明治12年)に編集・制作された「人物写真帖」の写真と同じだから、何らかの経緯で貴重な写真を入手し、自宅でまつったのだろう。この時、慶勝は57歳。
実は明治維新や廃藩置県で職を失った旧尾張藩士を救済するため、慶勝は北海道への移住を計画し、太平洋に面するユーラップ川流域の広大な原野の払い下げを受けた。旧藩士やその家族たちの第1陣が現地入りしたのは、「写真帖」制作の前年。古事記にあるスサノオノミコトが詠んだ和歌にちなんで「八雲」という地名を付けたのも慶勝だ。
八雲町には尾張徳川家が経営する徳川農場があった。19代当主の徳川義親はたびたび農場を訪れ、旧藩士やその子孫の農民たちと交流しており、彼らの貧しく、潤いの少ない暮らしぶりを知っていた。このため、農閑期の副業になるとともに趣味を楽しむ豊かな生活を送れるようにと、スイスをモデルに熊の木彫りを勧めたのだ。
八雲ブランドの熊たち



1928年(昭和3年)に「八雲農民美術研究会」が結成され、木彫りの講習会も始まった。徳川農場では檻(おり)に熊を飼って、造形の参考にさせた。八雲独自の木彫り熊を創り出そうと努めたのだ。まさにペザントアート(農村美術運動)だった。
こうして八雲の木彫り熊の特徴として、毛の流れを精密に彫りこんだ毛彫りやカットした面で造形する面彫りが登場し、バット熊、スキー熊など親しみがわく擬人化も目立った。
当初は徳川農場が買い上げ、優れた作品は徳川義親が宮家や著名人への贈り物にした。このようなバックアップもあって、戦前は木彫り熊といえば八雲というイメージが確立されたのだという。
ちなみに柳宗悦が初めて「民藝(みんげい)」の言葉を用いたのは1925年(大正14年)、民藝運動の活動母体となった日本民藝協会の設立は1934年(昭和9年)である。

こちらのスキー熊は戦後に活躍し、木彫り熊講座の講師も務めた上村信光の作品で、擬人化の伝統を引き継いでいる一例だ。

こちらも戦後の擬人化熊の一例。北海道名物のヒグマとサケを組み合わせた時、八雲ではサケを背負う姿にたどりつき、北海道土産の定番となったサケをくわえた熊には向かわなかったことは興味深い。
木取り(丸太の使い方)も八雲と他の地域では違った。八雲はスイス式、他の地域はアイヌが木から儀礼用具を作る際の伝統にならったスタイルという。八雲式では全長の長い熊を彫るには大木が必要になっただろう。
木彫り熊のレジェンドたち

戦争が激しくなると、観光どころではなく、木彫り熊は売れなくなった。それでも彫り続けたのが茂木多喜治だった。「非国民」と非難されたこともあったという。

「熊をモチーフにした芸術家」と呼ばれたのが、戦後、木彫りを再開した柴崎重行だ。手斧で荒々しくはつって(削って)作りあげたフォルムは、次第に抽象性を増していった。まるで江戸時代初期に全国を遍歴し、無数の木仏を刻んだ円空のようでもある。

盟友・柴崎重行とともに木彫り熊の芸術性を高めたのが根本勲。より単純化された面で構成された独特のフォルムが魅力的だ。

うなり声が耳をつんざきそうな迫力がある。引間二郎は交通事故で障害を負い、農業をあきらめて熊彫制作者に転身した。柴崎や根本に続く世代。彼らに学びながら、具象熊、抽象熊ともに手がけた。

3体とも加藤貞夫の作品。面彫りされた中央の座熊には、どことなく知性がにじむところが、博物館のポスターにふさわしかったのだろう。茂木多喜治の工房に通って彫り方を学び、具象も抽象もこなした。
未来につなぐ

右の這い熊も、左の吠え熊も、76歳から独学で彫り始めた鈴木吉次の作品。全体のフォルムも毛彫りのタッチも従来とは異なっていてユニークだ。
2014年、八雲町木彫り熊資料館がオープンした。同町発祥の木彫り熊の歴史を伝えていくことが目的だ。今回、紹介した木彫り熊と神棚は、新美准教授が集めた熊を除けば、同資料館の収蔵品。
ただ、同資料館学芸員の大谷茂之さんによると、現在、木彫り熊を制作し、販売までしているプロはいない。1971年から続く公民館の木彫り熊講座も、現在の講師は87歳。伝統の技を継承し、次の講師を育成することが喫緊の課題だという。
ヒグマとツキノワグマの骨格比較
最後に博物館ならではの展示で、左がヒグマ、右がツキノワグマの後ろ足(左)の骨格。ヒグマのオスは体長約2㍍、体重約400㌔、ツキノワグマのオスは体長約1・4㍍、体重約100㌔というから、骨の長さ、太さも大きく違っていることがわかる。
(読売新聞中部支社編集センター 千田龍彦)