【リポート】沖縄戦の現実、基地の島の現実 貴重な学びの場 佐喜眞美術館 《沖縄戦の図》全14部展示

《原爆の図》で知られる丸木位里(1901~1995)、丸木俊(1912~2000)が晩年に取り組んだ大作《沖縄戦の図》全14部が沖縄・佐喜眞美術館で公開されている。沖縄戦と沖縄の実相を知る上で、とても貴重な美術館だ。同館を訪ねた。(読売新聞美術展ナビ編集班・岡部匡志)

強烈なメッセージ、完成度の高さに圧倒される
凄惨な地上戦や想像を絶する集団自決があった沖縄戦をテーマとする作品に、丸木夫妻が着手したのは位里81歳、俊70歳の時だった。二人は沖縄島や慶良間諸島、伊江島、久米島などの激戦地を精力的に訪ね歩き、当時を知る人たちの証言を丹念に集め、作品作りを進めた。14作の完成に6年がかかった。

「沖縄を描くことが一番戦争を描いたことになる」(位里)、「戦争というものを簡単に考えてはいけないのです。日本が負けた、アメリカが勝ったということではなく、一番大切なものがかくされて来た、このことを知り深く掘り下げていかねばなりません」(俊)という言葉どおり、二人は並々ならぬ決意を持って沖縄に向かい合った。

その内容はもちろん衝撃的だが、芸術作品としての完成度の高さに改めて胸を打たれる。沖縄の人たちが「本土の人がなぜこんな事を知っている」と驚いたというその描写の正確さ、緊張感あふれる筆の見事な運びに、アーティストとしての志の高さを感じずにはいられない。二人には「沖縄戦の真実は映像や写真に残っていない。だから目で見えるものを残したい」という強い思いがあった。だから記録映像を思わせる作品となった。目を背けたくなるシーンも、その訴えかける力の強さで目が離せなくなる。
戻ってきた若者たちの姿
コロナ禍でとりわけ大きな痛手を受けた沖縄。以前は修学旅行のコースなどとしてにぎわっていた佐喜眞美術館も閑散とする日々が続いた。秋も後半になって、ようやく若者の姿が戻ってきたという。取材に伺った日も、早稲田大学の学生たちのグループが見学に訪れていた。

《沖縄戦の図》を沖縄に残したい、という丸木夫妻の願いを聞き、私財を投じて1994年に美術館を設立した館長の佐喜眞道夫さんが、学生たちに作品を説明してくれた。「丸木さんたちが主に描いているのは女性と子供です。弱い立場で死に追いやられました」「集団自決で、家族がお互いの首を絞めあって一緒に死のうとしてもどちらかが先に死に、一方が生き残る。生き残った人も戦後、地獄の日々を送りました」「戦争のことを勉強してください。もっと知ってください」と訴えかけた。


ゼミ仲間と訪れた早稲田大学4年、古賀大貴さん(22)は「これがリアルにあった出来事だったとは信じられない。想像するだけで怖くなる。悲惨なことであっても、現実に目を向けていくことの大切さを学びました」と話していた。学生たちを引率していた早稲田大学人間科学部の古山周太郎准教授は「コロナでずっと外に出られず、学生たちはかわいそうでした。ようやく旅行も可能になり、貴重な機会だけにやはり沖縄がいいと思いました。戦争や沖縄の現実を知る上で、この美術館の体験は欠かせません」という。

基地と境界を接する美術館
佐喜眞さんが米軍に接収されていた先祖伝来の土地を一部返還してもらい、そこに建設したのが佐喜眞美術館。このロケーションも館を訪れる人にとっては記憶に残るものになる。
作品の鑑賞を終えたあと、屋上に上がるのが定番の見学コース。沖縄戦の慰霊の日である「6月23日」から取られた6段と23段の階段を上がると屋上に出る。普天間基地の広大な敷地が視界いっぱいに広がり、そのスケールに圧倒される。この日はオスプレイの発着も頻繁に見られた。


佐喜眞館長の妻、加代子さんが「フェンスの向こうには行けません」という。仮に屋上から基地側に物を落としてしまったら、宜野湾市役所の担当課に間に入ってもらい、基地の職員に拾ってもらうのだという。
美術館の目の前は米海兵隊の管理区域。「米軍はいつも丁寧に雑草を刈っています。フェンスもちょっと壊れただけですぐに修繕。侵入者を許さないためでしょう。敷地の周りはドローンも飛ばせません」と学芸員の上間かな恵さん。様々な沖縄の現実を知ることができる美術館でもある。
《沖縄戦の図》全14部の展示は2022年2月20日(日)まで。コロナ禍が依然、厳しい情勢だが、ひとりでも多くの方に足を運んでほしい展示だ。
(読売新聞美術展ナビ編集班 岡部匡志)
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