有名画家たちが描いた「私」 新宿・中村屋サロン美術館「自身への眼差し 自画像展」 12月5日まで

岸田劉生《自画像》1913年 公益財団法人日動美術財団蔵 

明治から昭和にかけて日本の画壇を賑わせた画家たちの自画像の優品を紹介する「自身への眼差し 自画像展」が東京・新宿の中村屋サロン美術館で開かれています。写実から内面描写へと、時代とともに自画像も変わっていった様子が分かるうえ、画家の個性が作品に投影されているところにも興味を引かれます。

展覧会名:自身への眼差し 自画像展
会場:中村屋サロン美術館(東京都新宿区新宿3-26-13新宿中村屋ビル3階、電話03-5362-7508

協力:公益財団法人 日動美術財団

会期:2021915日(水)~125日(日)
休館日:火曜日
開館時間:1030分から18時(最終入館1740分)
入場料:300円。高校生以下、および障がい者と同伴者1名は証明書提示で無料。リピート割引あり。
詳しくは公式サイト
現在の新宿中村屋ビルの外観。3階に美術館がある

創業120年 食と文化の殿堂

人物画の世界に足を踏み入れる前に、新宿中村屋と芸術とのかかわりを知っておきましょう。

相馬夫妻と息子の安雄(株式会社中村屋提供)

新宿中村屋は1901(明治34)年、相馬愛蔵、黒光(こっこう)夫妻が東京・本郷の東大正門前でパン店「中村屋」を創業したのが始まりです。1909(同42)年、現在地に移転しました。

1909(明治42)年、新宿の現在地に移転した当時の中村屋(同)

関東大震災では被災者を廉価のパンとまんじゅうで助け、先の大戦の空襲で社屋が灰燼に帰したのにもめげず、今日まで名店ののれんを守ってきました。

1945(昭和20)年、空襲にあった中村屋の焼け跡

老舗のもう一つの顔

新宿中村屋と聞いて中華まんやクリームパン、カレーライスを思いだす人も多いでしょう。でもこの老舗にはもう一つ大切な顔があります。本展の会場「中村屋サロン美術館」です。

「女」を制作中の碌山(同)

碌山、彝、光太郎 次々に才能開花

相馬夫妻はそろって芸術、文化に造詣が深く、信州安曇野出身の愛蔵と同郷の彫刻家荻原守衛(碌山)や中村彝、高村光太郎、中原悌二郎、戸張孤雁、斎藤与里、柳敬助ら碌山を慕う若き芸術家たちに惜しみない支援を与えました。

彼らは足しげく中村屋に出入りし、切磋琢磨しながら次々と才能を開花させました。

絵筆を手にキャンバスに向かう中村彝(同)
ラス・ビハリ・ボース(同)
発売当初の「純印度式カリー」のセット(同)

須磨子に八重子、ボースも

相馬夫妻の交友はとどまることを知りませんでした。演劇家の松井須磨子や水谷八重子、中村屋に「純印度式カリーライス」を伝授したインド独立運動家ラス・ビハリ・ボースら多彩な人物を迎え、輪を広げていきました。

昭和初期の中村屋喫茶部インド間(同)

「ヨーロッパのサロンのよう」

この集まりを、後世、これも安曇野出身の作家臼井吉見が「ヨーロッパのサロンのようだった」と評したことがきっかけで、いつしか「中村屋サロン」という呼び名が定着したのです。

1979(昭和54)年の改装で生まれ変わった中村屋(同)

芸術振興 変わらぬ使命

現在の新宿中村屋も「芸術と文化の振興に寄与する」という相馬夫妻以来の使命を忘れず、2014年開館の「中村屋サロン美術館」を通して、ゆかりの芸術家と作品を広く紹介し続けています。

美術館入り口で来館者を迎える碌山の「女」像

1章 明治初期の画家たち-再現描写の追求-

新宿中村屋3階にある美術館の入り口

日本の自画像は幕末から

それでは「自画像展」へと進み、作品のいくつかを鑑賞しましょう。本展では明治初期から昭和にかけて活躍した画家たちの自画像40点を時代ごとに3章に分け、画家と自画像の関係性の変容を追求しています。

「自画像展」の会場

そもそも日本の自画像の起こりはいつだったのでしょうか。同館の太田美喜子学芸員に聞いてみました。

自画像について説明する太田美喜子学芸員

「自画像とは文字通り画家が自分を描いた絵を指しますが、伝統的な日本画に自画像というジャンルはありませんでした。『自分を描く』という明確な意図のもとで描かれた絵が最初に登場するのは幕末になってから。明治に入ると美術学校で西洋式の人体デッサンを学べるようになり、多くの自画像が描かれ始めたのです」。太田さんは丁寧に説明してくれました。

鹿子木孟郎《自画像》1928年 公益財団法人日動美術財団蔵

信念と師への尊敬

最初に出迎えてくれたのは鹿子木孟郎(18741941)です。鹿子木は3回パリに渡り、美術学校アカデミー・ジュリアンで歴史画家のジャン=ポール・ローランスからアカデミックな絵画教育を受けました。

「この時代の画家の多くは、現実のありのままをとらえる自然主義的技法による再現描写を探求しました。鹿子木は尊敬する師ローランスの絵画に通じる重厚な画面に仕上げています」

太田さんの解説を参考に絵を見てみましょう。強い視線と固い表情に「絵とはこういうものだ」という信念がくみ取れ、全体的にフランスの歴史画のような重々しさを感じます。

満谷国四郎《自画像》1933年 公益財団法人日動美術財団蔵

重厚さからの解放

鹿子木のすぐ隣に満谷国四郎(18741936)の自画像が並んでいます。満谷も鹿子木と共にパリに渡り、ローランスに師事しました。こちらも再現描写ですが、背景は乳白色で明るく、服装や表情からも柔らかい印象を受けます。

ふと「二人ともローランスの弟子なのに、なぜこうも絵が違うのか」と漏らすと、太田さんが「満谷はローランスに学んだものの、ポスト印象派に惹かれ、晩年は東洋画にも着目しました。重厚さからわが身を解放したのです」と教えてくれました。

画家との無言の対話

このころはまだカメラは普及していませんでした。画家は鏡に映る自分を見て自画像を描きました。

太田さんは「自画像を描く時、多くの画家は鏡を使用します。なので、私たちは絵の中の画家と目が合うのです。画家は鏡を通した自分の目から、感情を読み取ってキャンバスに写しとっています。そして展覧会場では、絵を見る人が絵の中の画家と無言の対話を交わすわけです」と自画像を見る面白さを語ってくれました。

なるほど画家との対話か。よし、もう一度、鹿子木、満谷の2人と話してみよう。すると、さっそく絵の中の鹿子木に詰問されました。「まず聞くが、君は絵をじゅうぶん学んだうえでここに来たのかね」「いいえ。とても『はい』などとは言えません」

鹿子木の前に立つと、子どもの頃、成績と素行不良で校長に呼び出されたような気になります。早々に辞して満谷に移ります。

「絵を眺めるのにそう固くなる必要はないさ。思うまま感想を述べてもらってけっこうだよ」「満谷画伯、ありがとうございます。リラックスして次の絵に進もうと思います」

皆さん、後はご自由に絵の中の画家と対話してください。

2章 明治中期・後期の画家たち -自己の内面の表現-

岸田劉生《自画像》1913年 公益財団法人 日動美術財団蔵

写真ではできない表現

明治中期になると自画像にも変化が見られ、画家は自己の内面を表現し始めます。さらに写真が普及してくると、「写真ではできない表現」を絵画に求めるようになりました。

上の写真は岸田劉生の自画像です。岸田は同じく本展で紹介されている高村光太郎、斎藤与里らとともに「ヒューザン(のちフューザン)会」の結成に加わりました。

挑戦状のようなもの

当時の日本の画家は第1章で見たようにアカデミズムな表現を範としてきましたが、岸田らはそれに染まらず、ポスト印象派やフォーヴィスムに影響を受け、単純化された造形や力強い筆致など主観を打ち出した表現主義的な創作に走りました。

絵から発する岸田の強い視線は周囲を睥睨するかのようです。首は太く、口元も固く締めています。意思が強そうで、近寄りがたい雰囲気です。

太田さんは言います。「会は彼らの研究と発表の舞台でしたが、そうした活動は当時の日本洋画界に挑戦状をつきつけたようなものでした」

「妥協はしない」

革新の風をもたらすはずの会も岸田と斎藤との意見の相違から、わずか1年、2回の展覧会を開催しただけで解散してしまいます。太田さんは「彼は自信家で社交的ではありませんでした。絵にもそんな性格の一面がにじみ出ています」とも。

たしかに岸田は「俺は誰が相手でも妥協などしないぞ」と宣言しているかに見えます。

高村光太郎《自画像》1913年 株式会社中村屋蔵

セザンヌ、ゴッホの影響

2章からもう一人、彫刻家でもあった高村光太郎(18831956)を取り上げます。この絵は彫刻の勉強のための欧米留学から帰国後、油絵に注力した時期に描かれました。

太田さんの解説は「筆致を大胆に残し、絵の具を厚く塗り重ねています。背景のブルーはセザンヌ的で、筆致はゴッホの影響が見て取れます」。

顔は内面を物語る

高村も岸田と同様、こちらを凝視しています。高村は著作の中で『顔ほど微妙に其人の内面を語るものはない。性情から、人格から、生活から、精神の高低から、叡智の明暗から何から何まで顔に描かれる』と述べています。彼は岸田と同じく旧来の絵画会に批判的で、ヒューザン会に加わりました。そういう高村のとんがった時代の内面があふれ出たのかもしれません。

2章では他に北川民次、佐伯祐三、斎藤与里、中村彝らの作品を紹介しています。

北川民次《画家の肖像》1931年 公益財団法人日動美術財団蔵
佐伯祐三「自画像」1917年 公益財団法人日動美術財団蔵
斎藤与里《自画像》1929年 公益財団法人日動美術財団蔵
中村彝《麦藁帽子の自画像》1911年 株式会社中村屋蔵

3章 大正・昭和の画家たち-公と個の間、関係性の中の自己認識-

戦争の影 生への希求

画家が絵で自身の内面を表現し、写真にはない絵だけの可能性を求める流れが生まれる中で、1920(大正9)年頃から抽象表現が試みられるようになります。しかし、戦時色が濃くなると思想・表現は制限され、画家も戦争への協力を強いられるようになりました。

「公あって個なし。統制あって自由無し」という軍国の時代を通過した画家たちの生きることへの希求と虚無感の深さは自画像にも映し出されています。

 虚無感 死への願望

太田さんがその例に鴨居玲(19281985)を挙げました。これまで見てきた自画像と全く違う印象です。半開きの口が発しているのは苦悩でしょうか、それとも言葉にならないうめき声でしょうか。身体全体も弛緩し、立っているのすら億劫な様子です。まるで亡霊と相対しているみたいです。こちらの精気を吸い取られてしまいそうです。

太田さんは「画面全体が虚無感に支配されています。死への願望を感じます」。実際、鴨居は何度も自死を試みます。それを考えると、ポケットに手を突っ込んでいるかっこうは鴨居の「過去、現在、未来を一切拒否する」というダイイング・メッセージとも受け取れます。

あふれる猫愛 自己を投影

遠藤彰子(74)にも関心が向きました。猫に囲まれ、幸せそうな遠藤画伯です。優しい笑みが浮かんでいます。

「見てお分かりの通り、作者はとても猫好きです。自分以上に愛情たっぷりに猫を描いています」。そう話す太田さんの表情まで柔らかくなっていました。「自分よりもむしろ猫の方が細かく描かれています」。

視線も胸に抱いた猫に向けられ、話す相手も猫のようです。遠藤画伯と猫の会話の中に見る者が誘われます。

自作の前で笑顔を見せる遠藤彰子画伯(平塚市美術館で)

自分を見つめ、世界観を表現する

遠藤画伯は画壇で活躍中の画家です。ちょっと中村屋サロン美術館を抜け出し、本人に自画像についてインタビューしてみましょう。向かった先は神奈川・平塚市美術館。遠藤画伯の個展会場です(「物語る 遠藤彰子展」 1212日まで)。

最初の質問は「大変な猫好きのようですが、家では絵のようにたくさんの猫を飼っているのですか」。すると、意外な答えが返ってきました。「いいえ。飼っているのは1匹です」。

では、描かれた多くの猫は? 「この子たちは私が小さい時から飼ってきた猫です。母親が猫好きだったせいもあり、私も猫好き。子供の時分から私の傍らにずっと猫がいました。やんちゃだったりおとなしかったり、観察が鋭かったり。絵の中の猫はどれも性格は違います。母の思い出が詰まった猫もいます。そんな猫たちへの思いを込めて描きました」。

他の画家の自画像とはだいぶ印象が違う点を尋ねると、「画家は自画像の制作を通し、自分を見つめます。自分を見つめるからこそ、自分の世界観を表現できるのです。絵は常識にとらわれる必要はありません。私はイメージを大事にします。絵の中の猫もイメージで描きました。自分なりの自画像を追求したのです」と話してくれました。

遠藤画伯。よくわかりました。ありがとうございました。さあ、中村屋サロン美術館に戻りましょう。

たくさんの物や動物、特定の場

「近年の自画像は画面にたくさんの物や動物、人を描きこみ、特定の場を設定することが特徴の一つに挙げられます。それが画家の自己像を表す手段になっているのかもしれません」。遠藤画伯ら、第3章の自画像を見ながら聞いた太田さんのこの言葉に、改めて納得させられました。

3章では他に木村忠太、古沢岩美、城戸義郎らの作品がご覧になれます。

木村忠太《自画像》1974年 公益財団法人日動美術財団蔵
古沢岩美《夜の自画像》1978年 公益財団法人日動美術財団蔵
城戸義郎《画家の部屋Ⅱ》制作年不詳 公益財団法人日動美術財団蔵

本展ではほかにもたくさん自画像が展示されています。皆さんも会場に足を運び、画家たちとの対話を楽しんでください。(ライター・遠藤雅也)