【レビュー】柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」東京国立近代美術館 これまでの展覧会とは異なるアプローチで

柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」が東京国立近代美術館(東京・竹橋)で始まりました。前期(〜12月19日)・後期(12月21日〜)で染織品を中心に展示替えをはさみ、2022年2月13日まで開かれています。陶磁器や染織、木工、編組品などの暮らしの道具類や大津絵などの民画、出版物、写真、映像等の同時代資料など、総数450点超にものぼる展示は見ごたえたっぷりです。
近代美術館ならではの民藝展
「民藝」とは「民衆的工芸」の略語。柳宗悦や濱田庄司、河井寬次郎らは、無名の職人による暮らしに息づく道具類を「民藝」と名付け、そこに美を見出しました。
これまでも民藝に関する展覧会は数多く開催されてきましたが、本展がそれらと一線を画すのが、その展示スタイルです。日本民藝館をはじめ多くの民藝の展示では、「直下(じきげ)に見よ」という柳の言葉があるように、解説は最小限に、ものそのものに焦点を当てて紹介するのが主流。一方、本展ではあえてその逆を行き、解説とともに当時の出版物や写真、映像などの資料もふんだんに交えて展観し、民藝があゆんできた時代の社会情勢や価値観など、ものの向こう側にある背景までをも浮かび上がらせています。
さらに本展では、近代美術館にしかできないことを目指し、「民藝を柳の思想の結晶と見るのではなく、近代の実践的な活動として3つの手法でとらえなおすことにしました」と、本展担当の花井久穂学芸員は話します。
その3つの手法とは、民藝をモダンな文脈の中で生まれたものとして「近代100年」という歴史の中で位置づけること、ローカルなネットワークと共に展開した社会運動としてとらえること、そして「出版」「美術館」「流通」と3つのメディアを駆使した「編集」の手法に注目することだといいます。

1910年代から1970年代までの民藝の動向を、ゆるやかな時系列に沿って全6章で見せていく本展。前述の3つの手法が光る見どころを中心に見ていきましょう。
ロダンへの敬愛のまなざしが導いた陶磁器との出会い
「モダン」とは真逆のイメージがある民藝ですが、本展は始まりからして、民藝がモダンな流れを汲んでいることを明示しているのが印象的です。
民藝運動を牽引した柳は、1910年に創刊された文芸雑誌『白樺』の最年少同人。同誌の活動を通じて西洋美術にいち早く触れ、西洋の芸術思潮を日本に紹介しています。なかでも、『白樺』同人たちが敬愛してやまなかったのが「近代彫刻の父」ロダンでした。1910年11月にはロダン70歳の誕生日を記念して「ロダン特集」と銘打った特集号を発行。その際ロダン自身と書簡でのやりとりをするなかで、柳らのもとにロダンから3体のブロンズ像が送られてきます。

ロダンのブロンズ像を一目見ようと柳邸を訪れた浅川伯教(のりたか)が持参したのが、この朝鮮の壺でした。この出会いをきっかけに柳は陶磁器の美に引き込まれ、民藝的なものに目覚めていきます。

朝鮮の陶磁器に魅了された柳は、朝鮮民族美術館の開館(1924年)に先駆けて、李朝陶磁器展覧会を1922年に開催。展覧会の目玉であった3つの壺がそろって展示されるのは、その時以来およそ100年ぶりとなります。

内と外に目を向けて形作られていった「民藝」
「民藝」という言葉が生まれたのは、1925年の暮れのこと。河井、濱田らと木喰仏の調査で全国を巡っていたときのことでした。
すでに京都の朝市などで「下手物(げてもの)」と呼ばれる民衆の雑器を集め始めていた三人は、下手物の多くに自然から生み出された健康で素朴な美を見出していました。そこで、日本各地にある民衆的かつ郷土色のある工芸を蒐集し、「民藝」と名付け、展覧会や出版物、美術館を通して、この新たな美を広く伝えることを目指したのです。

同じく1920年代、柳らは日本だけでなく欧米も周遊。英国のウィンザーチェアなどの家具やスリップウェアなどの陶器類も蒐集しました。国内だけでなく、西洋の手仕事にも目を向けて「民藝」というものを形作っていったことがよくわかります。



見せ方の妙
こうして蒐集した民藝の数々を、柳はより魅力的に見せることに長けていました。
民藝を広く伝えるためのメディアとして、柳ら創設メンバーによって1931年に創刊された雑誌『工藝』は、雑誌そのものが工芸品であるかのような仕上がり。布表紙にしたり、用紙には和紙を使用したりと、かなり凝っています。

初年度の装幀を担当した染色家・芹沢銈介の提案で、1年分12冊の『工藝』を収められる帙(ちつ)も制作されました。民藝を紹介するメディア自体に付加価値をつけることで民藝の価値をも上げる。今でいう「ブランディング」の一種だったといえます。

『工藝』をはじめとする出版物の中で、柳が重視していたのが写真図版でした。民藝の品々の「美しい」と感じた部分を切り取るようにトリミングして掲載することもしばしば。
例えば、この江戸時代の革羽織。図版として掲載する際には、全体像ではなく、網目文にクローズアップした写真になっています。


「見せ方」を追究し、そのもの自体が持つ魅力を引き出すという意味では、時に柳はデザイナーとしての顔も覗かせています。
江戸時代の庶民絵画である大津絵を「民画」と名づけ蒐集した柳は、格子柄の裂を多用した表装を施し、その見せ方を変えました。柳によれば、表装は作品に用いられる色と表具の色を合わせるのがポイントとのこと。柳のお気に入りであった古い丹波布も表具裂としてたびたび使われています。

新たに発見された朝鮮の《牡丹図》とその表装指示書からは、デザイナー柳の細かな指示が見て取れます。表装される前の状態で展示されるのは、今回のみとなるかもしれないそうなので、この貴重な姿をどうぞお見逃しなく。

1930年代に入ると、江戸時代のものを中心に行ってきた蒐集活動は、過去から現在の手仕事へとシフトしていきます。その集大成として柳が染色家の芹沢銈介に制作を依頼したのが≪日本民藝地図(現在之日本民藝)≫(1941年、日本民藝館蔵)でした。

多様な日本の民藝の姿を「地図」としてビジュアルで見せたのも、柳の編集力の賜物といえるでしょう。全長13メートル超の本作がこうして一括展示されるのはめったにないこと。和紙や民窯、染織などの多彩な民藝の数々が各地に散らばっていることが一目でよくわかります。
民藝はアップデートする
かたや、柳らは民藝の蒐集・紹介のみならず、新しい民藝を作っていくことも視野に入れていました。1927年には、柳を指導者に若い作り手たちから成る「上加茂民藝協團」が結成され、濱田や河井らとともに新作民藝を博覧会の場を中心に発表していきます。民藝を過去のものとしてではなく、いつの時代の暮らしにもあるべきものとして見ていたと同時に、民藝は時代とともにアップデートしていくものであるという認識があったのでしょう。
画期的だったのは、新作民藝をただ発表するのではなく、その生産から流通までを担ったことです。なかでも大きく貢献したのが、鳥取の耳鼻科医・吉田璋也でした。自らを「民藝のプロデューサー」と名乗った吉田の功績は、本展の中でも際立っています。
1931年から、吉田は地元で江戸末期から続く牛ノ戸窯と共同で、現代の生活になじむ日常使いの器づくりに取り組みました。こうして出来上がった黒と緑に掛け分られたモダンな器は、新作民藝のアイコン的存在でもあります。

器のほかにも、椅子をはじめとする木工家具や名産のイカの墨を原料にしたセピア色のインクなどの製品開発も手掛けました。特に、屑繭で紡いだ「ににぐり糸」を使ったネクタイは類似品が出回るほどの人気商品に。売り物にはならない屑繭を有効活用するだけでなく、農家の女性の副業として生活を支えました。

さらに吉田はデザイン指導などの生産面だけでなく、流通面でもプロデューサーとしての手腕を発揮します。1932年には鳥取市内に「たくみ工藝店」をオープン。翌年には東京・西銀座にも支店を開き、新作民藝の安定した販路となりました。
吉田が土地に根ざした存在だったからこそ、地元の工人たちをも巻き込む推進力もあったのでしょう。民藝運動に関わったのは、主に濱田や河井のような技師たちのほか、吉田のような地域の文化的エリートであった医師たちでした。彼らによってローカルなネットワークを築くことができたのは、民藝にとって大きな財産だったに違いありません。
なぜ、いま「民藝」なのか
民藝運動は、新たな美を提示するだけでなく、より良い生活とは何かを常に問いかけてきました。
物も情報も豊かになった現代ですが、経済成長が豊かさの象徴であった時代は終わりつつあります。新しい時代における真の豊かさとは何か。私たちはその答えを民藝に宿る精神性や持続可能性に求めているのかもしれません。
民藝のあゆみを辿りながら、そんなことを考えさせられる展覧会でした。
ぜひみなさんもさまざまな思いを巡らせてみてください。
(ライター・岩本恵美)
柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」 |
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会期:2021年10月26日(火)~2022年2月13日(日)*会期中一部展示替えあり |
会場:東京国立近代美術館(東京都千代田区北の丸公園3-1) |
開館時間:10:00~17:00(金・土曜日は10:00~20:00)※入館は閉館の30分前まで |
観覧料:一般1800円、大学生1200円、高校生700円、中学生以下無料 |
休館日:月曜(ただし1月10日(月・祝)は開館)、年末年始(12月28日(火)~1月1日(土・祝)と1月11日(火) |
東京メトロ東西線竹橋駅 1b出口より徒歩3分 |
詳しくは展覧会公式サイトへ |