【レビュー】緻密な絵と構成が誘う不思議な読後感 「描くひと 谷口ジロー展」 世田谷文学館(東京・世田谷)で始まる

『歩くひと』(左)と『孤独のグルメ』の原画のパネル

近年『孤独のグルメ』や『歩くひと』がテレビドラマ化され、注目を集めている漫画家・谷口ジロー(1947-2017)。自筆原画など約300点で谷口の世界を紹介する展覧会が世田谷文学館で始まった。緻密な作画や構成によって描き出される谷口の世界は多くのファンを持ち、日本のマンガ文化の成熟を象徴する存在として海外からも高い評価を得ている。開幕に先立って開かれた内覧会に行って来た。

描くひと 谷口ジロー展
会期:2021年10月16日(土)~2022年2月27日(日)
会場:世田谷文学館(東京・世田谷)2階展示室
開館時間:午前10時00分~午後6時00分(入場は午後5時30分まで)
混雑時は入場制限あり
入館料:一般900円ほか
休館日:月曜日(月曜が祝日の場合は開館し、翌平日に休館)、年末年始(12月29日-2022年1月3日)
京王線「芦花公園」駅より徒歩5分。小田急線「千歳船橋」駅より京王バス「芦花恒春園」下車徒歩5分
詳しくは同文学館ホームページ

展示はプロローグ、年代順の六つの章、特設コーナー、エピローグからなる。変わっていく画風、変わらない姿勢。昔読んだ漫画を改めて見ても、全身に沁みてくる不思議な読後感。ファン必見の展示を章ごとに追ってみる。

1章 漫画家への道のり

「声にならない鳥のうた」(右下)の原画や初期絵本

谷口は20歳の時に漫画家を志して上京、動物漫画で知られる石川球太のアシスタントとなる。70年に『声にならない鳥のうた』を発表、71年には『れた部屋』が「ヤングコミック」に掲載され漫画誌デビューを果たす。その後「昭和の絵師」と呼ばれた上村一夫のアシスタントとなる。『声にならない鳥のうた』を見ると谷口の画風とはかなり異なる印象を受けるが、絵本の絵などはその後の谷口の緻密な描写の片鱗がうかがえる

270年代~80年代 共作者・原作者とともに時代の空気を描く

『事件屋稼業』の原画

 

『迷子通りのレストラン』の原画

77年に関川夏央との共作を始める。同年代の原作者との共同作業は数々の傑作を生み出していくことになる。79年『事件屋稼業』がスタート。断続的に90年代まで続くロングランとなる。ハードボイルド小説全盛の当時、記者もレイモンド・チャンドラー、ミッキー・スピレインといったアメリカの作家や、日本の探偵小説をむさぼり読んだ。谷口の絵はハードボイルド小説の雰囲気と時代の空気そのものを鮮やかに描いていて、今見ても当時の気分が蘇ってくる。関川とやり取りしたファックスのコピーも展示されており興味深い。矢作俊彦作で名無しの探偵を主人公にした『マンハッタン・オプ』の挿絵原画も。

『青の戦士』の原画とパネル

80年にやはり同年代の狩撫麻礼かりぶまれい原作の、ボクシングを題材とした『青の戦士』がスタートする。青年コミック誌に掲載された谷口の漫画は、少年誌のような成長譚ではない人間そのものの陰影や、戦いの一瞬を切り取った迫力を感じる。ハードボイルドものとともに当時の青年の共感を得た理由が分かる。絵にも変化が現れ、谷口らしいタッチへと変わっていく。

380年代 動物・自然をモチーフに拡がる表現

『ブランカ』(右)と『地球氷解事紀』の展示

82年になると初のオリジナル長編『ブランカ』の連載が始まる。遺伝子操作で兵器とされた軍用犬ブランカが、シベリアからベーリング海峡を渡り、元の飼い主の住むニューヨークを目指すという物語。人間の勝手で自然が歪められていくという、谷口がその後持ち続けたテーマの最初の作品。東西冷戦下で軍用犬という存在も生々しく、さらに遺伝子操作という当時の最先端の科学を取り入れた作品は今見ても斬新だ。『地球氷解事紀』は地球の未来を舞台にしたSF長編。

『「坊っちゃん」の時代』5部作コーナー

関川のシナリオで、明治という時代を生きた人の精神や思想を描いた、漱石(第1部『「坊っちゃん」の時代』)、鷗外(2部『秋の舞姫』)、啄木(3部『かの蒼空に』)、秋水(4部『明治流星雨』)、漱石(5部『不機嫌亭漱石』の5部作。設定やセリフは関川のシナリオに忠実に添っている。関川のシナリオも展示されているので、どう作画に反映しているか見るのも面白い。谷口の描く線も変化してきている。特に家々の屋根は秀逸で関川も驚いたと言う。おそらく写真などを基に描いているのだが、空間認知能力に富んでいたようで写真から立体を正確に認識でき作画に反映させている。目の前に、あるいは写真に写っているものをそのまま描いたようにしか見えない。風俗、街並みがリアルに描かれているのだが、これも注意して見ると遠近法など巧みに使って、いかにも実際の風景のように描いている。

第2部『秋の舞姫』の原画

 

490年代 多彩な作品、これまでにない漫画に挑む

『歩く人』の原画

「漫画にならないものは無い」と言った谷口は90年代、多彩な作品を次々に生み出す。テレビドラマ化された『歩くひと』はほとんどセリフが無い。主人公の表情や風景で話が作られている。会場には四つの話の原画が並ぶ。テレビドラマでもセリフは少ないが、展示された漫画ではまったく無い。それでも心に沁みてくるものがあり、満ち足りた読後感があるから不思議だ。この時代『犬を飼う』や『欅の木』、『孤独のグルメ』なども制作している。谷口の作品では風景は単なる背景ではない。岩の質感、海の色の濃淡、空の深さ、街の看板など緻密に描き込まれた素材が物語の重要な役目を負い、視覚・嗅覚・触覚・味覚すべての感覚を楽しませてくれる。

52000年代 高まる評価、深化する表現

『センセイの鞄』(右端)などの展示

2000年代に入ると海外での評価が一気に高まり、フランスやスペイン、イタリア、ドイツ、韓国などの漫画祭などで次々と賞を受賞する。日本ではあまり評価の対象とされない「大人の視線」が、知的な読者向けの漫画として国際的に評価されていると言える。漫画批評家の夏目房之介は「谷口ジローはもっともっと評価されなきゃいけない(中略) 世界の大人向け作家として」と、展示に推薦文を寄せている。

『神々の山嶺』の展示

『神々の山嶺いただき』は夢枕獏の小説の漫画化で、エベレスト初登攀の謎とクライマーの生き様を描いている。本人は登山をしないのだが、岩の質感や登攀場面のリアリティーは登山家たちも感心したという。『センセイの鞄』では原作者の川上弘美に、登場人物のツキコさんの部屋の構造が「読んでから、そうかって(分かった)」言わせている。この章では『父の暦』や『遥かな町へ』などの原画も展示されている。

6  2010年代 自由な眼、巧みな手。さらに新しい一歩を

『ふらり。』の原画

『ふらり。』は2010年に連載が始まった、伊能忠敬をモデルにした江戸版の『歩くひと』とも言える作品。ここでも新たな描写を模索し、アリやトビの目を借りて地面からや空から江戸を眺める手法を取り入れている。このころから海外や日本でも谷口作品の映像化が増える。テレビドラマで谷口の名前を知った人も多いかもしれないが、ぜひ漫画を見てほしい。

エピローグ 最後まで「描くひと」として

闘病期間中に描き始め、全5章のうち1章のみ完成した『光年の森』、内田百閒の短編小説が原作で20ページまで描き進めた『いざなうもの その壱 花火』などを展示。さらに新しい描写を目指した谷口の強さが見える。

 

同時期開催

「世田谷文学館開館25周年記念 セタブン大コレクション展 PART1 ふかくこの生を愛すべし」1016()2022331()

作家の自筆原稿や創作ノート、書画、手紙、書籍、雑誌、文具などの愛用品等々、文学館が収集した10万点に及ぶ資料の中から特色のあるコレクションを紹介する。漱石、鷗外の書など、谷口ジロー「『坊っちゃん』の時代」に寄せたコーナーも開設。

 

(読売新聞事業局美術展ナビ編集班・秋山公哉)