【寄稿】義元左文字と桶狭間の戦い 信長はなぜ勝てたのか?六角氏の加勢の新史料  

9月15日に開幕した「刀剣 もののふの心」(サントリー美術館)では、数々の名刀が展示されています(10月31日まで)。中でも「名物義元左文字めいぶつよしもとさもんじ」(建勲たけいさお神社蔵)は、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元から奪った歴史的な刀剣として知られています。近年研究が進む桶狭間の戦いについて、名古屋城調査研究センターの原史彦主査(近世武家文化等に関する調査研究担当)に寄稿してもらいました。

桶狭間での乱戦

「乱れかゝってしのぎをけづり、つばをわり、火花をちらし火焔かえんをふらす。」まるで現代小説のような言い回しですが、織田信長の配下・太田牛一おおたうしかず著『信長しんちょう公記こうき』に記された桶狭間合戦の乱戦状況を説明するくだりです。

桶狭間古戦場公園の今川義元と織田信長の銅像(名古屋市緑区) 原史彦撮影

永禄3年(1560)5月19日、現在の愛知県名古屋市緑区・豊明市付近で、2万5千人から5万人ともいわれる今川義元の大軍を、尾張国北部を固めたばかりでわずか2千人ほどしか動員できない織田信長が奇襲攻撃で打ち破り、義元の首をあげるという予想外の展開は、信長の生涯を語る上で欠かせない逸話として、広く知られています。冒頭の表現は、その劇的な戦を象徴するにふさわしい言葉であり、まさに狂気に満ちた臨場感が伝わってきます。

重要文化財 刀 金象嵌銘 永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀/織田尾張守信長(名物義元左文字) 南北朝時代 14世紀 建勲神社蔵 (「刀剣 もののふの心」展の内覧会で美術展ナビ撮影)

この戦いにおいて信長は、「義元不断ふだんさゝれたる秘蔵の名誉の左文字の刀めし上けられ、何ケ度なんかどもきらせられ、信長不断さゝせられそうろうなり。」と『信長公記』に記されるように、義元秘蔵の左文字の刀を戦利品として確保し、自分の佩刀はいとうにしました。それが、現在、京都・建勲神社に納められている重要文化財「刀 金象嵌銘きんぞうがんめい 永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀よしもとうちとるときかのしょじがたな 織田尾張守おわりのかみ信長(名物義元左文字)」です。長々とした金象嵌銘は、信長によって入れられたとされ、桶狭間合戦での戦利品であることを高らかに誇っています。

刀工集団「左文字」

この刀は筑前国(現・福岡県)で14世紀初頭に全盛を誇った刀工集団・左文字一派による作品で、本来はなかごと称される持ち手部分に「左」の文字を入れて作者表記としますが、義元左文字は新たな所有者が使用しやすいように短く切り詰められたことで、「左」の文字を入れた部分は失われています。しかしながら、刀の身は広く厚く南北朝時代の豪壮な造りをみせ、名工集団と評価される左文字一派の名刀であることは疑いありません。

名刀であるがゆえに、義元が所持する以前は、畿内で勢力を誇った三好政長みよしまさなが宗三そうさん)が所持し、武田信玄の父・信虎のぶとらへ贈られた後、信虎の娘が義元に嫁いだ際に今川家へもたらされたという由緒も伝わっており、当初の所有者にちなんで「三好左文字みよしさもんじ」・「宗三左文字そうさんさもんじ」とも称されています。信長歿後は豊臣秀吉・秀頼ひでよりを経て徳川家康が所持し、徳川将軍家に代々伝えられました。明治維新後、明治天皇によって京都船岡山ふなおかやまに信長を祀る建勲神社が創建された際、徳川宗家16代を継いだ徳川家達いえさとより奉納されて現在にいたります。

ただし、この伝来由緒について、三好政長(宗三)が贈った刀と義元左文字が同一であるのか、そもそも『信長公記』に記されている刀が現存しているのか、といった疑問は以前より出されています。しかし、重要なのは桶狭間合戦の戦利品との認識の下に、徳川将軍家によって大切に伝えられたという事実と、刀剣本来の価値であり、本稿では伝来由緒の真偽は問いません。

明治時代に徳川家達によってあつらえられた名物義元左文字の箱(「刀剣 もののふの心」展の内覧会で美術展ナビ撮影)

10倍~20倍の敵を破ることは可能か

さて、その桶狭間合戦ですが、冒頭で書いた戦の概略は、巷間こうかんに流布する一般的な解釈、いうなれば後世の人間によって脚色・加味された情報を多分に含んでいます。果たして10倍以上ないし20倍もの敵を、いくら奇襲とはいえ破ることは可能なのか。それ以前に、尾張半国を支配下に置くそれなりの勢力を持つ信長が、隣国の侵攻によって一瞬にして滅亡の危機に立たされるほど脆弱なのか、信長が瀕死状態に陥ったならば、なぜ敵対していた美濃国の斎藤家は尾張に侵攻にしなかったのか等、数々の疑問が生じます。もとより、桶狭間合戦は、信長にとって予想外の事態だったのかも考え直す必要があります。

『信長公記』には、桶狭間合戦に至る経緯も語られているため、今川方が一方的に尾張に侵攻したのではなく、今川方の鳴海なるみ城・大高おおだか城が信長方によって包囲されたことが合戦の原因だったと判ります。

鳴海城跡の主郭北西部・西堀跡(愛知県名古屋市緑区) 原史彦撮影

信長が家督を継いだ際、鳴海城主は今川方に寝返りましたが、この時点ではまだ織田家をまとめきれない信長は、これに対応することが出来ませんでした。その後、信長は勢力を拡大し、合戦の前年に尾張国北部をほぼ支配下に置いて背後の脅威を取り除いたことで、ようやく積年の課題だった鳴海方面の攻略にとりかかります。鳴海城・大高城の周囲にとりでを築いて本格的に両城の奪還に取り掛かったわけです。この事態は今川方にとっては領地侵犯行為にあたるため、当然、両城を救援する軍勢を動かすことになります。

大高城跡の二の郭西堀・二の郭西切岸(愛知県名古屋市緑区) 原史彦撮影

信長は自分で今川方に戦を仕掛けたわけですから、その侵攻時期や動員数も予測できていたはずです。当時、今川方が桶狭間に展開できる実際の人数は5千人程とされており、信長もそのように見積もったはずです。それでも信長勢2千人よりは倍以上の人数となりますが、この人数は信長直属の部隊数と考えるべきで、与力よりきしたと思われる諸勢力も別に存在していたとみるべきでしょう。このことを推測させる興味深い史料が、桶狭間の地元に伝わっています。

信長に六角氏が加勢の史料

桶狭間で今も今川義元の菩提を弔う長福寺ちょうふくじに、「桶狭間合戦おけはざまかっせん戦死者書上せんししゃかきあげ」という記録が伝わっています。江戸末期頃に書かれた史料で、あくまでも地元伝承の記録ではありますが、ここには今川方の死者2753人に対して、「信長勢討死うちじに」は990人余と記されています。信長勢の動員が2千人程度ならば、半数が討死したことになり、重傷者を含む怪我人も加えれば、信長勢の被害はほぼ壊滅に近い状態になってしまいます。興味深いのはこの死者の中に「近江国おうみのくに佐々木方加勢ささきがたかぜい」として272人が含まれているという記述です。「近江国佐々木方」とは六角ろっかく氏のことで、信長方の戦死者に六角氏の援軍の数も含まれているという見解は、これまでの通説を大きく変える内容であることは言うまでもありません。

長福寺の山門(名古屋市緑区) 原史彦撮影

この記述を裏付けるように、長福寺には今川方の武将・渡邊玄番尉わたなべげんばのじょうが討ち取ったとされる六角氏援軍武将所用の「佐々木形」のあぶみも伝わっています。鐙の奉納記録には桶狭間合戦に六角氏は1500人の軍勢を援軍として送ったことも記されている他、江戸時代に刊行された『三河後風土記』にも2300人余の援軍があったと書かれています。しかし、いずれも後世の記録のため、その信憑性には疑問符がつくものの、当時の記録である「六角承禎ろっかくじょうてい条書写じょうしょうつし」(滋賀県草津市蔵)には、桶狭間合戦当時、織田家と六角家とは連携関係にあったことを示す記述がみられます。

長福寺の首検証跡と供養碑(左)原史彦撮影

尾張・近江・越前 3国の「良好」な関係

「六角承禎条書写」は、六角義賢よしかた(承禎)が、子の義弼よしすけ(後の義治よしはる)の重臣に対して送った怒りの書状の写しで、義弼が美濃の斎藤義龍たつおきの娘をめとり斎藤家と同盟を結ぶことに強く反対する内容が書かれています。もし六角家が斎藤家と同盟することになったならば、越前の朝倉義景よしかげと信長との三者によって、斎藤義龍の父・道三によって追放された美濃国守護・土岐とき頼芸よりのり(よりあき)の弟・揖斐いび五郎ごろう光親みつちかを美濃へ戻し、土岐家を再興する計画が頓挫とんざしてしまうというのが、反対理由です。この記録の原本は、桶狭間合戦の2か月後の永禄3年7月20日付けであるため、まさに合戦勃発時、信長と近江六角氏・越前朝倉氏は良好な関係だったことを裏付けます。

六角氏の居城だった観音寺城跡の伝池田丸南下郭大石垣(滋賀県近江八幡市) 原史彦撮影
土岐氏が斎藤道三に攻め滅ぼされた城とされている大桑(おおが)城跡の伝台所郭北西腰郭石垣(岐阜県山県市) 原史彦撮影

桶狭間合戦時、六角氏から2千人規模の援軍が送られ、他の与力衆の数を含めれば、信長方も5千人近くの人数となり、今川方動員数と対等となります。美濃の斎藤家が尾張に侵攻しなかったのも、越前朝倉家が背後から牽制していたと仮定するならば得心とくしんがいきます。合戦の前夜、方針を示さない信長に対して家老衆は「智慧ちえの鏡も曇る」と嘆いたことが『信長公記』に書かれていますが、この言葉は信長のことを「智慧」のある人間と評価していたことの裏返しであり、一般に言われているように「うつけ」と見下されていたわけでは無いことを物語っています。家老衆は、鳴海城・大高城奪還に、六角氏・朝倉氏を動かし、今川義元と対等の勢力を築き上げた信長に、常人には無い「智慧」を感じたと考えるのは推測が過ぎるでしょうか。

こういった記録から、桶狭間合戦は信長による一か八かの博打ばくち戦ではなく、周辺勢力を巻き込んで周到に準備された大局たいきょく戦であった可能性が指摘できます。少なくとも今川義元に一方的に攻められ、苦悶くもんする信長という映像は改めるべきかもしれません。

信長があらかじめ義元討死まで想定していたとは思えませんが、大局的戦略を描いた末の結果ならば、義元秘蔵の左文字の取得は、信長にとって望外の喜びだったでしょう。桶狭間合戦で義元左文字が信長の手に渡ったという戦果は、武家にとっての憧れでもあり、徳川将軍家が江戸時代を通じて手放すことなく代々継承したのも、名刀であること以上に武門の誉れとする意識があったからかもしれません。

原史彦 名古屋城調査研究センター主査(近世武家文化等に関する調査研究担当)。江戸東京博物館、徳川美術館を経て現職。名古屋城調査研究センターは、考古学・歴史学・美術史・建築史・庭園史などの分野を横断した総合的な調査研究を推進し、特別史跡名古屋城跡の保存・活用を進めるとともに、その調査研究成果を広く情報発信していく名古屋市の研究機関。2021年11月1日に名古屋城西之丸内に重要文化財「名古屋城本丸御殿障壁画」などを展示する「西の丸御蔵城宝館」を開設予定。12月19日まで開館記念特別展「名古屋城誕生!」展を開催。


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サントリー美術館 開館60周年記念展
「刀剣 もののふの心」
会期 2021915日(水)~1031日(日)
会場 サントリー美術館(東京・六本木、東京ミッドタウン内)
東京メトロ・都営地下鉄六本木駅から直結。東京メトロ千代田線乃木坂駅から徒歩3分
入館料 一般1700円、大学・高校生1200
会期中展示替えあり。詳細は展覧会のHP

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