【レビュー】深い縁で結ばれた親と子の物語 「家康から義直へ」展 徳川美術館と名古屋市蓬左文庫

徳川幕府を開き、死後は神となった徳川家康。織田信長や豊臣秀吉と比べ、家康の生涯で見事なところは、将軍家や御三家という後継者群をつくり、その遺産をしっかりと託したことだろう。その一人、尾張藩初代の徳川義直は、ほぼ天下を手中にして以降の父・家康しか知らないが、崇拝の思いは誰よりも勝ったという。その父と子を取り上げた初めての企画展。

夏季特別展 家康から義直へ
会場:徳川美術館と名古屋市蓬左文庫
会期:7月17日(土)~9月12日(日)(8月17日から展示替え)
休館日:毎週月曜日
アクセス:名古屋市東区徳川町、基幹バス「徳川園新出来」下車3分、JR中央線「大曽根」駅南口より徒歩10分
観覧料:一般1400円、高大生700円、小中生500円(土曜日は小中高生無料)
詳しくは徳川美術館ホームページ(https://www.tokugawa-art-museum.jp/

 

豊臣から徳川へ

長久手合戦図屏風(六曲一隻)の一部 江戸時代 19世紀 徳川美術館蔵

本能寺で亡くなった織田信長の敵を討った豊臣秀吉は、信長家臣団の中で頭抜けた存在となり、次の天下人として覇権を固めつつあった。秀吉に対し、唯一「ノー」と言える存在が徳川家康。天正12年(1584)、互いに信長の子、孫を奉じてぶつかった小牧長久手の戦いは、その証明だったのではないか。

このうち局地戦での徳川方の勝利を描いたのが「長久手合戦図屏風」。上図は屏風中央上部の拡大図で、山陰から家康の金扇の馬標(うまじるし)が登場する。本人を描かないのは江戸時代後期の習いか。

結局、家康は秀吉に臣従を誓うことになるが、後世から見れば、前進のための後退といえるだろう。

銀箔置白糸具足 松平忠吉(徳川家康4男)着用 桃山時代 16世紀 徳川美術館蔵 纏「直鋒」 松平忠吉所用 桃山時代 16世紀 徳川美術館蔵

当初、家康から尾張国を託されたのが4男の松平忠吉。具足も巨大な纏(まとい)も慶長5年(1600)の関ケ原合戦で用いたものだ。纏の「直鋒」とは剣の先のことで、最前線、先を行くなどの意味もあり、いかにも武勇の人らしい。若くして病死するため、9男の義直が後を継ぎ、初代尾張藩主となるが、もし忠吉がそのまま尾張藩主となっていたら、尾張藩の性格はガラリと変わっただろう。纏の前に立つとそう思えてくる。今回の企画展の主役の座を奪いかねない迫力があった。

徳川家康自筆書状 おかめ・あちゃ宛 江戸時代 慶長16年(1611) 徳川美術館蔵

家康の9男、義直は関ケ原合戦の2か月後に生まれた。母はお亀(後の相応院)。疱瘡にかかった義直を見舞うために、家康が自筆で書いた手紙。あちゃ(阿茶の局)もお亀と同様、家康の寵愛を受けた側室という。宛名が連名になっているのは、お亀と仲が良く、ふだんから義直の面倒も見ていたのだろうか。

岩佐又兵衛筆 豊国祭礼図屏風 六曲一双の内 右隻 蜂須賀家伝来 江戸時代 17世紀 徳川美術館蔵

慶長9年(1604)は秀吉の七回忌で、京の豊国神社では盛大な祭礼が催された。プロデューサー役を買って出たのは家康。屏風に描かれたように、祭りは家康の予想以上に盛り上がり、豊臣家の威光に熱狂する人々の姿を見て、「豊臣家の滅亡」の意向を固めたとされる。現在は左隻を展示。

 

家康から義直へ

小太刀  銘 源左衛門尉信国 応永廿一年二月日  名物 松浦信国 細川忠興・豊臣秀吉・豊臣秀頼・徳川義直所持 応永21年(1414) 徳川美術館蔵

関ケ原合戦以後、豊臣家と徳川家の力関係は逆転した。慶長16年(1611)3月28日、二条城で徳川家康と豊臣秀頼の会見が実現した。豊臣家の安泰を願う加藤清正の尽力だった。会見を見届けた清正は熊本への帰国の途、発病し亡くなってしまう。秀頼は大きな後ろ盾を失うのだが、ともあれ会見は一時の平和を演出した。

家康に帯同した義直は数え12歳で、大切な脇役を務める。まずは会見に来た秀頼の出迎え役。会見直後には、弟の頼宣(紀伊家初代)とともに家康の名代として大坂城へ答礼に出向いた。小太刀はその際に、秀頼から贈られた。

苅田蒔絵小鼓胴 附葵紋扇散蒔絵鼓箱 豊臣秀頼・徳川義直所用 名物 室町時代 16世紀 徳川美術館蔵

これもまた答礼に出向いた際に、秀頼から贈られた。鼓を好む義直には鼓、笛を好んだ頼宣には笛だった。義直の目には7歳上の豊臣家のプリンス、秀頼がどのように映ったのだろう。武家として自身の生き方にも影響を与えたはずだ。それもまた家康の深慮ではなかったか。

豊臣秀頼書状 尾張宰相(徳川義直)宛 江戸時代 慶長20年(1615) 徳川美術館蔵

義直は慶長20年(1615)4月12日、名古屋城で、豊臣恩顧の武将、故浅野幸長の次女春姫と婚礼を挙げた。それを祝い、刀や小袖を贈ることを伝えた秀頼の書状だ。

前年には大坂冬の陣があり、義直も初陣。婚礼後には、名古屋へ出向いていた家康がそのまま大坂へ出発し、義直も再び出陣した。

戦国の習いとはいえ、書状を出す方も受け取る方も、どんな気持ちだったのか。

駿府御分物御道具帳 十一冊・一通の内 江戸時代 元和2-4年(1616-18) 徳川美術館

家康の没後、駿府城内に保管されていた膨大な金銀財宝や諸道具の大部分は、9男の義直、10男の頼宣(紀伊家初代)、11男の頼房(水戸家初代)に分与された。尾張家への贈与内容を伝えるのが「駿府御分物御道具帳」11冊で、刀剣406件、衣類4273件など膨大な数にのぼる。家康が集めた書籍も江戸城の紅葉山文庫に納められたほかは御三家に分与された。尾張家の「駿河御譲本」は367部2825冊を数えた。消費されたり、失ったりしたものもあるが、家康の遺品は徳川美術館の収蔵品の骨格となり、戦国武将の中でも群を抜く質・量を誇っている。

脇指 無銘 貞宗 名物 物吉貞宗  徳川家康・徳川義直所持 南北朝時代 14世紀 徳川美術館蔵

家康の愛刀で、帯刀して出陣すると必ず勝利したことから「物吉(ものよし)」と呼ばれた。家康の遺品は駿府御分物として子らに分与されたが、この脇指はリストには載っていない。家康の最期までその身近にいた側室で、義直の母、お亀(相応院)が「我が子にその強運を分けてもらおう」と秘かに手を回したとされる。母は強し。

伝狩野探幽筆 徳川家康画像(東照大権現像) 江戸時代 17世紀 徳川美術館蔵

家康は死後、東昭大権現となった。その神格化を主導したのは僧の天海だった。この絵は家康像の拡大図だが、全体では手前に阿吽の狛犬が描かれるなど、家康像というより神様の像なのだ。

徳川義直筆・同賛 徳川家康画像(東昭大権現像) 江戸時代 17世紀 徳川美術館蔵

義直が描いた家康には、子の眼を通した父親像が映し出され、思わず「家康ってこんなに温和な人だったのか」と思ってしまう。手を隠しているのは家康像では極めて珍しく、義直は新たな家康像を創り出そうとしたのだという。

徳川家康 三方ヶ原戦役画像 聖聡院従姫(9代宗睦嫡子治行正室)所用 江戸時代 17世紀 徳川美術館

ひとむかし前のことだが、徳川美術館で初めてこの像を見たとき、「どうして秀吉がこんなところにいるの」と声を上げてしまった。「三方ヶ原合戦での大敗後、後の戒めとするため、家康が憔悴しきった自分の像を描かせた」との説明になるほどと思ったものだ。

最近の研究では、この説明は明治以降の創作で、文献的な根拠はないという。顔は不動明王の憤怒の表情、体は片足を組んで思いにふける如意輪観音像で、家康を武神としてまつる礼拝像という見方に変わった。

徳川美術館の学芸員・薄田大輔さんは「如意輪観音の化身とされた聖徳太子に対する家康の信仰も背景となっているのではないか。大坂の陣の前に、家康は聖徳太子が建立した四天王寺を参拝している」と語っている。

 

儒教の人

桜井清香模写 徳川義直画像 模本(原本 名古屋市清浄寺像) 昭和12年(1937) 徳川美術館蔵

原本は第2次大戦中の空襲で焼失し、義直の姿を伝えるのは戦前に描かれたこの模本のみ。実直で頑固、学者肌の義直をほうふつとさせる。

代々の藩主像を数多く伝える藩があるが、尾張徳川家は藩主像をほとんど残していない。2代光友画像も清浄寺にあったがやはり焼失。長栄寺にあった10代斉朝と12代斉荘(なりたか)の木像も戦災で焼失している。

金聖像 江戸時代 17世紀 徳川美術館蔵

義直は儒教を崇拝したことで知られ、名古屋城二之丸の庭園に建てられた聖堂に、儒教の聖像5体が牡丹蒔絵祠堂形厨子に納められてまつられていた。向かって右から禹王像、帝堯像、文宣王(孔子)像、帝舜像、厨子の扉の陰となって見えないが、周公旦像の5体である。このうち帝堯像は純金製で家康から譲られた。他は義直が製作させた。青銅製でぶ厚く金メッキされている。

徳川義直編 軍書合鑑 18世紀 名古屋市蓬左文庫蔵

義直は傾倒した儒学精神に基づいて多くの著述書を残した。「軍書合鑑」は実戦で必要な心得や規律などを記した軍学書(後世の写し)だが、巻末の6文字(右のページ、8行目)が後に尾張藩の命運にかかわってくるとは義直は思いもしなかっただろう。

「依王命被催軍(王命に依って催さるる軍)」(催さるる事という写本もある)が家訓として、尾張藩は王命(天皇の命)によって行動すると解釈され、幕末期に朝廷・新政府側につく決断の精神的論拠となったという。

尾張藩は東海道や中山道沿いの各藩を説得し、江戸へ向かう新政府軍の障害を無くした。江戸無血開城の陰の功績者であることは、もっと知られていい。

源敬公廟図(定光寺徳川義直廟図) 江戸時代 17世紀

義直は死んでもなお儒教の人だった。慶應3年(1650)年、江戸で没すると、遺骸は名古屋に運ばれ、遺言に従って愛知県瀬戸市の定光寺に隣接して造られた儒教式の源敬公廟(墓所・霊廟)に葬られた。源敬公は死後の贈り名。

廟は中国(明)からの渡来人、陳元贇(ちんげんぴん)が設計したとされる。諸大名の廟が仏式や神道式に対して異色。尾張藩でも2代目以降は仏式となった。

(読売新聞中部支社編集センター 千田龍彦)

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