【レビュー】尾張藩に始まる植物画の系譜をたどると、名古屋の本草学は、世界につながった 名古屋城・本丸御殿の障壁画からはじまる 植物画の物語 ヤマザキマザック美術館

展覧会名:名古屋城からはじまる植物物語
会期:4月24日(土)~8月29日(日)
会場:ヤマザキマザック美術館(名古屋市東区葵、市営地下鉄東山線新栄町駅に直結)
休館日:毎週月曜日(8月9日は開館)
入館料:一般1300円、小・中・高生500円、小学生未満無料
詳しくは同館ホームページ(http://www.mazak-art.com)へ
江戸時代、狩野派の作風を引き継ぐ尾張の絵師たちが描いてきた花鳥画をルーツに、西洋植物画と融合し、やがてボタニカルアート、ジャポニズム、アール・ヌーボーへとつながる流れを大観する。名古屋出身の植物学者で、シーボルトに「余は圭介氏の師であるとともに、圭介氏は余の師である」と言わせた伊藤圭介の実像にも迫る。
プロローグ 狩野派の花鳥画

徳川家康が造り、尾張徳川家の居城となった名古屋城。狩野派の天才絵師たちが、本丸御殿のふすまや壁、天井を飾る障壁画に筆をふるい、名古屋の絵画史もまた名古屋城に始まった。
名古屋城天守閣と本丸御殿は太平洋戦争中の1945年5月、米軍の空襲で全焼してしまったが、多くの障壁画は事前に運び出されて今日に伝わり、重要文化財となっている。さらに描かれた当初の姿で障壁画を再現する復元模写も進められ、再建された本丸御殿で鮮やかな色彩を放っている。
今回、展示の冒頭に並んだのが、本丸御殿の天井にはめ込まれていた天井板絵。特に将軍用のVIPルーム「上洛殿」の天井板絵からは、藤花、瓜花、菊の3枚が、復元模写画とともに展示替えで登場する。まさに「植物物語」のプロローグにふさわしい。
本草学者が学んだ狩野派
尾張藩はその後も狩野派絵師を御用絵師に取り立てるなど同派を庇護し、その技法は尾張に定着し、広がった。庇護とは無縁の在野の狩野派絵師(町狩野)もまた、同派伝統の粉本を用いて、武士や町民に絵を教えた。
その中には薬草を調べる本草学者もいた。植物画を描く本草学者たちに狩野派の植物画の技法が伝わったのだ。

その一人が水谷豊文(1779―1833)。絵の師匠は狩野派の流れをくむ在野の絵師だったとされる。その精緻な植物画は、後にドイツ人医師シーボルト(1796-1866)に高く評価された。
シーボルトとの出会い

シーボルトは文政6年(1823)、長崎・出島のオランダ商館の医師として来日した。長崎に留学してくる日本各地の本草学者らに西洋医学を教えると同時に、博物学者として日本の植物研究にも力を注いだという。
文政9年(1826)、シーボルトが江戸に出向くことを知った水谷豊文や弟子の伊藤圭介(1803―1901)らが、自ら描いた植物画を持参して熱田神宮で待ち構えた。水谷の絵を見たシーボルトは日記に「どれも真に迫っていた」と記している。
この出会いをきっかけに、水谷はシーボルトから植物解剖学を採り入れて精密な植物画を描くヨーロッパの技法を学んだ。この技法は、弟子の伊藤圭介らに引き継がれた。主に中国に学んだ尾張の、そして日本の「本草学」は、シーボルトとの出会いによって、「西洋植物学」へと変化していったのだ。
「我が師、圭介」
伊藤圭介は長崎に留学し、シーボルトに師事する。シーボルトが伊藤に与えた課題は、スウエーデンの植物学者ツュンベルクが安永4年(1775)に来日した際に800種類以上の植物を採取し、帰国後にまとめた『フロラ・ヤポニカ(日本植物誌)』の研究だった。伊藤とシーボルトは、同書に登場する植物の和名を調べた。

伊藤圭介は尾張に帰ってから、共同研究の成果を『泰西本草名疏(めいそ)』にまとめた。しかし、伊藤が長崎を離れた後、「シーボルト事件」が起きた。シーボルトが日本の地図を無断で国外に持ち出そうとしたとして摘発され、国外退去させられたのだ。
このため、『泰西本草名疏』の初版や版を重ねても、しばらくはシーボルトの名前を伏せるしかなかった。

『泰西本草名疏』の付録で、伊藤圭介はスウェーデンの植物学者リンネ(1707-1778)が定めた「植物分類体系二十四綱」を花の解剖図とともに紹介した。ここではおしべ、めしべ、雄花、雌花、花粉という今では当たり前の用語をつくり、使っている。
亡くなる直前まで、シーボルトに学んだ植物学を日本に広め、植物学や医学の向上に努めており、日本最初の理学博士ともなった。
シーボルトが伊藤圭介について語っている。「余は圭介氏の師であるとともに、圭介氏は余の師でもある」

90歳になった伊藤圭介が、研究の集大成として自らの知識や資料をまとめたのが『錦窠(きんか)植物図説』だ。新聞、雑誌の切り抜き、草木の拓本などあらゆる情報を、『山茶譜』『桜譜』など項目別に164冊に収録し、門外不出の秘本とされた。尽きぬエネルギーが伝わってくる。
もう1冊の『フロラ・ヤポニカ』

一方、シーボルトは帰国後、日本から持ち帰った約12000点の植物標本で、ツュンベルクと同名の『フロラ・ヤポニカ(日本植物誌)』を出版する。ここで大いに貢献したのが、長崎時代に日本人の絵師に描かせた植物画だった。
シーボルトから顕微鏡を与えられ、直接指導を受けた長崎の絵師、川原慶賀の『草木花実写真図譜』には、明らかに『フロラ・ヤポニカ』の下絵になったと思われる植物画が掲載されている。例えば、『フロラ・ヤポニカ』の桐(右)は、あきらかに川原の描いた桐を参考にしている。

なぜヤマザキマザック美術館で
ところで、ヤマザキマザック美術館はロココからエコール・ド・パリまで約300年にわたるフランス美術史を一望する絵画と、アール・ヌーボー、アール・デコのガラス工芸品や家具のコレクションで有名だ。
その美術館がなぜ、江戸時代の本草学を核とする展覧会を開いているのか。
謎を解くカギのひとつが同美術館の立地にある。江戸時代は尾張徳川家の別荘で、広大な御下屋敷跡の一画に建っている。屋敷内には、藩の薬草園や人参畑が広がっていた。本草学とは深い縁があったのだ。

名所ガイドブックの『尾張名所図会』で知られる小田切春江は屋敷内の薬草園や人参畑を描く。
日本での朝鮮人参の栽培は、8代将軍の徳川吉宗が朝鮮人参の生根や種を入手し、全国に配布したのに始まる。栽培は困難を極めたとされるが、尾張藩はついに栽培に成功し、貴重な薬草として販売もされていた。いつの間にか人参の歴史に通じるほど展示は詳しい。
薬草園の存在が尾張本草学を後押ししていた事実も理解できた。本草学者の水谷豊文も薬草園の管理者だった。

もう一つのカギは、フランスのガラス作家エミール・ガレ(1856―1904)に代表されるアール・ヌーボーにある。「ジャポニズム」がブームとなり、日本の美術品や工芸品が大きな影響を与えたことが示されている。
中でもガレは日本の植物図譜を多数購入している。『北斎漫画』に描かれた朝顔やカエルに触発されたデザインもある。このあたりは、ヤマザキマザック美術館ならではの展示だ。
「名古屋城ではじまった植物物語」は世界とつながった。
エピローグ 伊藤圭介の叱咤

展示の最後に大きな七宝の壺が飾られている。実は図録の表紙はこの『百華文七宝大壺』の一部分。金属線で輪郭を作り、釉薬を指して焼成、研磨する仕事の精密さをうかがい知ることができる。
尾張で発展した工芸品の有線七宝は明治に黄金期を迎えた。日本の花鳥画の伝統を生かした絵柄は、「ジャポニズム」に沸くフランスなど欧米で歓迎された。
ここでも伊藤圭介が重要な役回りで登場する。安藤七宝店初代社長の安藤重兵衛(1876―1953)は小学生の時に伊藤圭介に受けた「積極的に海外へ目を向けよ、西欧に学べ、海外へ進出せよ」の薫陶を胸に、愛知の地場産業だった七宝の技を世界に広げたのだという。
図録は、編集・執筆したヤマザキマザック美術館学芸員・坂上しのぶさんが歴史書かと思うほど本草学、植物学に詳細にふれており、レビューにあたって参考にさせていただいた。
(読売新聞中部支社編集センター 千田龍彦)