【レビュー】 膨らんでいく街の細部 「江戸から東京へ-地図にみる都市の歴史」東洋文庫ミュージアム(東京・駒込)で開催中

武州豊嶋郡江戸庄図 写本 書写年不明(原図は1632年頃)  方位(地図上の上が西)、縮尺、地形など正確さにはこだわらず絵画的に描く。明暦の大火(1657年)で焼失した天守閣が紅葉山を背景に大きく描かれている。

今の東京にあたる地域を、古地図を中心に地誌や当時のガイドブック、絵図を通して見てみようという展覧会が、東洋文庫ミュージアムで開かれている。古代・中世から近代にいたるまで、刻々と変化する江戸・東京の姿が約50点の館蔵品から浮かび上がる。普段は折りたたまれて保管されている地図。現在はデータ化されているとは言え、実物を開いた状態で見られるのは貴重な機会だ。展示品の撮影も可能。926日まで。

「江戸から東京へ-地図にみる都市の歴史」

東洋文庫ミュージアム(東京・駒込)

会  期  526()926()

開館時間  午前10時~午後5(入館は午後430分まで)

休館日   火曜日(火曜日が祝日の場合は翌平日)

入館料   一般900円ほか

JR山手線、東京メトロ南北線・駒込駅より徒歩8

都営地下鉄三田線・千石駅より徒歩7

詳しくは同博物館ホームページ

「最初の江戸図」と思われていた?

長禄江戸図 写本 書写年不明(江戸時代末頃か)

江戸という表記が初めて現れるのは、鎌倉幕府の歴史を書いた吾妻鑑(14世紀初頭)。源頼朝の挙兵に対し、平氏側についた武蔵国の武士・江戸氏の名が出てくる。では江戸を描いた最古の地図というと。室町時代の武将・太田道灌(1432-1486)が江戸城を築いた長禄年間(1457-1460)頃に描かれたとされる「長禄江戸図」と言われて来た。道灌の江戸城を中心に川、村、寺院などが簡略化して描かれている。しかし徳川家康が日比谷入江を埋め立てるまであったとされる「江戸前島」という半島が無いなど、道灌の時代とは合わない部分が見られ、後世に作られたものとされるようになった。それでも、江戸時代の人々はこの地図を中世の江戸を解釈していたと考えられる。

江戸初期の町並みと城内?

慶長年中江戸図 1840(天保11)年頃書写か

1603年の江戸開府から間もない1607-08(慶長12-13)年頃の、江戸城内曲輪(内郭)を描いたとされる図。北に「田安土橋」、西に「半蔵町口」、東に「浅草橋」、南に「日比谷御門」とある。今の皇居、北の丸公園、大手町、丸の内の辺りで、本丸を囲むように武家屋敷が並んでいるのが分かる。慶長の地図にしては正確で、後年に実地測量に基づいて作成されたと考えられるという。大名屋敷に書かれた名前など現在の地図と重ね合わせて見ていくことができて面白い。

初期の江戸図代表といえば

1632(寛永9)年に刊行された「武州豊嶋郡江戸庄図」の原図は、市中も描いた「江戸図」としては最古とされる。西を上にして江戸城の東(地図上の下)は日本橋、京橋、銀座、八丁堀周辺、南(地図上の左)は増上寺、愛宕神社周辺、北は神田周辺まで収めている。明暦の大火(1657)を機に移転した御三家(尾張、紀伊、水戸)の上屋敷も城内に描かれている。大火後に移転した跡地は、吹上御殿として広い庭と玉川上水の水を引き込んだ池が造られ、避難場所とされたという。他の武家地、寺社地も外濠の外側一帯から立ち退き、跡地は延焼を防ぐための空き地(火除地)とした。

広がる江戸

新板武州江戸之図 1664(寛文4)年

明暦の大火後に復興された町並みを描いている。城の北(地図上は右)に火除地となる空き地が設けられている。右下の浅草川(隅田川)には「大はし(両国橋)」が架けられている。本所、深川地区の開発が進んでいるのも分かる。ところで疑問が。右上に天守の絵が見えるが、明暦の大火で焼失したのではなかったか。

「東都隅田川両岸一覧」(1781=天明元年刊)は隅田川両岸の景観を描いた絵巻。江戸防衛のため隅田川に架かる橋は千住大橋のみだったが、明暦の大火で多くの人が避難路を失って犠牲になったため、1659(万治2)年に「大橋」が架けられた。国境が変わるまで武蔵国と下総国の間に架かる橋だったため「両国橋」と呼ばれ、近辺は次第に盛り場として賑わうようになる。橋の上を行きかう人々を見ると、当時の賑わいや風俗が分かって興味深い。

東都隅田川両岸一覧 1781(天明元)年刊 東巻(上)、西巻(下)

元禄の街並み 大名から町人の名まで

(左端) 温清軒 江戸図正方鑑 1693(元禄6)年刊

元禄時代(1688-1704)を代表する江戸図。大名屋敷には、大名行列の先頭を行く槍じるしが描き入れられている。武家屋敷の主人の名はもちろん、町人の名もある。また、江戸名所の回り方や、日本橋から周辺への行程などが目録として描かれている。今で言えば住宅図兼ガイドブックといったところか。字が小さいのが難だが、江戸文化の最も華やかなりし頃の江戸の細部を探って行ける地図だ。

めいわくねん(迷惑年)の大火事

明和版江戸図(大火消失範囲朱入) 1772-73年頃 奥村喜兵衛版

1772(明和9)年に発生した大火による消失範囲を朱色で示した図。目黒行人坂にある寺から出火し、日本橋、神田、上野、浅草、千住辺りまで類焼した。死者・行方不明者は2万人近くにのぼったという。江戸城の東側(地図上では下が東、右が北)が南北に広範囲にわたり焼けたことがよく分かる。右の絵は江戸時代の火事の現場を描いたもので、急行する火消しや屋根に纏を立てる姿、類焼を防ぐため周辺の家屋を壊す様子が生々しい。

江戸の範囲

家康の天下普請から始まった江戸の町づくり、度重なる大火を乗り越えて拡大し続け、人口100万人を超える大都市となった。では、どこまでが江戸か。町人地は町奉行、寺社地は寺社奉行、武家地は大目付・目付支配と複雑な支配体系があったため、異なる解釈があった。そこで幕府は1818(文政元)年、江戸城を中心とする地図上に朱色の線を引き、「御府内」範囲の統一的な見解とした。東は亀戸周辺(江東区)、西は代々木周辺(渋谷区)、南は品川周辺(品川区)、北は千住周辺(足立区)・板橋周辺(板橋区)あたりまでで、「四里四方」と呼ばれた。また、朱引の内側に小さく環状域を描くように引かれた墨引線が町奉行の支配地とされた。

さらに明治に入って外国人居留地が拡大され外国人向けに作られた地図、外国人観光客のための地図など、地図好きには興味の尽きない展示が続く。

 

 

(読売新聞事業局美術展ナビ編集班・秋山公哉)