【レビュー】美人画の系譜に残したい先人の歩み、そして憂愁の美 柿内青葉展 女子美術大学美術館

《春の装ひ》1929(昭和4)年(部分) 女子美術大学美術館蔵

展覧会名:女子美術大学美術館コレクション 柿内青葉展 鏑木清方門下の女性画家

会期:2021年5月19日(水)~6月26日(土)

会場:女子美術大学美術館(神奈川県相模原市、小田急線相模大野駅からバスで約20分、横浜線古淵駅からバスで約15分、「女子美術大学」下車)

休館日:日曜

入館料:無料

開館時間:10:00~17:00(入館は16:30まで)

◆女性画家の先駆けのひとりとして

柿内青葉(かきうち・せいよう、1890~1982)は東京に生まれ、大正から昭和にかけて活躍した日本画家。当時、まだ珍しかった女性の画家としては上村松園(1875~1949)の少し下、池田蕉園(1886~1917)や島成園(1892~1970)らとほぼ同じ世代といえばイメージしやすいだろうか。現状、青葉作として確認されている作品は極めて少なく、本展でも作品やスケッチなどの展示は20数点に留まる。一方で、遺族らから寄贈を受けた書簡や画材など制作過程を知る上で貴重な未公開資料を一堂に展示した。知る人ぞ知る存在であった青葉の全体像を初めて世に問う意欲的な内容だ。

柿内青葉 自作の《嫁ぐ人》の前にて

官吏の家に生まれた青葉は1905年(明治38)、15歳で私立女子美術学校(現・女子美術大学)に入学。当時、女性が入学できなかった東京美術学校(現・東京藝術大学)に対して1900年に発足した女子美術学校の創成期の学生で、高等教育を受けた女性画家のはしりということになる。

スケッチブック 制作年不詳

◆清方門下の優等生

5年間学んで日本画科本科普通科・高等科を卒業後、美人画の第一人者だった鏑木清方の門下に入り、入門から2年後には師匠に代わって若い女性の門弟の指導を託された。男性陣の教育を任されたのが伊東深水ということを考えても、清方からその技量や人柄が高く評価されていたことがうかがえる。1917(大正6)年からは母校の女子美術学校でも教鞭を取った。

1921年に帝展に初入選。4年後の帝展に入選した《十六の春》は、東京朝日新聞付録カレンダーの図版に選ばれ、広くその名が知られるようになった。

《十六の春》1925(大正14)年 女子美術大学美術館蔵

翌26年(大正15年)の5月からは、朝日新聞に連載された田山花袋の小説《恋の殿堂》の挿絵を手掛ける。その作業と並行して制作された《月見草咲く庭》も帝展が入選。以後、第8回《春のをとめ》、第9回《嫁ぐ人》、第11回《十字街を行く》と意欲的に帝展に出品、入選も果たした。

《月見草咲く庭》1926(大正15)年 女子美術大学美術館蔵

大作の《嫁ぐ人》は、嫁入りの決まった姉の髪を妹が結うという仲睦まじい情景で、どことなく別れを間近にした寂しさもにじむ。青葉は姉妹はおらず、母を9歳で亡くし、芸術家志望の娘を応援した父も28歳の時に死去。その後、青葉は家族を持たなかった。同展を担当した藤田百合学芸員は「青葉自身の肉親の情への強い思いが投影されている」とみる。

《嫁ぐ人》1928(昭和3)年 女子美術大学美術館蔵

◆画家とモデル、の深いつながり

本展では画家とモデルとの関係も注目する。《十六の春》など青葉の主要作のモデルを務めたのは、女子美術学校の後輩だった下山花枝さん(1910-2013)だった。

《十六の春》のモデル、下山花枝さん(18歳頃)

美貌で名高く、《十六の春》が出品された帝展には、別の画家が花枝さんを描いた作品が並ぶほど。後年の代表作《春の装ひ》もやはり花枝さんがモデルだった。1929(昭和4)年6月に、パリで開催された巴里日本美術展覧会に出品された作品。前年の帝展を視察した駐仏大使が作家を選び、出品を依頼したという。花枝さんにモデルを依頼する手紙の中で、青葉は「折角外国へ出すのですから日本の美しいお嬢さん書いて出品できたらば」と熱意を露わにしていた。

《春の装ひ》1929(昭和4)年 女子美術大学美術館蔵

青葉は《十六の春》を終生、手元に置いており、「二度と描けないのでとても大切にいたして居ります」と記すほど。花枝さんが《十六の春》で身に着けていた簪についても、ずっと大事に保管してほしいと手紙で花枝さんに懇願していた。

二人の手紙のやりとりは晩年まで続き、作品やその創作過程が互いにとってかけがえのない記憶になっていたことが分かる。藤田百合学芸員は「単なるモデルというレベルではなく、人物画の創作の上で『この人を描きたい』という熱意がいかに決定的なものなのか、ということを感じます」という。

青葉は1982(昭和57)年に92歳で死去。外部に作品を発表する活動は1933(昭和8)年以来見られず、作家としての実働は20年あまりと決して長いものではなかった。後半生の大部分は静岡県沼津市にひとりで暮らし、時に女子美術大学や清方一門の行事に出席するぐらいで、あまり丈夫ではない身体をいたわる生活が続いた。

短いとはいえ一時期、美人画家として活躍した青葉が戦後、あまり顧みられなくなった背景について、藤田学芸員は「現存する青葉の作品点数が少ないことも関係しているのではないか」とみる。

◆偉大な先人として

一方で開学以来、芸術を通して女性の自立と社会的地位の向上を目指してきた「女子美」にとって、先駆者としての青葉の業績は大切なものだ。本展では青葉の画業の理解を深める意味で、青葉と同門や、女子美術大学に縁の深い女性画家の作品を展示している。

寺島紫明《若き尼僧(想い)》1920(大正9)年頃

寺島紫明(1892~1975)は大正2(1913)年、鏑木清方に入門。

北八代《たちあおい》制作年不詳

北八代(1908~1996)は、1929(昭和4)年、女子美術専門学校日本画高等科卒業。《たちあおい》は近代の典型的な美人画。

三谷十糸子《池畔有情》1958(昭和33)年

三谷十糸子(1904~1992)は1925(大正14)年、女子美術学校日本画科を首席で卒業。1971年から75年までは女子美術大学の学長を務めた。

◆青葉研究、さらに深化を期待

同時期の美人画、あるいは後進と比べて、青葉の作品は正統的で、かつどこか憂いを帯びた表現が特徴的だ。晩年まで青葉と手紙のやり取りを続けたモデルの下山花枝さんが、青葉を評して「孤独な人」と言っていたという。それが生い立ちなどからくるものなのか、女性画家としての厳しい歩みからくるものなのかは分からないが、美人画の表現の歴史の上でも、ジェンダー的な意味においても、今後も研究の深化が待たれる。作品として判明している点数が少なく、個人が所蔵しているものが少なくないと考えられており、本展のような取り組みをきっかけに、隠れていた作品が発掘されることにも期待したい。

(読売新聞東京本社事業局美術展ナビ編集班 岡部匡志)