【開幕レビュー】「意匠の天才」、グラフィックデザイナーの先駆者 精緻な仕事ぶりに感嘆 小村雪岱スタイル展 三井記念美術館

特別展 小村雪岱スタイル―江戸の粋から東京モダンへ
2021年2月6日(土)~4月18日(日)
三井記念美術館(東京都中央区、東京メトロ三越前駅、東京メトロ・都営地下鉄日本橋駅、JR東京駅から徒歩)
入館料:一般1300円、大学・高校生800円、中学生以下無料。日時指定予約制
装幀や挿絵、舞台装置画など商業美術の分野で幅広く活躍し、近年再評価が進む画家、小村雪岱(1887~1940)。貴重な肉筆画や版画を交え、江戸の粋を吸収し、東京モダンへと発展させた雪岱の歩みを初期から晩年まで振り返る。
埼玉県の川越で元川越藩士の家に生まれた雪岱は、画家を目指し東京美術学校(現・東京藝大)で下村観山のもと日本画を学ぶ。若くして泉鏡花の知遇を得て、20歳代後半から鏡花の装幀を手がけた。資生堂に入社、意匠部で商品や広告の日本調のデザインを描いた時期もある。その後、里見弴の連載小説の挿絵をきっかけに新聞や雑誌で数多くの挿絵を担当。30歳代後半からは演劇にも関わり、新派や歌舞伎など生涯で200以上の舞台装置や美術考証、風俗考証に携わった。つまり当時の最先端のメディアやショービジネスの世界で華々しく活躍し、現在のグラフィックデザイナーやアートディレクターの先駆けのような存在だった。

<肉筆画・木版画>
装幀や挿絵に比べて数が少ないが、東京美術学校で培った日本画の技量と持ち前のセンスを発揮しており、見応えがある。鈴木春信ら江戸時代の先人をよく研究していたことも分かる。





<装幀本>
生涯に300冊近い本の意匠を手がけた。大正3年(1914)、鏡花の指名により、27歳で新作単行本「日本橋」の装幀に抜擢され、華々しいキャリアがスタート。里見弴、久保田万太郎、谷崎潤一郎とキラ星の巨匠たちの著作に関わった。表紙をめくると現れる表見返しや裏見返しには、趣向を凝らした多色木版で刷られたものが多く、物語の世界観へと読者を誘う。



<挿図原画>
装幀家として成功を収めた雪岱には、新聞や雑誌の連載小説の挿絵の依頼も舞い込むようになった。初めて手がけたのは『時事新報』の里見弴作『多情仏心』(大正11~12年)。大胆な構図で、ダイナミックな動きを伴ったり、画面の多くを黒く塗りつぶしたり、逆に余白を広く取ったりしているものが目立つ。媒体の性質上、小さな画面でいかに読者の目を引き、作品世界を描くかに心血を注いだ様子がうかがえる。




<舞台装置原画>
まるで本物の舞台を見ているかのような、鮮やかな筆致と細やかな仕事ぶりに驚かされるのがこのコーナー。大正13年(1924)、37歳の時に、松岡映丘の紹介で歌舞伎の『忠直卿行状記』(菊池寛作)の舞台装置を手がけた。その後、五代目中村歌右衛門、六代目尾上菊五郎ら名優から絶大な信頼を受け、53歳で没するまでに約200もの芝居を担当した。実物の50分の1ほどの「道具帳」と呼ばれる原画を雪岱が描き、それをもとに大道具、小道具の担当者が装置を作り上げる。原画には細かく指示が書き込まれており、現場のスタッフがイメージしやすいよう心を配る雪岱の姿勢が見える。風俗や美術考証、衣装デザイン、照明なども監修し、稽古に立ち会うこともあったという。



展示をみると、当時の文学界や演劇界の第一人者とともに耳目を集める仕事をし、影響力の大きな媒体で数多くの作品を発表した「大スター」だったにもかかわらず、むしろ近年までそれほど注目を集めなかった事のほうが不思議になる。
雪岱の再評価に貢献し、本展の監修も担当した山下裕二・明治学院大教授は本展図録の寄稿「小村雪岱―『商業美術家』の逆襲」で、その理由について、戦時下に没したため、没した直後の報道が多くの人に届かなかったことを挙げている。
山下教授は「雪岱の場合も、もし戦後まで生き延びて、旺盛に『商業美術家』としての仕事を続けていたなら、その再評価はもっと早く進んでいたのではないかと思う。そして、グラフィック・デザイナーという職業が市民権を得るころには、雪岱は大家として尊崇される存在になっていたのではないかと思う」と記している。こんなところにも戦争の爪痕が残るものなのだ。
同展について詳しくは同美術館ホームページへ。
(読売新聞東京本社事業局美術展ナビ編集班 岡部匡志)