「物語る」人の造形 舟越 桂展 渋谷区立松濤美術館

「舟越 桂 私の中にある泉」
渋谷区立松濤美術館
2020年12月5日(土)-2021年1月31日(日)
現代日本を代表する彫刻家、舟越桂(1951~)の初期から近年までの代表作を集めた大規模個展。舟越の代名詞とも言える楠の木彫彩色の人物像をはじめ、ドローイング、版画、メモ、自作のおもちゃなどの豊富な展示物から、一貫して人間の姿を表すことにこだわってきた作家の内面に迫る内容だ。
孤高の建築家・白井晟一の代表作のひとつである松濤美術館の静謐な空間と、舟越の深みのある人物像の雰囲気が相まって、見ごたえのある展示になっている。本展では、作家の心のありようを「私の中にある泉」と呼び、作品が生み出される作家の内面を探っていく。全体は6章から構成される。
<第1章 私はあゆむ、私はつくりだす>
20歳代のはじめに函館のトラピスト修道院の聖母子像を作成。この大作以後、「楠」が作品の主要材料になり、木彫の人物半身像を多く手掛けていく。最初期は目を入れていなかったが、やがて大理石の瞳をはめこむようになった。特定のモデルがあっても、普遍的な存在を感じる作風は初期から明確だ。


<第2章 私は存在する>
本展では制作過程のドローイングも展示されており、完成形と見比べてその推移を見る楽しみもある。制作はまずデッサンから始まることが多く、これが仕上がってから木を彫り始めたという。仕上がるまでに厳しい検討と様々な試みが繰り返されたことは想像に難くない。
一方、実在のモデルをもとに制作することは次第に減っていき、1990年代前後からは体の一部が変形する「異形」と呼ばれる人物像が現れてくる。一般には舟越作品の「異形化」と言われるが、作家本人は「心象人物」と呼んでいる。複雑で混沌としている人間の内面を具体化したもの、といえるかもしれない。
大きな転機となる「山シリーズ」はとくに印象的。大きな山をも内面に抱えることができる人の精神の大きさ、不可思議さ、というイメージなのだろうか。

<第3章 私の中に私はみつける>
2000年代に入って「異形化」は一層本格的になり、現実の人体にはありえない形態や表現が自由に展開されていく。2003年には《水に映る月蝕》を制作。約20年ぶりの裸婦像となった。


2004年には古代神話のスフィンクスをモティーフにした作品の制作を開始。半身半獣で両性具有の身体と長い耳を持つ「スフィンクス・シリーズ」は現在に至るまで制作が続けられている。神話に登場する怪物のように人間を見透かす存在であると同時に、その人間の中で己を見ているもうひとりの自分、というイメージという。見る者に「人間とは?」と問いかけてくる作品群だ。珍しく険しい表情の《戦争をみるスフィンクスⅡ》はイラク戦争に対する怒りや嘆きが表出されている。作家として戦争に対する自分の考え方を示す必要がある、として制作された。

<第4章 私は思う>
舟越は制作の途中で考えたこと、感銘を受けた言葉などを、ノートやボール紙の切れ端に書き留めている。「テレビっ子」という舟越はアトリエでもテレビを見て、時事問題に触発されてメモすることもあるという。それらのメモを展示。社会とつながりつつ、想像の翼を広げていく様相がうかがえる。
<第5章 私の中を流れるもの>
舟越は彫刻家の父、舟越保武(1912-2002)と詩人の舟越道子(1917-2010)のもと、7人兄弟の次男として生まれた。弟の直木(1953-2017)も彫刻家。舟越家各人のドローイングや絵画を紹介しており、そこに流れる共通のものを感じる。舟越作品の独特のタイトルは、母の道子の絵画作品から影響を受けたもの、という。芸術一家としての強い縁を思う。
<第6章 私ははぐくむ>
舟越が自身の家族のために自作したおもちゃを紹介する。木彫の過程で出てきた木っ端を利用したといい、当意即妙の造形に感心するばかり。作品世界とひと続きのような、家族に対する優しいまなざし。

本展図録の「作者の言葉」で、舟越は「理論化できないことは物語らなければならない」というウンベルト・エーコの有名な言葉を引いて、『「物語る」となればそのストーリーや文体は無限といってもいいほどの可能性があるはずだと思う』と述べた。確かに、饒舌に「物語る」作品の数々。創作という営みが持つ世界の広がりを感じさせる展覧会だ。
展覧会名:舟越 桂 私の中にある泉
会場:渋谷区立松濤美術館(東京都渋谷区)
会期:2020年12月5日(土)~2021年1月31日(日)
休館日:月曜日(ただし1月11日は開館)、12月29日(火)~1月3日(日)、1月12日(火)
入館料:一般500円、大学生400円、高校生・60歳以上250円、小中学生100円
詳しくは同館ホームページへ。
(読売新聞東京本社事業局美術展ナビ編集班 岡部匡志)