破壊と修復 特別展「海を渡った古伊万里」~ウィーン、ロースドルフ城の悲劇~ 大倉集古館で開催中

江戸時代、ヨーロッパでは王侯貴族が東洋の磁器に魅了され、競うように買い求めてコレクションを作った。そうした磁器が里帰りして展示されることはよくあるが、今回の特別展はいささか趣が違う。タイトルにあるロースドルフ城は古伊万里を中心に多数の陶磁器を所蔵し、調度品として城内を美しく飾っていた。しかし、第二次世界大戦終結直後に侵攻してきた旧ソ連軍により、その多くを破壊されてしまう。通常、破壊された陶磁器は廃棄される。だが、城主のピアッティ家は膨大な破片を一室に集め、平和への願いを込めて「戦争遺産」として一般に公開してきた。今回は日本国内の有田磁器の名品とともに、そうした破片や破片を修復した作品を含むロースドルフ城のコレクションを海外で初めて公開する。展示は約150件。1月24日(日)まで開催されている。

展示は第1部「日本磁器誕生の地『有田』」と第2部「海を渡った古伊万里の悲劇『ウィーン、ロースドルフ城』」の2部構成。

展示室の最初に置かれているのは、全面を花卉文(かきもん)で埋め尽くした古伊万里の金襴手様式の作品「色絵唐獅子牡丹文亀甲透彫瓶」。ペアの一方は大きく欠けている。金襴手とは中国・景徳鎮で明代に作られた金彩色絵磁器のことで織物の金襴に似ていることから日本ではそう呼ばれた。瓶は内外の二重構造で外側には帯状に精巧な亀甲繋文様の透かし彫りが施されている。このような透かし彫りの古伊万里は日本ではほとんど見られず、ドイツ・ドレスデンの王のコレクションなど海外で収蔵されているという。
ヨーロッパ貴族の間では「金よりも価値がある」と言われた日本の磁器。第1部では有田磁器の流れを、佐賀県立九州陶磁文化館所蔵品を中心に展示する。日本の磁器生産は江戸時代初期(1610年代)に現在の佐賀県の有田で始まる。有田と周辺の広域で焼かれた磁器は伊万里港から出荷されたため「伊万里焼」と呼ばれるようになる。明治以降は陸送するようになり、産地ごとに「伊万里焼」「有田焼」と名称が細分化する。磁器の誕生から幕末・明治までの作品を展示する。

「色絵松竹梅岩鳥文輪花皿」は、17世紀後半に完成した温かみのある乳白色の素地に繊細な絵付けを施した色絵磁器で、広く柿右衛門様式として知られ、ヨーロッパで熱狂的な人気を集めた。
第2部はロースドルフ城のコレクション。この城はオーストリア・ウィーンの北約70キロの自然豊かな土地にある。城の始まりは12世紀頃と言われ、多くの貴族が所有した。今の当主のピアッティ家は北イタリア出身で18世紀にドレスデンのザクセン王に仕え、1820年代後半にロースドルフ城に移る。コレクションは古伊万里や明治の有田、中国・景徳鎮窯、ドイツ・マイセン、オーストリア・アウガルテンなど様々な生産地のものがある。陶片調査から、中国製やヨーロッパ製の「古伊万里写し」の存在もより明らかになった。2部では破片を含むコレクションを展示し、日本・中国とヨーロッパの東西交流の中身を解明し、その輝きを取り戻す修復した姿を見ていく。

一見、古伊万里と見間違えそうな壺。日本からの公式輸出が途絶えた後、古伊万里を模した作品が海外で作られるようになる。展示ではヨーロッパの職人たちが、いかに日本の磁器製作の技術を習得しようとしていったか、さらにヨーロッパの王侯貴族の好みに合わせてそれをどう洗練させていったかが見て取れる。


磁器の修復の方法の一つ、欠けた部分はそのままにして残った破片だけを使う組み上げ修復による花瓶。元々の姿を思い浮かべることはできるが、逆に失ってしまったもの、取り返しのつかないもの大きさを実感する。
一方、完璧とも言える修復技術を見ることもできる。膨大な破片群の中から繋がる破片を探し出し、断面をクリーニングし、接合。さらに欠けた部分に素地を作って補い、残った破片の絵と同じように絵付けをしていく。


日本の陶磁器修復の第一人者である、繭山浩司氏により修復された大皿。修復により破壊される前の美しさが再現された。会場では修復の工程や技術についても紹介されている(下の写真)。繭山氏によると破壊された歴史も残すために、裏面はバラバラだった状態が分かるようにしたと言う。「戦争遺産」を後世に残す重要性を感じる場でもある。
特別展「海を渡った古伊万里」~ウィーン、ロースドルフ城の悲劇~
大倉集古館(東京・港区)
2020年11月3日(火・祝)~2021年1月24日(日)
会期中の展示替えなし
詳しくは公式サイトへ
(読売新聞事業局美術展ナビ編集班・秋山公哉)