400年間、ずっと「工事中」の街 「江戸の土木」展 太田記念美術館

葛飾北斎「冨嶽三十六景 遠江山中」 太田記念美術館蔵

「江戸の土木 ー橋・水路・ダム・大建築から再開発エリアまでー」展

太田記念美術館(東京・原宿)

2020年10月10日(土)~11月8日(日)

最近、土木工事やそれにまつわる地形、歴史的変遷などに関心を持つ人が増えている。「ダム人気」「暗渠マニア」「スリバチ学会」などを耳にしたことのある人も多いだろう。江戸・東京の街は家康の時代から現代に至るまで大規模な土木工事が途切れることなく続いており、そうした趣味の人にとっては「聖地」でもある。浮世絵の世界を土木の視点で眺めたらどんな光景が見えてくるのか。豊富なコレクションを誇る太田記念美術館ならではの企画展で、70点をテーマ別に7つのセクションに分けて展示している。

<1>橋

歌川広重「東都名所 両国橋夕涼全図」 天保(1830~44)後期頃 太田記念美術館蔵

同展を担当した渡邉晃上席学芸員は「土木の視点で作品を集めてみたら、自然とビッグネームぞろいの豪華な展覧会になりました」という。実際、70点中半数の34点が広重、8点が北斎、3点が国芳。それだけ土木に関するマターは、巨匠の創作意欲を刺激するものだったということだろう。

展覧会の冒頭は「橋」。作品も27点と一番多い。「橋は土木の花形です。技術の粋を集めたもので、形がかっこよく、人々が行きかう場所としての象徴性もある。ランドマークとして絵になりやすいのです」と渡邉学芸員。

歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」 安政4年(1857) 太田記念美術館蔵

世界的に有名なこの作品も、「隅田川の新大橋」と意識されることはあまりないかもしれない。元禄六年(1693)に、隅田川で三番目に架橋された。五十二日間の突貫工事で完成したといい、施工期間の短さに驚く。

一方、橋は定期的な修繕が不可欠で、幕府にとっては金食い虫の頭の痛い存在だった。例えば永代橋は地元に押し付ける形で払い下げられ、修繕が滞った結果、文化4年(1807)の深川祭で橋の一部が崩落し、死傷者・行方不明合わせて1400人を超える大惨事となった。

二代目歌川国明「千住大橋吾妻橋 洪水落橋之図」 明治18年(1885) 個人蔵

 

こちらはそうした橋をめぐる災害を描いた生々しい作品。千住大橋は家康の江戸入府から4年後の文禄三年(1594)に架橋された隅田川で最初の橋。明治まで原型をとどめた名建築だったが、明治十八年(1885)七月、台風による洪水で崩落。残骸が下流の吾妻橋にぶつかって同橋も損壊。さらに流れて下流の厩橋に迫ろうとするところを、水防団が懸命の作業で3次災害を防ぐ緊迫のシーンだ。土木の街である江戸・東京は同時に災害の街でもあり、復興としての土木もこれまた多い。

葛飾北斎「諸国名橋奇覧 かめゐど天神たいこばし」 天保4~5年(1833~34)頃 太田記念美術館蔵

ユニークな橋の造形も、名手に「記録にとどめたい」という思いを募らせたのだろう。急こう配で有名だった亀戸天神の太鼓橋。デフォルメではなく、実際にこのぐらいの傾斜があり、けがする人も多かったという。

<2>水路

幕府が江戸の造成で行った代表的な土木工事として、運河や上水などの水路の整備がある。物流や飲料水の確保という重要なミッションがあり、大規模なものも多い。

昇亭北寿「東都御茶之水風景」 文化(1804~18)頃 太田記念美術館蔵
現在のお茶の水周辺(昌平橋から)

神田上水は井の頭池を水源とし、江戸の町を潤した上水道のひとつ。江戸時代初期に下流部は神田山を削る大工事で外濠に連結された。仙台藩が工事を担当したので「仙台濠」と呼ばれた。今の呼び名は歌でもおなじみの「神田川」。当たり前のように川沿いを電車や地下鉄が行きかい、ここが人工の水路だったとは知らない人も多いだろう。江戸期の絵画をみると、いかに桁外れの土木工事だったかがイメージできる。

葛飾北斎「東都葵ヶ岡の滝」 天保4年(1833)頃 太田記念美術館蔵

首相官邸から指呼の距離で、交差点などに名を留める「溜池」。今は「どこに池があるの?」というコンクリートジャングルのど真ん中だが、かつては堂々たる池が現在の外堀通り沿いにあった。慶長十一年(1606)ごろ、飲料水を確保するための貯水池などとして、大名の浅野幸長が建設したといわれている。

<3>埋立地

家康の江戸入府当時は、現在の京橋・銀座あたりは江戸前島という半島状の地形になっており、日比谷のあたりまで入江が入り込んでいた。早い時期に日比谷入江は埋め立てられ、以降、八丁堀や築地、佃島、深川と各地で海側に向かって埋め立てが続けられた。

歌川広重「東都名所 佃嶋初郭公」 天保2年(1831)頃 太田記念美術館蔵

佃島は、寛永二十一年(1644)ごろに埋め立てられた。本能寺の変の際、家康を助けた摂津国佃村の漁師たちがのちに江戸へ呼ばれ、石川島の南に伸びる干潟を賜って土地を造成した。今は高層マンションが立ち並ぶ。

<4>大建築

江戸時代は天下普請の中心になった江戸城をはじめ、大名屋敷、寺院などで大規模な建築も盛んにおこなわれた。民間の大店も驚くべきスケールだった。

葛飾北斎「冨嶽三十六景 東都浅草本願寺」 天保元~5年(1830~34)頃 太田記念美術館蔵

浅草本願寺は一万五千坪に及ぶ広大な境内に伽藍が立ち並んだ。遠景の富士山と並べ、本堂の巨大さを表現している。

歌川豊春「浮絵駿河町呉服屋図」 明和5年(1768)頃 太田記念美術館蔵

 

三井越後屋、現在の日本橋三越。天井が高いのに驚かされる。天井からつるされているのは売り場担当者の名前。

<5>再開発エリア

現在も渋谷、日比谷などで大規模な再開発が進む。江戸時代も市街地の拡大にともなって寺社や遊郭、芝居町などの移転、再開発がたびたび計画された。

歌川豊春「浮絵和国景夕中洲新地納涼之図」 安永(1772~81)前期頃 太田記念美術館蔵

隅田川にかかる新大橋の少し下流あたりには、かつて中洲新地という歓楽街があった。明和八年(1771)から砂州の埋め立てが行われ、浜町と陸続きに。翌年には中洲新地が誕生し、大いに繁栄した。ところが風紀取り締まりや隅田川の治水の問題があり、寛政元年(1789)には取り壊しに。わずか十数年のにぎわいだった。

歌川広重「東都名所 吉原仲之町夜櫻」 天保(1830~44)中期頃 太田記念美術館蔵

吉原はもともと日本橋葺屋町あたりにあり、明暦の大火(1657)を機に浅草寺裏の日本堤へと移転。以降は新吉原と呼ばれる。東西一八〇間(約327メートル)、南北一三五間(約245メートル)という広大な敷地だった。

<6>土木に関わる人々

建設機械も自動車もない時代。江戸の土木工事は無数の職人たちが支えた。浮世絵には彼らの姿も活写されている。

葛飾北斎「冨嶽三十六景 遠江山中」 天保元~5年(1830~34)頃 太田記念美術館蔵

見事な画面構成で名高いこの作品。巨大な材木を正確に切断する職人の力量も表現もされている。前提となる大規模な土木工事という需要も見て取れる。

歌川広景「江戸名所道化尽 四十一 浅草御厩川岸」 万延元年(1860)正月 太田記念美術館蔵

職人仕事に失敗もつきもの。土蔵の壁などに欠かせない漆喰を塗る左官職人たち。

歌川国芳「子供遊土蔵之上棟」 天保(1830~44)末期頃 個人蔵

家の柱や屋根を組む大工たちを子どもの姿に置き換えて描いた作品。かわいらしく、国芳らしい奇抜なアイデアが光る。江戸の子どもたちはこうした職人仕事を見慣れていたはずで、かっこいい姿に憧れた子も多かっただろう。国芳はそんな心情に寄り添って制作したのかも。

<7災害と普請―安政の大地震>

作者不詳「浅草寺大塔解釈」 安政2年(1855)頃 太田記念美術館蔵

江戸の町はたびたび火事や地震などの災害に見舞われ、そのたびに大規模な普請が行われた。安政二年(1855)に起きた安政の大地震では、浅草寺の五重塔の九輪が曲がる被害を受けた。

いかに江戸・東京があっちこっちを掘り起こしては埋め、建てては壊し、壊しては建て、を繰り返してきたが分かる展示。有名作品が多く、渡邉学芸員が「純粋に絵を楽しむこともできるし、街の秘密を知る楽しみもあります」というとおりだ。現状の地形や建物を知っていると面白さが倍加するので、事前にグーグルなどで見ておくのもおすすめ。

会期:10月10日(土)~11月8日(日) 月曜休館

入館料:一般800円、大高生600円、中学生以下無料

詳しくは同館ホームページへ。

(読売新聞東京本社事業局専門委員 岡部匡志)

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