邦画のクラシック 懐かしさと新しさと 松竹映画の100年展

松竹第一主義 松竹映画の100年

国立映画アーカイブ 展示室(7階)(東京都中央区京橋)

2020年7月7日(火)~8月30日(日)

東京の蒲田に松竹撮影所が開設されてから今年で100年。その後、小津安二郎や木下惠介に代表される映画人や、「大船調」「男はつらいよ」「釣りバカ日誌」といった多彩な作品を世に送り出し、日本の映画界を支えてきた松竹。その歴史を5部構成で、豊富な資料とファンには嬉しいポスターで振り返る。(企画協力:松竹株式会社)

第1章 「松竹キネマの誕生―蒲田と下加茂」

蒲田撮影所の外観

1895年に松竹を創業し、歌舞伎などの興行で地位を築いた白井松次郎と大谷竹次郎の兄弟が、大衆娯楽としてマーケットを拡大していた映画の将来を確信し、東京・蒲田に撮影所を開設したのは1920年(大正9年)のこと。所長に就任した城戸四郎(のちに松竹社長)が、庶民の哀歓を描いた「小市民映画」で独自色を打ち出し、今日に至る松竹らしさの先駆けとなった。その城戸が打ち出したモットーが「松竹第一主義」。従来のスター中心の映画作りから、監督をメインとするディレクターシステムに切り替え、現代劇やトーキーに注力した。

映画の隆盛とともに、数多くの映画雑誌も創刊された。そのひとつ「キネマ」の表紙(第2巻 第9号、1924年10月)は竹久夢二のデザイン。夢二が一世を風靡していた頃で、メディアの盛り上がりを感じさせる。

また関東大震災を機に1923年、京都・下加茂に撮影所が開設され、時代劇の拠点となっていった。

下加茂撮影所で活躍した衣笠貞之助監督の『忠臣蔵 後篇 江戸の巻』(1932年)の自筆シナリオ。映画は大ヒットした。

第2章「“大船調”の誕生と戦争の時代」

蒲田の撮影所は1936年(昭和11年)、大船(神奈川県鎌倉市)へと移転する。「『蒲田行進曲』などの影響か、松竹というと蒲田のイメージは強いのですが、実はその歴史は16年と短いのです。そして大船調、が生まれます」と同アーカイブの濱田尚孝特定研究員。

“大船調”はハイセンスな喜劇やメロドラマなどが特徴。京都でも撮影施設などの制作の充実が図られ、名作が次々に誕生する。戦争の激化とともに、国威発揚を目的とする作品も作られていく。

田中絹代、上原謙主演、野村浩将監督の『愛染かつら』(1938―1939年)。大船調の代表的存在で、典型的なすれ違いメロドラマ。戦争の足音が日に日に高まる中、「花も嵐もふみ越えて 行くが男の生きる道」という西條八十作詞の主題歌もあわせて、女性ファンが映画館に詰め掛け、爆発的なヒットとなった。

『愛染かつら』の主題曲などの入ったSPレコード

大船撮影所の俳優らがサインを寄せ書きした日章旗。「祈武運長久」とあり、撮影所関係者が召集されたのだろう。

笠智衆や、

田中絹代もサインを寄せている。

戦争末期の1945年に、松竹らしからぬ勇ましいタイトルの『撃滅の歌』。国威発揚の国策映画だった。高峰三枝子、轟夕起子、月丘夢路というキャストに、作詞に西條八十、作曲に山田耕作、中山晋平らという豪華な顔ぶれ。

 

第3章「戦後の飛躍期の名作・話題作」

戦後の松竹映画は「リンゴの唄」で知られる『そよかぜ』(1945年、佐々木康監督)で始まる。そして50年代、日本映画の黄金時代を迎え、小津安二郎、木下惠介ら巨匠が次々と名作、話題作を生み出していく。

木下惠介監督、高峰秀子主演の『カルメン故郷に帰る』(1951年)。国産初の総天然色作品で、大ヒットした。ほぼ全編ロケによる鮮やかな色彩と、主役がストリッパーという設定で、新しい時代の息吹を感じさせる喜劇だった。

戦前すでに高い評価を得ていた小津が、戦後になり歴史的名作を次々と作る。『晩春』(49年)、『麦秋』(51年)、『東京物語』(53年)と続き、国際的にも巨匠として認知された。原節子も伝説的存在になっていく。「実物のポスターがもつ力はすごいですね。その時代の息吹を伝えてくれます。来館された方も釘付けになります」と濱田研究員。

小津については、彼がこだわりぬいたセットの写真アルバム、絵コンテなども展示されており、ファン必見だろう。

第4章「新しい“伝統”を求めて」

50年代後半から映画業界は急速に観客動員が減少し、「斜陽」の時代となる。苦しい時期、同期入社の大島と山田洋次が大きな足跡を残す。海外展開に力を入れていたことも興味深い。

大島監督の『青春残酷物語』(1960年)の国際版ポスター。

『男はつらいよ』第1作(1969年)のポスター。その後も変わることない寅さんの佇まい、「おにいちゃん!」の声が聞こえてきそうなさくらのキャラクター、と作品の骨格が最初から確立していたことが感じられる。ただし、ポスターとしては至極あっさりしたものだ。「ごくごく普通の作りです。これから50年続くすごい作品になるとは、当時は誰も思っていなかったでしょうから」(濱田研究員)。

テレビで人気を博したタレントの起用も目立つ。ドリフターズの『やればやれるぜ全員集合!!』(1968年)、『コント55号と水前寺清子の神様の恋人』(同)。コント55号とチーターは当時、「超」のつく人気者。多忙なスケジュールの合間を縫うように製作されて年末に公開、69年のお正月映画として大ヒットした。

海外市場に活路を求める動きもあった。主な輸出先は日系移民の多いアメリカやブラジルで、それなりの売り上げもあったという。輸出用のポスターの展示も興味深い。『伊豆の踊子』(英題「The Izu  Dancer」)は1960年の制作。田中絹代、美空ひばり、吉永小百合、内藤洋子、山口百恵、とスターが演じたヒロイン薫を、ここでは当時14歳の鰐淵晴子が演じた。その可憐な姿は印象的。相手役の一高生は津川雅彦。

松竹らしい文芸大作も健在だった。野村芳太郎監督、橋本忍・山田洋次脚本という最高の顔ぶれで作られた『砂の器』(1974年)。圧倒的なクライマックスは日本映画史上に残る名場面。

第5章「松竹映画の現在―平成から令和へ」

寅さんに続き、松竹の看板を背負ったのは『釣りバカ日誌』だろう。第一作は1988年に公開。

こちらも「スーさん」「ハマちゃん」「合体」・・が聞こえてきそうなキャラ立ちぶり。

「釣りバカ日誌」の社員証、給与明細、勤務評定、社名入り封筒なども展示されている。スクリーンに映るか映らないか、という小道具だが、いかに制作サイドがリアリティを求めているかがうかがえる。

宮沢りえの熱演が印象に残る『豪姫』(1992年)の衣装も展示。

北野武監督の作品を世に出したことも大きな功績のひとつだ。『ソナチネ』(1993年)、『その男、凶暴につき』(1989年)のポスター。

国際的にも高い評価を得た『おくりびと』(2008年、滝田洋二郎監督)の国際版ポスター。

現在、新型コロナウイルスの影響で、世界中の映画界がかつてない苦境に追い込まれている。元通りの興行がいつになったら再開できるのか不透明な状況だが、戦火や斜陽の時代もタフに生き抜いてきた松竹。これからも日本の映像文化のために貢献してほしい、と切に願う。詳しくは同館ホームページへ。

(読売新聞東京本社事業局専門委員 岡部匡志)

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